第101話
たとえば、高所から水に飛び込むとき。あるいは、ちょっとした湖くらいの水量が降ってくるような特殊環境下。そういう場合に守らなければいけない部位は、鼻と耳だと言われている。
鼻と口は呼吸器に繋がっているが、口は閉じることができ、その力も強い。しかし鼻を自発的に閉じることはできず、鼻の奥にある骨が折れたりすると脳にまで影響が及ぶ。鼻から大量の水が流入し、脳や呼吸器を害さないよう、鼻をつまんだり、腕で覆ったりして守ることが重要だ。
耳も、自発的に閉じることができない器官の一つだ。水が入って耳が遠くなるくらいなら即時の影響は無いが、耳の奥には平衡感覚を司る三半規管がある。これが壊れると、最悪、水面へ向かっているつもりで深部へ泳ぎ続けるようなことだって有り得る。岸へ上がった後も、まっすぐ立つことも難しいだろう。
鼻だけ覆ったフィリップと、耳だけ覆ったステラ。
最悪、フィリップは直立困難になり、ステラは溺水して、二人ともが戦闘不能になる可能性だってあった。
「……無事だな?」
「はい……」
だから、まぁ。全身ずぶ濡れになった程度で済んだのは、とても幸運なことだった。その上、水に流されたおかげで「ゾス星系よりのもの」から大きく距離を取れている。
濡れた髪をかき上げ、顔を拭う。水を吸った服がべったりと纏わりついて動き辛いが、幸い、フィリップは魔術型だ。行動の阻害と戦闘力の低下はイコールではない。
「痛っ……」
「大丈夫ですか? ……あぁ、傷が」
ステラが右手を押さえて激しく顔を顰める。
彼女の右手を貫通する傷は、化膿止めと包帯、あとは内用の鎮痛剤程度の処置しかしていない。海水に浸したりしたら、それはもう激痛が走ることだろう。もしかしたら鎮痛剤の効果が薄れてきているのかもしれない。
もう試験は最終局面だろうが、だから我慢しろというのも酷だ。傷を付けた張本人としては、流石に心が痛む。
鎮痛剤を取り出そうとポケットに手を入れ。反対側のポケットに手を入れ。嫌な予感を覚えつつ、一応ジャケットの内ポケットも確認して。そういえば書斎の机に置いてきたぞと思い至る。
振り返っても無限に白い空間が広がるばかりだし、見えないほど遠くに扉があったとしてもそこまで逃げるのは不可能だ。
「あの、例のポーチって持ち出せましたか?」
「いや。寝て起きたらここに居たというか、ここに連れてこられた衝撃で起きたんだ」
「そうですか……。とにかく、再出血しないように押さえて、できるだけ遠くに走ってください」
事ここに至り、ステラの助力を当てにするわけにはいかない。というか、彼女が助力できることなど無いと考えていいだろう。いくらゾス星系よりのものが外神に比べてマイルドな外見だと言っても、直視すれば発狂するリスクがある。防御性能も、まさか人間の振るうナイフで殺せるほど弱くはないはずだ。
クトゥルフ撃退の方法に「大型船舶による突撃」が挙がる辺り、「人間では倒せない」と断言できないのが面倒なところであり、フィリップの胸に灯る希望だ。
もしかしたら、クトゥグアを使わずに勝てるかもしれない。
「お前はどうするんだ? さっきの奴を一人で……なんだ?」
「あっちを見ないで。向こうはソドムだと思って、振り返らずに走ってください」
先程まで二人が居た方を振り返ろうとしたステラの肩を押さえ、止める。
今やゾス星系よりのものはほぼ成体となり、天井からゆっくりと降りてくるところだった。
「勝算があるんだな?」
確信があるような問いに頷くと、ステラも頷きを返して走り出した。その足取りに迷いはなく、少なくとも一定以上の距離を開けるまで止まることは無いだろうと確信できる。
「……流石」
勝算なんてないし、彼女を騙せるほど嘘が上手いわけでもない。
だがこの場で攻撃能力を持つのはフィリップだけで、そのフィリップはずっと「ステラがいては攻撃に支障が出る」と言外に示し続けていた。この最終局面であの異形を相手に、自分がいては邪魔になると悟ってくれたのだろう。
クトゥグアはともかく、ハスターの毛先を使うことに憂いは無くなった。
「あとは僕がお前を殺せるか、という話なんだけど」
兵士個体のゾス星系よりのもの、クトゥルフの兵。直接戦闘能力ではクトゥルフを超え、星間航行に耐える肉体強度を持ち、対神格戦でも通用する魔術・物理攻撃能力を当たり前のように備えている。
人間が一対一で戦うような存在ではない、というか、人類を単騎で殲滅できるかもしれない存在だ。
重力を中和したような緩慢な落下を続けるクトゥルフの兵。長い腕に備わった翅のような形状の翼膜は、風を捉える飛行器官ではなく星間航行に使われるものだ。
肥大した蛸のような頭部にはひげ状の触手が無数に蠢き、内臓が入っていないのではないかと思わせるほど細い胴体とは対照的だ。
三対の青白い単眼は動かないが、フィリップは向けられた視線を鋭敏に感じ取った。
「■■■■──」
耳孔の内を無数の蛆虫が這い回ったような、耳障りで湿った音。それはゾス星系よりのものの発した音だと、与えられた智慧が教えてくれた。
フィリップは苦笑し、呆れたように首を振る。
「いや、訊ねたわけじゃないんだ。発声器官──というか、「口」にあたる器官がないことは知ってるから、その音はやめてくれ」
「ゾス星系よりのもの」は、発声機能や口に該当する器官を持たない。
彼らの思考は支配者個体がテレパシーによって読み取るし、彼らに食事の必要は無いからだ。彼らに意思疎通機能や摂食器官は不要であり、不要であるがゆえに備わっていない。
人語を解さない旧支配者に何を言っても無駄だろうと、フィリップは踵を返す。
そして脱兎のごとく全力で、ステラと「ゾス星系よりのもの」から離れるように走り出した。敵の気を引く挑発も兼ねた攻撃準備として、風属性の最大神格を讃える言葉を唱えながら。
「ゾス星系よりのもの」がフィリップを即座に殺さなかったのは、逃げる下等生物を追って殺すような習性がないからだろう。
あれの設計コンセプトは「兵士」。クトゥルフのような人間で言うところのお貴族様では敵わない敵対勢力に対する戦力であり、そのお貴族様が寝惚け眼で欠伸混じりに殺せるような劣等種を殺すようプログラムされていない。
とはいえ、眼前でハスター──敵対存在を讃える言葉を唱えられては冷静でいられなかったのか、緩慢な動きで追跡を開始した。
詠唱を終え、牽制になってくれと願いながら一撃を入れる。
横方向に伸びる竜巻が「ゾス星系よりのもの」の胴体に突き刺さるが、暴風が晴れた後には傷一つない黒光りする体表が見えた。
「これじゃ無理か……」
見る限り、ダメージはなさそうだ。
少しでもダメージがあるのなら魔力欠乏でぶっ倒れるまで撃ち込んでやるつもりだったけれど、ゼロはいくつかけてもゼロだ。あまり魔力を浪費すると、実質的に切れないだけの切り札が、本当に切れなくなってしまう。
クトゥグアの破壊範囲は、フィリップの技量──魔術ではなく、「こうしてくれませんか?」という交渉の技術だが──を最大限に活かしても街一つ分はある。ステラと離れる方向に走っているとはいえ、正反対ではなく90度くらいだ。距離を稼ぐにはもう少し時間がいる。
幸い、相手はそこまで本気で殺そうとしてこない。反撃を諦めて走ることに集中すれば、十分に──
「ッ!?」
眼下、真っ白な床に薄く水が張ることで鏡面のようになった足元に、真っ黒な影が映る。
それはフィリップの頭上から真っすぐに振り下ろされる、極太の触腕による攻撃だった。本体は数十歩は後ろにいるのに、フィリップの十数歩先までを潰す、長い一撃。加減速による縦移動での回避は不可能だろう。
「──!!」
思い切って横向きに飛び込むと、一瞬前までフィリップがいた位置に触腕が直撃する。床面に張った水が大質量の激突で爆ぜ、飛び散った雫は礫のようにフィリップを打つ。
小さな水滴とはいえかなり痛いが、死にはしない。ならば呻くのではなく、一刻も早く起き上がって走るべきだ。あのてらてらと黒光りして気色の悪い触手に押し潰され、最悪の目覚めを迎えたくないのなら。
「は、はははは! おいおい、人間風情に避けられちゃって、大丈夫かゾス星系! そんなだから、いつまで経っても旧神如きを殲滅できないんだよ!」
紙一重の回避で大量分泌されたアドレナリンの興奮作用に任せて、「ゾス星系よりのもの」を煽る。口調はともかく、言葉選びのセンスがナイ教授に似ていることを指摘する者はいなかった。
フィリップが好む物語ならこの煽りを前口上に切り札を開陳するところだけれど、残念ながらフィリップは英雄や勇者ではない。煽り終えるどころか、その途中で踵を返し、再び全速力の逃走を開始した。
その背後では人語を解さない「ゾス星系よりのもの」が触手を移動に適したもとの大きさまで戻し、追跡を再開する。
攻撃、回避。攻撃、回避。
「ゾス星系よりのもの」の全く本気ではない追跡と攻撃を、全身全霊で逃走し回避すること十数分。
「ははは! はは……はぁ……はぁ……きっつ……」
フィリップのスタミナが切れかけていた。
やや前傾姿勢で顎を突き出しながら走るそのフォームは、典型的なスタミナ切れの兆候であり、持久走の授業でよく見られるものだった。
その後ろを悠々と、「ゾス星系よりのもの」が浮遊してついてくる。
攻撃間隔が初めより広くなっているのは、フィリップを煽っているのか、確実に仕留めるためにもっと弱らせようとしているのか。どちらにせよ、フィリップがまだ生きているのは「ゾス星系よりのもの」が依然として本気ではないからだ。
「もう無理……もう、もうそろそろ……いいかな……」
まぁ何となく、ステラがフィリップの1.5倍くらい健脚だとして。体感的にはいつもの授業と同じ2000メートルくらいは走ったから、二人の距離は3、4キロくらいか。
フィリップの照準能力を鑑みた確殺圏内ではないにしろ、安全だと断言できる距離でもない。
「も、もうちょっとだけ……」
あと10歩。もうあと10歩。持久走の授業のように、ただそれだけを考えながら足を動かしていると、不意に前方に人影が現れる。その距離はおよそ100メートルといったところか。
ちょうどフィリップの行く手を遮るような位置に、スタミナも限界を迎えたタイミングで現れた人影だ。友好的な存在である可能性より、フィリップに止めを刺す存在である可能性の方が高い。
「はぁ……はぁ……。も、もう無理か……流石に……」
度重なる緊急回避と狩り立てられながらの長距離走で、両足はガクガク、膝や腕はボロボロだ。所々流血も見られる。
肉体的にも、根性も、そろそろ限界だった。
現実へのフィードバックで幻肢痛ならぬ幻筋肉痛になったら笑えるなと内心で苦笑しながら立ち止まり、「ゾス星系よりのもの」を迎え撃つように相対して立ち止まる。
膝に手を突いて肩で息をしながらでは格好は付かないが、「ゾス星系よりのもの」は警戒も露わに動きを止めた。
警戒──そう、警戒だ。
「ゾス星系よりのもの」に、人間如き劣等存在を狩り立てる設計思想はない。それは常に、クトゥルフ級の存在である支配個体の「ゾス星系よりのもの」が敵わない相手との戦闘を担う個体であるが故に。
では人間、それもたかが11歳の子供が十分間も逃げ回れる相手なのかと言われれば、それは勿論NOだ。尤も、並の人間なら相対しただけで発狂しかねないが。
さておき、フィリップがこうして2000メートルプラスアルファを完走できたのは、「ゾス星系よりのもの」が全く本気では無かったからだ。それはフィリップの想定通りだが、理由は違っていた。
「ゾス星系よりのもの」が本気では無かった──全力でフィリップを殺しにかからなかったのは、フィリップに対して大きな警戒心を持っていたからだ。
理由は言うまでもない。シュブ=ニグラスやナイアーラトテップの気配を漂わせ、敵対者であるハスターの居城へ接続する魔術を使う劣等存在を相手に、警戒しない方がおかしいだろう。
「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ほまるはうと──」
詠唱に従い、掲げた右手を中心に魔力が渦巻く。
クトゥグアの居城たるみなみのうお座α星フォーマルハウトへ接続する「門」の役割を果たす魔法陣、クトゥグアを使役するための意思疎通術式、術者を最低限守護する魔法陣が順番に展開され、空中に幾何学的な模様を刻む。
「──うがあ ぐああ なふるたぐん」
照準対象は眼前の「ゾス星系よりのもの」と、背後の人影だ。なるべく破壊範囲を小さくするよう、強く念じておく。
あとはヤマンソが出てこないよう、当ても無く祈るだけだ。この運任せの欠陥システムは、いつか何とかしなければ。
「いあ──」
まぁ、それも今はどうでもいいことだ。
いま気にするべきは、眼前の劣等存在を焼却すること。それだけであり、それ以外を気にしている余裕はない。破壊範囲が広がれば広がるほど、この空間のどこかを走っているステラが焼き殺される可能性が高くなる。
「Cthu──」
「──カーター!」
大破壊の引き金に指をかけていたフィリップの背中に、ステラの明朗な呼びかけが届いた。
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tips:『招かれたもの』
クトゥルフの思念に共鳴し、遺伝子が変異した元人間。「深きもの」を現地調達しようと試みたものの、結局「深きもの」が人間と交配した方が良質な信者になるのでクトゥルフはこの計画を放棄した。
人間の知性が残っており、魔物に近い「深きもの」を見下す傾向にある。
肉体性能・魔術性能は人間並みだが、騎士レベルの肉体と魔術師レベルの魔力を併せ持つというのは、並の人間ではできないことである。
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