第100話
ルキアは努めて普段通りに、冷静に、優雅に、廊下を歩いていた。
感情の昂りに呼応して高まった魔力が暴風の如く吹き荒れ、魔力抵抗力の弱い生徒が当てられて失神する程度には普段通りでは無かったが、有象無象の反応に一々注意を払わないのはいつも通りだった。
目指す先はナイ教授の研究室だ。
いつものように補習に行ったフィリップも、きっとそれを覗き見に行ったステラも、そろそろ夕食だというのに帰ってこないからだ。ただ長引いているだけならいいが、妙な胸騒ぎがする。
もし、フィリップやステラの身に何かあったら。そう考えるだけで身の毛がよだつ。
「──失礼します」
ノックもせず、フィリップの補習が始まった初日に特定していた研究室の扉を開ける。
基本的に破綻者であるルキアは、特別な覚悟や決意無しに殺人を犯すことができる。だから今回も、特にナイ教授をどうこうしようという明確な意識は無く、しかし数ある中の一つとしてナイ教授の殺害という選択肢も視野に入れて、この部屋を訪れた。
フィリップがそれを知っていれば血相を変えて止めに来るだろうが、生憎、彼はいま意識空間で莫大な量の海水に押し流されている最中だ。
「おやおや? 珍しいお客さんですねー。どうしたんですかぁ?」
「フィリップとステラを探しに──ッ!?」
媚びるような声に苛立ちながら、ルキアとしては穏当に、その実、威圧感を与えるどころでは済まない魔力を撒き散らしながら部屋を見回す。
整然とした錬金術の工房、そのソファにフィリップが、そのすぐ下の床にステラが寝かされていた。
二人の苦し気な寝顔に、自発的な睡眠ではなく外的要因による昏睡ではないかという疑念が湧く。
「貴女は──何を」
普通は平民をソファに寝かせ、王女を床に寝かせはしないだろう。最低でも逆で、ベッドか何かを用意すべきだ。
だから、眼前の少女は普通ではないのだろう。少なくともステラを、第一王女にして聖人を軽視し、平民の子供を重視する何かがあるのだろう。
「二人を起こして」
彼女としては穏当に、まずは言葉でそう伝える。
「うーん……?」
ナイ教授は小動物じみた仕草で小首を傾げ──
「フィリップ君は、君に何も伝えていなかったのですね」
背後で、扉に鍵のかかる音を聞く。
ほんの一瞬、瞬きの後に、眼前には猫耳の少女ではなく、長身痩躯の男が立っていた。
「っ!?」
コンマ数秒前の記憶と視界の整合性が無い。
不連続な視界に脳が混乱し、思考が凍結され、視界の分析にリソースを奪われる。
無意識に魔術を照準しようとしたのは、彼女が磨き上げてきた戦闘センスゆえ。
そして混乱した頭でそれを中止し、上がりかけた右手を制止できたのは、彼女の状況把握・判断能力が卓越している証だ。
「貴方は……ナイ、神父?」
ルキアが抱いた無自覚な恐れと畏れ、そして忌避感や嫌悪感が、彼女に一歩分の後退を強いる。
ルキアはナイ神父に会うと、いつもこうだ。
あの森でも、田舎町の宿屋で過ごした数日も、二等地の教会に行ったときも、今も。フィリップが傍にいないと、手足の震えが止まらなくなる。
怖気を催す、虫唾が走る、肌が粟立つ、胃が縮む、筋肉が強張る。
恐怖や拒絶感を反映するあらゆる器官、あらゆる組織が、眼前の存在を畏れよと強いてくる。
ナイ神父は動けないルキアに「ご明察です」と笑いかける。明察も何も、姿形が一緒なのだから、嘲弄以外の何物でもなかった。
とはいえ、ナイ教授の姿を象り、魔力の質どころか存在の格すら偽証していたナイアーラトテップを、ナイ神父とイコールで結ぶのは不可能だ。彼が本気で欺瞞すれば、あの宮殿に接続し、ナイアーラトテップ本体の気配を記憶しているフィリップでさえ騙される。
「意外ですね。あのフィリップくんが、君をそこまで大切にしていたとは」
ナイ神父はゆっくりと、革靴を鳴らしながらルキアの方へ歩いてくる。
ルキアの本能は全力での逃走を促してくるが、彼女の理性がそれを黙らせる。それは染みついた美意識と、ナイ神父に対する「フィリップの保護者」という認識によるものだ。
彼を前に美しさに拘泥できる徹底ぶりにはフィリップも舌を巻くだろう。
だが、それだけだ。
何も言えない。何もできない。何も考えられない。ただひたすらに、眼前の存在が恐ろしい。
「彼の寵愛に免じて、私の忠誠を妨げようとしたことは不問にしましょう」
耳孔を這い回るような、耳触りの良い、耳障りな声。
耳に届いた言葉が脳で処理されず、単なる音として聞き流される。
彼の一挙手一投足に気を配らなければ、いや、全神経を集中していたとしても、彼の一挙動で殺されるという確信があるのに。警戒も準備も許されず、必死に逃げ出したがる身体を押さえつけている。
「もう少し早く来て下されば、彼女より強力で有力で有効な設計にできたのですが」
ナイ神父の口角が、ルキアではない誰か、ここではないどこかを想像して吊り上がる。
だがすぐに、彼は「いえ」と自分の案を自分で棄却した。
「いえ、駄目ですね。君を捨てる選択を強いられたその時点で、彼はきっとパパとママに泣きつくでしょう。それでは試験になりません」
ルキアが理解できないことを、彼女に理解させるつもりも無いことを、ナイ神父は嘲笑交じりに独り言ちる。
「もういいですよ」
興味が失せたというように、ナイ神父はルキアに背を向け、ひらひらと手を振る。
背後で鍵の作動する音に続き、引き戸が独りでにゆっくりと、微かに開いた。出て行け、という意思を強く感じるが──まだだ。
まだ、伝えるべきことが残っている。
「──ナイ、神父」
「……何でしょう?」
恐怖に震え、しかし確固たる意志を滲ませる声に、ナイ神父はなんの感情も抱かずに応える。
「貴方が、シュブ=ニグラス様に類する存在であることは、分かっています」
ほんの数分の会話で刻み付けられた恐怖と、これから自分が犯そうとしている愚行を止めようとする本能が、息を詰まらせ、鼓動を加速させる。
胸が苦しい。喉は懸命に息を吸っているのに、肺が機能を放棄しているようだ。心臓はこんなにも拍動しているのに、身体の芯から血の気が失せて冷えていく。まるで身体が「殺してでも止める」と言うように。
あの森で聞いた世界を歪ませる音の記憶と、肌を舐める悍ましき気配の記憶が想起される。
理性と記憶が、自分の愚かしさを突き付け、制止する。
駄目だ。止めろ。
それは──冒涜だ。信じる神、真なる神、シュブ=ニグラスに匹敵する、眼前のナニカの機嫌を損ねる行為だ。
死ぬ。
人間には想像もできないような方法で、あるいは人間の想像力が許す全ての方法で、とにかく確実に惨たらしく残酷に苦しんで死ぬ。
──それで?
それは、口を噤む理由になるのか?
それは、彼に向ける感情を裏切る理由になるのか?
否。否だ。
理性を感情でねじ伏せて、ルキアは断固たる決意を胸に灯す。
「ですが、貴方がフィリップとステラを害するのなら、私は貴方を殺します。それが私には──人類には不可能なことであったとしても、絶対に」
ルキアの宣言を受け、ナイ神父が振り返る。
激怒すら覚悟していたルキアの予想に反して、その顔は変わらず嘲笑で固定されていた。
快・不快のどちらにも振れていない、眼前の愚かで矮小な存在への嘲りしか見て取れない。
いまの一幕は結局のところ、愚かな存在が愚かなことを言っただけの、山も谷もない場面だったのだ。
フィリップがこの場にいれば大きな感銘を受けただろうが──彼の意識はここにない。
ナイ神父はすっとルキアを指す。その双眸に宿る感情に、ルキアは覚えがあった。
ほんの少しの懊悩。自分が敵対者を殺すときに抱く、「どうやったら汚れないか」を気にするときの目だ。敵を殺すこと、命を奪うことに何も感じず、ただ部屋や足元を汚すのが嫌だとだけ思っている目だった。
殺す必要もないし、生かす必要もない。
生きていても死んでいても変わらず意味がないから。だから──何の意味も無く、殺すことにした。そんな心中すら窺えた。
「──っ」
刺し違える覚悟を決めたルキアに対して、ナイ神父はその手を引っ込めた。どこか慌てたように、びくりと。
そしてゆっくりと、深い敬意の滲む礼を見せる。その宛先はルキアではない誰か、何か、どこかだ。ただ、それは彼がフィリップに対して見せる嘲笑交じりの敬意そのものだった。
「御意に」
嘲弄と敬意の入り混じった声で何かに応え、ナイ神父はルキアへ笑いかけた。
「行っていいですよ。彼らもじき、目を覚まします」
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