第102話

 こんなところに居るはずのない、フィリップ渾身の逃走によって3キロ以上は離れたはずのステラがいる。彼女こそ先ほど見た、フィリップの行く手を遮る位置にいた人影の正体だ。それだけでも驚愕に値するが、彼女は朗らかに笑いながらこちらへ駆け寄ってくる。もはや意味不明だった。


 「な、何やってるんですか!? 早く離れてください!」


 慌てて魔術をキャンセルし、ステラの方へ走る。

 召喚直前だったクトゥグアを警戒してか、「ゾス星系よりのもの」の追撃は無かった。


 血相を変えて駆け寄ったフィリップに、ステラは困惑交じりの微笑を向ける。


 「無事でよかったよ、カーター。そんなに慌ててどうしたんだ?」

 「どうしたって、な、あ、えぇ!?」


 フィリップの後ろで三対の単眼をじっとこちらに向ける異形が、まさか目に入っていないのか。あの20メートルもの巨躯が? 有り得ない。

 だが現に、ステラは既に戦闘が終結したかのような温度感だし、正気を損なう外見の「ゾス星系よりのもの」を見ても何の反応もない。いや、見えていないような反応をしている、と言うべきか。


 視界のチャンネルを魔力に合わせているのだろうか。このだだっ広い戦闘用の無味乾燥な空間で魔術罠を警戒するのは、彼女らしいといえなくもない。だがそうだとしても、「深きものども」は見えたのだ。全くの同種ではなくとも近縁種である「ゾス星系よりのもの」だけが見えないとは考えにくい。

 

 見えていないなら好都合と思考停止して、彼女をもう一度走らせるべきだろうか。

 その場合、もう走れそうにないフィリップはこの場で十数分の耐久戦、遅滞戦闘を強いられることになる。魔力には多少の余裕があるが、体力はギリギリだ。現実的ではないし、実現性に乏しい。


 それに、3キロ以上は離れたはずの、スタート時点でほぼ直角に走り出したはずのステラがフィリップの正面から現れた理由も定かでは無いのだ。

 砂漠では円を描いて歩いてしまうというから、フィリップとステラの歩く方向の歪みが噛み合ったとかだろうか。或いは、空間が曲がっているのか。そもそも別行動できないようになっているのかもしれない。


 「っ!」


 背後で「ゾス星系よりのもの」が動く。

 これ以上の思考は無理のようだ。


 「殿下、とにかく反対側に走ってください!」

 「は? 何を言ってる?」


 打てば響くというか、この空間に於いてはフィリップの方が正確な判断を下せると考えていたステラが、ここに来て疑問を呈した。それだけでも面倒極まりないタイミングだと舌打ちの一つもしたくなるような状況だが、フィリップはその瞳の奥に、覚えのある光を見た。


 ここではないどこかを見据える焦点の合わない目は小刻みに揺れ動き、深い恐怖や強烈な動揺を反映している。指先や口元が微かに震え、身体は明確に恐怖しているのに──何も感じていないように振る舞おうとしている。


 彼女の双眸は「ゾス星系よりのもの」を確かに見ている。だが脳、精神がそれに耐えきれず、「そこに恐怖するようなものは何もない」という補完をしているのだ。


 激烈な恐怖に対して、その恐怖を払拭したいという思い、いや機能が、恐怖の根源を認識させないという方法でそれを実行しているのか。

 現実逃避は人間に備わっている基本的な機能だ。だから、それ自体に異常性はない。だが恐怖の対象を完全に認識できなくなるレベルとなると明らかに異常だ。人はそれを「狂気」と呼ぶ。


 「このっ……」


 このタイミングで!? などと悪態を吐いている余裕はない。

 「ゾス星系よりのもの」は既に片腕を振り上げ、攻撃体勢に入っている。ほんの数秒未満でそれは振り下ろされ、フィリップとステラを厚さ数センチの肉塊へ圧縮する。


 「──ッ!」


 ステラを押しのけ、その反動で自分も飛び退く。振り下ろされた腕に対して垂直に飛べば、まだ避けられる速度だ。

 まだ先程のクトゥグア召喚が効いている。召喚直前でキャンセルしたとはいえ、フォーマルハウトにて燃え盛る火属性の最大神格の気配は感じたはずだ。あれが出てくれば、存在の格に劣る兵士個体の「ゾス星系よりのもの」なんて一瞬で焼却されるから、警戒せざるを得ないはずだ。


 いつまで持つ? どの時点で、奴はフィリップがそれを召喚しないことに気付く? あいつにステラの価値を察するだけの知性はあるのか?


 「痛いじゃないか、カーター」


 ステラがへらへらと笑いながら立ち上がる。無事を喜びたいところだが、その態度で仮説はほぼ確定した。

 普段のステラなら、フィリップが急に突き飛ばした程度で飛び退いたりしない。体重的にも、体幹的にも、フィリップがフィジカルでどうこうするには年季が足りないのだ。それに、普段の彼女なら「何のつもりだ」と詰問してくる場面だろう。


 彼女は、或いは彼女の本能は、半ば自発的にあの攻撃を回避した。見えているから、目を逸らしているだけだから──致命的な攻撃を、身体が自動的に避けてくれた。

 見えているが、認識しようとしない。しかし見えているから避けられる。見えているのなら、フィリップが対爆防御姿勢を取れと言ったら従うだろうか。


 確証はない。

 見えている状態で最も合理的な判断は「近付かない」ことだろう。遠目に見えた時点で踵を返すのが正解のはずだし、普段のステラなら間違いなくそうする。走れというオーダーに疑問を呈したのは、「そこには何もいない」という認識の修正、或いは強迫観念によるものだろう。


 彼女の本能は「そこには何もいなくてはならない」と意識に対して強要している。

 そこに「ゾス星系よりのもの」がいると、彼女の正気が損なわれるからだ。だから必死に「いない」と思い込んでいる。──そう考えていいだろう。


 本能的な回避はできる。だが意識しての逃走はできない。逃走するということは、そこには「逃げなくてはいけない何か」がいることになるから。

 では、防御姿勢は?


 少し考えて、フィリップは苦笑と共に思考を放棄した。

 狂人の思考など、考えるだけ無駄だ。普段の彼女の思考には貫徹した合理性があったけれど、今は理性も本能も健常な状態にない。


 それに──どうせ狂っているのなら、その振れ幅は大した問題じゃあないだろう。そう、フィリップの中にある非人間的な部分が囁く。


 「命があるなら大黒字ってね」


 強盗に襲われたときの心得が出てくる時点で、状況は最悪に近い。

 だが、まぁ。元より──ヒトとは、そういう脆い生き物だ。簡単に狂い、簡単に死ぬ。ステラの正気を守れなかったのは残念だが、残念だね、程度の感傷だった。


 「殿下、対爆防御を」


 言うだけ言って、義務は果たしたとばかり、さっさと詠唱に移る。

 もはやフィリップにとってステラは守るべき対象ではなく、既に守れなかった過去の失敗として認識されていた。積極的に殺そうとまでは思わないけれど、既に狂っているのなら、少なくとも彼女の正気に気を配る必要は無い。そう判断する。


 「いあ いあ はすたあ はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい あい はすたあ」


 いつも通りの魔法陣が展開され、空中へ幾何学模様を投影する。

 そしていつも通りに、ハスターの毛先じみた存在の断片、吹き荒れる暴風が召喚される。「ゾス星系よりのもの」にとっては警戒に値するものの、致命傷には程遠い一撃。フィリップの魔力を浪費するだけの無意味な攻撃──そのはずだった。


 ぞる、と。聞き覚えの無い、生物的に湿った音を立てて、手元の『門』となる魔法陣から真っ黒な触手が飛び出す。

 全く予想外の光景にステラだけでなく、フィリップすら目を瞠る。


 真っ白な空間に、真っ黒な雲が立ち込める。

 爛れもせず、泡立ちもせず、しかしいつか見たような光を呑み込む色の雲だ。


 蠢きのたうつ黒い触手が複雑に絡み合い、無数の吸盤が並ぶ表面を擬態する蛸のような極彩色に変える。それはやがてヒトガタを象り、黒い身体と、それを覆う黄色い外套のように成形された。

 人型の顔に当たる場所には、クエスチョン・マークを3つ合わせたような奇妙な模様の仮面が貼り付いている。


 その威容ならぬ異容だけでなく、大小さまざまな無数の触手の一本一本、その末端部からでさえ、例の『毛先』を数十倍するほど膨大な、神威にも似た悍ましい気配が感じ取れる。

 

 触手で編まれた首が骨格を持たない動きでうねり、白い仮面がフィリップを見遣る。


 そしてフィリップが何か行動を起こすより早く、黄色の外套の裾が爆ぜ、中から無数の触手が噴き出す。それらは無尽蔵な波のように広がりながらフィリップとステラを巻き込み、潰す寸前の力で空中へと持ち上げた。

 すわ暴走か、試験失敗かと表情を歪めたフィリップの悲観に反して、それ以上の圧搾は無かった。どころか、フィリップの苦痛の呻きに反応して、触手の縛りが僅かに緩む。


 死の危険が遠ざかって漸く、フィリップは何が起こったのかを理解することが出来た。


 「……ハスター? なんで」


 なんでも何もない。彼こそはフィリップがこの二月、召喚しようと悪戦苦闘していた風属性の最大神格、ハスターそのものだ。

 まぁ、その二月の間、ずっとビヤーキーか「毛先」しか出てこなかったので、どうして今になって成功したのかという疑問は妥当ではある。


 「なんで、とは。随分な物言いじゃあないか? 魔王の寵児よ」

 「ッ!?」


 耳触りの良い、中性的で穏やかな声色。紡がれたのは流暢な大陸共通語だ。

 人のような形で、人の言葉を使い、人に合わせて顕現している──人に手を貸すときのハスターとして、それなりにメジャーな化身だ。黄衣の王。そう呼ばれる姿。


 「……だが分かるよ。君にしてみれば、私は招来を乞う幾度もの祈祷を悉く無視した悪神だ」

 「悪神とは、邪神の自称にしては平穏過ぎませんか?」


 両腕が触手で拘束されていなければきっと中指を立てていただろうと容易に窺わせる、苛立ちの透ける声で答える。


 「でもね、君にも問題はあるよ。君が使っていた祈祷文、あれは風属性の王を讃える言葉じゃあないか」

 「そうですけど……?」


 だから何、とでも言いたげなフィリップに、彼は思索するように首を傾げた。


 「ふむ。君にそれを教えたのは、ナイアーラトテップか、それとも父上かな」


 父という言葉から想像される良性の感情を全て捨て、代わりに汚水と泥を煮詰めたものを混ぜ込んだような声色だった。

 憤怒、嫉妬、羨望、憎悪などを無機質な仮面の奥から読み取り、フィリップは怪訝そうに表情を歪める。ハスターの父親に当たる存在に心当たりがないからだ。


 旧支配者はいわゆる邪神だが、その性質は信仰に拠って生まれた共同幻想ではなく、「神と呼ぶべき強力な生物」という方が正しい。つまり発生し、成長し、確立するという時系列が存在し、当然ながら発生源もある。

 たとえば、クトゥルフはゾス星系に定着した異星の生命の一個体だ。今もゾス星には大量の同族が犇めいていることだろう。


 だが、それはくくりとしては余りにも大枠だった。フィリップを「地球に棲む人間」と捉えるのと同等の大雑把さである。

 旧支配者ごときの発生源にいちいち気を配っていないのか、フィリップに与えられた智慧にそれ以上の情報はない。ハスターが黒いハリ湖を居城にしているとは知っていても、どのように生まれたのかは知らなかった。


 「父? 申し訳ないですけど、そんな知り合いはいませんね」


 ついでに言うと、脆弱な旧支配者に知り合いが欲しいとも思わないし、何なら外神にも欲しくはなかった。

 

 そんなフィリップの反応に、彼はフィリップたち同様に触手の大波によって捕えていた「ゾス星系よりのもの」を一息に握り潰した。苛立ちを紛らわす、八つ当たり程度の労力だった。

 絞り出された内容物が吹き上がり、雨のように降り注ぐと、周囲には得も言われぬ悪臭が漂った。どす黒い血液と青白い内臓が黄衣の表面を伝うさまは、見ているだけで吐き気を催すものだったけれど──それ以上に、自分もああなるのではという懸念が湧く光景だった。


 潰されるのではないか、ではなく。ゲロ以下の汚物に塗れるのではないか、という恐怖だ。

 幸いにして、フィリップの方には血が数滴飛んできただけで、それも服や髪には付着しなかった。


 「……そうかい。君に教えるまでもないと判断したのか、それとも認知の外なのかは定かでは無いけれど……魔王の寵児よ」


 唐突に降って湧いた悪臭にえづくフィリップに、ハスターは平坦なほど穏やかに抑えられた声で語り掛ける。


 「外なる神の副王、ヨグ=ソトースこそ我が父だ」


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 tips:「ゾス星系よりのもの」

 太陽系外に位置する「ゾス星」に棲む旧支配者の総称。種族名。クトゥルフの同族。

 クトゥルフのようなテレパシー能力に長けた支配個体、戦闘に特化した兵士個体、劣等種である奉仕個体、支配個体が産み落とす星の落とし子などがいる。

 星間航行能力を持ち、真空や極高温・極低温環境下でも平然と活動できる。別に水棲ではない。

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