第99話
どうやら狂気的なまでの恐怖によって釘付けにされていたわけではなく、黙考していたらしい。
何度かの呼びかけに答えなかったステラに近付くと、彼女は何か確信があるような自信に満ちた声で叫ぶ。
「カーター、あれを殺すのに極端な破壊は必要ない! 中身がぐちゃぐちゃになるまでかき混ぜろ!」
言われて、フィリップも思い出す。
あぁ、そういえば、蛹は振ると羽化しなくなるんだった。
以前──フィリップがまだ実家にいた頃の話だ。
よくオーガストと一緒に森へ行って、薪拾いのついでに虫取りをしていた。宿に蝶がいたら華やかになるぞ! とか、確かそんな思い付きで、ポケットいっぱいに幼虫やら蛹やらを詰め込んで帰ってきたことがある。当然ながらアイリーンにしこたま怒られたし、家に帰った時にはポケットの中は幼虫だったものでぐちゃぐちゃだった。
……いや、肝心なのはやんちゃの記憶でも怒られた記憶でもなく、その幼虫の内容物にまみれて、しかし外殻は無事だった蛹たちが一匹も羽化しなかった点だ。
あとで狩人の父に聞いたところ、蛹は軽く振るくらいの刺激でも中身が死んでしまうという知識を得た。つまりフィリップとオーガストはポケットに死体を入れて持ち帰ってきたわけだが、まぁ、それはいいとして。
「了解!」
攪拌なら、今のフィリップにでも十分に実現可能な攻撃だ。
もう既にぐちゃぐちゃの蛹を、出来かけの部品が無くなるくらいぐちゃぐちゃにしてやる。
「殿下、離れて、あと対爆防御を!」
「分かった!」
ステラの足音を聞きながら、フィリップは甘い達成感に浸っていた。
このクソみたいな試験も漸く終わりだ。結局ここにいる理由が判然としなかったステラに助けられる場面もあり、そして彼女の精神を何とか守り切った。ナイアーラトテップの課した問題は全てクリアされ、『ハスターの招来』は『ハスターの毛先』として、意図的な失敗を使い勝手よく使うことができる。
最後の関門に兵士個体のゾス星系よりのものなんて冗談じみたモノを置いておくあたり、かなり底意地の悪い仕様だったけれど──それだけに、こうも綺麗にクリアできると、ナイアーラトテップの鼻を明かしたようで気分が良い。
「いあ いあ はすたあ はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ──」
ハスターの毛先と、クトゥルフの兵。どちらが強いのか、フィリップに与えられた智慧では判然としない。
存在の格ではハスターが圧倒的に上だが、フィリップが召喚する毛先じみたごく一部だけで、直接戦闘能力ではクトゥルフを上回る兵士個体のゾス星系よりのものに勝てるのか。なんとなく無理な気がする。
だが。蛹態の今であれば。ちょーっとシャカシャカ振るだけで中身が死んでしまうような脆い状態なのであれば。サイズ次第では生身のフィリップでも殺せるだろう。
「──あい あい はすたあ!」
テストクリアだ。見たかナイアーラトテップ。このクソみたいな試験は無事に、お前の用意したよくわからん枷すら無事なままに、クリアしたぞ! ざまあみろ。
──と、フィリップが内心でそう哄笑するより早く、思考が止まる。
召喚された暴風は蛹に届く寸前で停止し、水の繭に波紋を生むだけの結果しか出していない。
水の表面に生じたそのさざ波すら、球体を半周ほどした場所で停止している。
止まっている──この空間にある全てのもの、あらゆる存在が完全に静止している。まるで時間でも止まったように、というのが比喩でしか無く、時間が停止していないことは、背後でステラが頽れた音を聞いたことで証明される。
「ぁ……あぁぁッ……!?」
ステラの苦悶の声に振り返ると、自分の頭蓋を押し潰すような勢いで頭を抱え、地面を転がって悶え苦しんでいた。
「殿下!? ……っ!?」
慌てて駆け寄ろうとしたフィリップだったが、より早く、召喚した暴風がもっと大きな力によって吹き散らされ、その煽りを受けて転倒する。
ごろごろと受け身も取れずに転がり、何がどうなったのか自分でも分からないまま意識が混濁する。辛うじて失神には至っていないが、視界がブレて、立ち上がるどころか上下の感覚すら怪しい。
「────!!」
遠近感が消え、こもったように聞こえる聴覚に、ステラの声にならない悲鳴が届いた。
◇
痛い、とは思わなかった。むしろ、五月蠅い、だろうか。
頭蓋の内側に、声──言葉以上の解像度を持ったもの、言うなれば「意思」が直に届く。何語だとか、抑揚とか、速さとか、そういった情報がまるでないのに、相手の意思が完全に伝わった。
それは人知の及ばぬ強大なものよりの示威であった。そして人知の外にある様々なものについての教導があった。人とは如何に脆く、か弱く、価値の無い生き物であるかを知らしめる啓蒙があった。遠く離れた海の底に沈む広大な都市と、そこに住まう異形たち、彼らに崇め奉られながら眠るモノの景色を見た。
そして、自らに従えと、救済を提示していた。人知の及ばぬ強大なものに傅き、その恩寵を得ることこそ、この世界における最も賢い生き方であると示された。
脳に意思が刻み込まれるような不快感に絶叫しながら、ステラの意識が、理性が、身体を構成する全ての細胞が、「それは違う」と叫んでいた。
だって彼は、この世の何よりも悍ましい。力、金、地位、魔術、科学、神、物理法則。人間が信じるあらゆるものを冒涜するような存在への服従が、救済であるはずがない。
それに、信仰とは極論、自身の思想により自分を救うことだ。
強要された信仰に意味はないし、自分が信じられるのなら、それが神でも路傍の石でも大差はない。それが世界を覆すほど強大なものでも、神と言い表すのも烏滸がましいような存在でも、人間の小さな視野と浅い知識による合理性でも、何ら変わりない。
だから──五月蠅い、黙っていろ。私に関わるな。
頭蓋の内側に虫が這い回るような不快感を出力し続ける口ではなく、その意思を受け取っている精神で吐き捨てる。
「偉大なるもの」とやらがその程度の抵抗で止まるとは思わなかったし、事実、意思の押しつけはしばらく続いた。しかし、ふと──どこか驚いたような唐突さで、干渉が止まる。
驚きの宛先はか弱い抵抗を続けるちっぽけな人間ではなく、その隣に転がってきた少年だ。
具体的に何がどうというわけではなく、ただフィリップがそこにいることに驚いているようで──それ以上、ステラに「意思」が届くことは無かった。
喘鳴を漏らしながら、意思の残響を振り払うように頭を床に叩き付ける。
せめて痛みが、この言い表しようのない不快感を取り払ってくれることを期待して。しかし二度目か三度目かで、頭と床の間に柔らかいクッションのようなものが差し込まれる。
「痛った……頭割れますよ、それ。ここで死ぬのは不味いですって」
床と頭突きに挟まれた手を擦りながら、ぐったりとしたままのフィリップが笑う。
「ここでの死は現実での死」なんて、もう気にしてはいなかった。ここが非現実であるという意識すらなく、ただ不快感から逃げるために、死ぬかもしれないなんて一考もせず実行した。
「あぁ……すまない。ありがとう」
「いえ。それより、できるだけ離れてください。目と耳を塞いで、耐魔力を全開にして、全力で逃げてください」
そう言いながら、フィリップは覚束ない足で立ち上がる。よろめきながら、ゆっくりと。
「見て下さいよ、あれ。……あぁ、やっぱり見ないで。繭の中身が物凄い勢いで蠢いて──成長してるんです。貴女に語り掛けてた奴、あの蛹の親玉の手助けを受けて」
フィリップの口元は苦笑の形に歪められ、目には深い自嘲の光が宿っていた。
「僕はあいつとハスターの確執を知っていたのに。あいつの介入だって予測できたはずなのに」
そう、懺悔するような弱々しい口調で言って──ふと、首を傾げた。
「いや、でも……それはおかしい」
◇
フィリップはまた、与えられた智慧を十分に活かせなかったのかと思った。
ハスターとクトゥルフの数千年、数万年にも及ぶ確執を知っていながら、ハスターの召喚という手札を切った。ハスターの居城に至る魔術的経路を繋げば、兵士個体を通じてクトゥルフにその気配を察知されてもおかしくないと、予想することはできたはずなのに。
結局はそれに思い至らず、現実にそうなったあとで悔いている。
だが、そもそも、フィリップの手中にあったカードは実質その一枚だけだ。
クトゥグアを召喚すればクトゥルフの介入は避けられたが、確実にステラに害が及ぶ。それは焼死かもしれないし、狂死かもしれない。だからこのカードは切れない。
『萎縮』と『深淵の息』は対人攻撃魔術だ。戦闘能力に長けた旧支配者相手では無意味だし、あの水の繭は対魔術防護になっている。このカードは切っても意味がない。魔力を浪費するだけだ。
あとは何だ?
パンチ? キック? 十数メートル上方の繭に届くわけがない。ナイフを投擲したって、猛毒の錠剤を投げつけたって、あの繭に阻まれる。
水の繭を貫通して内部にダメージを与えられる攻撃は、ここでフィリップが有効に切れるカードは、『ハスターの召喚』だけだった。それを切ればクトゥルフが介入し、攻撃が無効化されゾス星系よりのものの羽化が加速する、諸刃の剣どころか自傷行為でしかないカードだった、それだけだ。
ナイ神父は「クリアできない難易度ではない」と言っていたのに。
「……騙された? いや……」
違う。
テストはこの上なく正常に機能している。ありがちな状況を──これまでフィリップが直面してきた状況を、正確に再現している。
フィリップはいつだって、眼前の敵を殺すのに十分なだけの火力を持っていた。しかし、その火力を発揮すれば敵のみならず味方まで死ぬ、という状況が多い。過剰すぎる火力の弊害だ。
今もそうだ。最大火力はステラの死か発狂、或いは両方を引き起こす実質的な使用不可状態。その上、次善策はクトゥルフ介入の引き金になる。
なにもできない。
いや、なにもできない場所に、自ら立っているだけだ。自らの両手に紙の枷を付け、「これを千切ってはいけない」と自分に言い聞かせているだけだ。
その簡単に壊れてしまう枷を、今にも千切れてしまいそうなそれを、フィリップは「人間性」だと定義する。
「それを捨てろと、そういうことか!」
この試験の目的は、それだ。
それこそ分かっていたはずだろう。ナイアーラトテップがアザトースの命令で動いているとき、少しでも妥協するなんてあり得ない。フィリップはこの時点で、確実に何か一歩、強くならなくてはいけないのだ。
戦闘面で、ハスターの召喚を使いこなせるようになるか。
精神面で、誰かを巻き込みたくないなんて甘い考えを捨てるか。
どちらかの達成が、ナイアーラトテップの目標であり、この試験の目的だった。どちらかを達成すれば、この試験は即座にクリアされる。
「……やられたな。一本取られたどころの話じゃない」
鈍痛の残る頭を擦りながら、放心したように天を仰ぐ。その視線の先では水の繭に亀裂が入り、「ゾス星系よりのもの」──太陽圏外に棲む旧支配者が羽化しようとしていた。
水の繭が裂け、ほぼ成体となった中身が姿を現す。羽化が完了するよりも先に攻撃したいところではあるが、蛹を守っていた、今や不要となった何万リットルもの海水が落下してくる。
ほぼ真下にいたフィリップは血相を変えて走り出し、途中でステラを抱え、半ば引き摺るようにして距離を取る。この空間は無限にも思えるほど広い。莫大な量の水は床面へ薄く広がっていき、最後には足元を濡らす程度の水深にしかならないはずだ。だから溺死はしないだろうが、その前に水の重さに潰されて死ぬか、流される勢いで転倒して死ぬ。
「殿下、逃げ──」
「──鼻と耳を守れッ!」
ステラの右手がフィリップの口元を守るように押し付けられ、強烈な血の臭いが鼻を突く。
突然のことに動揺しながら、フィリップは彼女の言葉を忠実に守り、両手で耳を塞いだ。ただし──ステラの両耳を、だ。
「ばっ!?」
馬鹿か、とステラが叫ぶ間もなく、二人は大瀑布に呑み込まれた。
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