第98話

 ゾス星系よりのもの。

 名前の通り、ゾス星と呼ばれる星を含む領域に棲む、旧支配者の一種。フィリップが知る具体例は、海底で死んだように眠っているクトゥルフがそうだ。


 手記によると、この空間の主は、その中でも兵士個体と呼ばれる存在だ。

 簡単に言えば、クトゥルフの下位個体。


 テレパシーなどの意思伝達能力に長けたクトゥルフは、同族の中でも最高位にほど近い、支配者個体だ。人間になぞらえて言うなら、王侯貴族にあたる。

 対して、最奥部にいる兵士個体は、人間でいうところの騎士階級。存在の格で言えば、クトゥルフの四分の三くらいだ。


 余裕じゃん! いけるいける! と、楽観したいところではある。けれど残念ながら、フィリップに与えられた智慧はその役割をきちんと果たし、盛大に警鐘を鳴らしていた。


 王侯貴族と騎士。ルキアやステラのような例外を除き、直接戦闘能力に秀でているのはどちらか。考えるまでも無く後者であり、それは旧支配者であっても同じこと。より強いモノが戦う。至極当然の理屈だ。


 つまり。

 フィリップはこれから、戦闘能力に於いてはクトゥルフを上回る存在と相対することになる。


 そのレベルの相手だと、フィリップが切れる有効なカードはクトゥグア召喚の一枚に限定される。『萎縮』や『深淵の息』といった対人攻撃はもちろん、不完全な召喚であり上級魔術程度の威力しかない『ハスターの毛先』も通じないだろう。ステラを守りながら戦うなど、夢のまた夢だ。


 「…………」


 息を殺して、ステラを起こさないように書斎を出る。

 こうなったら、彼女が目を覚ます前にゴール前の空間を確認して、もしクトゥルフの兵がいれば撃滅しておくしかない。ほんの数分程度なら、ステラと別行動をとっても大丈夫なのは確認済みだ。


 眠っている、無防備な状態の彼女を放置するのは気が引けるけれど──邪神を見せるよりマシだろう。


 そう判断して、フィリップは独り、頑強そうな錠を開ける。

 鍵の動作するかちりという小さな音と手応えを感じ、薄く息を吐いた。瞬間、手中にあった鍵の感触と錠前の重みが消滅する。何が起こったのかと思考するより早く、眼前の景色が切り替わる。ほんの瞬き一つの後に、重厚な金属の扉は消え、真っ白な空間が広がっていた。


 「っ!?」


 不連続な視界に思考が止まり、乗り物酔いにも似た不快感が沸き上がる。


 タイル張りの白い床。

 窓も灯りもないのに昼間のように明るく、光源も定かでは無い薄い影が落ちている。前にも、後ろにも、あの頑強そうな扉は無い。フィリップが無意識のうちに部屋に入ったわけではなさそうだ。


 どさり、と。背後で重い物が落ちるような音を聞き、続いて痛みに呻く声がする。

 慌てて確認すると、少し先──ちょうど扉と書斎くらいの離れた場所で、ステラが打ったらしい尻を擦りながら身を起こしていた。


 「これは……どういう状況だ? 何があった?」

 「……出口を開けようとしたんですが、気付いたらここに」


 果ての無い白い空間は前後左右に広がっており、先ほどまでいた廊下とはまるで違った様相だ。

 部屋の広さはまるで無限で、壁らしきものは360度どこを見渡しても見受けられない。出口も同様に、だ。


 しかし、想定されていたゾス星系よりのもの、クトゥルフの兵はいないようだ。出口を探して何時間も彷徨い歩くことになりそうだが、そっちの方が何倍もマシである。フィリップ一人ならまだしも、こんな形でステラが強制参加させられたのであれば、尚更。


 「……なら、ここは出口の奥か? 敵も罠もなさそう、だ、が……」

 

 周囲に魔力感知の目を向けていたステラの声が尻すぼみに消える。

 どうしたのかと視線を向けると、彼女は呆然と天を仰いでいた。


 「……おい、アレは何だ」


 ステラの震え声に、フィリップは弾かれたように天を仰ぐ。


 視線の先──二人の頭上に、それはいた。

 いや、あった、と言うべきだろうか。それは未だ生命としてこの世に生まれ落ちていない、命になる以前のモノだ。


 透明な水の球体──繭の中で、黒ずんだピンク色をした内臓や、眼球のように見える真っ黒な球体、鋭い爪を持ち鱗に覆われた指などが、繭の中を満たす極彩色の原形質の中で蠢いている。

 完全に成形されておらず、接合もされていない各部位が、攪拌されながら次々と繭の下部へ沈み、フィリップたちに開陳されていく。手、腕、指、目、触手、羽翼、触手、触手、内臓、鱗に覆われたどこかの部位。一つ一つが笑えてくるほどに不格好で、それでいて吐きそうになるほど気色が悪い。


 ──まるで、眼前でゲロをこね回されているみたいだ。


 「ゾス星系よりのもの……の、幼体? いや、蛹態?」


 どちらでもいい。いま重要なのは、中身はどう見ても未完成だということだ。

 旧支配者や外神といった超越存在に特有の、死にたくなるほど圧倒的な存在感や、悍ましいまでの神威は感じない。アレは本当に、旧支配者になる前の物体でしかないのだろう。九死に一生、不幸中の幸いだ。


 「殿下、伏せて──うん?」


 今のうちにブチ殺して──否、ぶっ壊してしまおうと考え、ほぼ真上にアレがある状態で壊したとき、その後に訪れる大洪水を想像する。

 水の繭の内容量は定かでは無いが、遠目に見てもかなり大きい。少なくとも寮の大浴場の浴槽よりは大容量だろう。


 ゲロの海で溺死など、考え得る中でも最低級の死に様だ。いくらこの空間での死が現実の死ではないとしても、それはごめんだった。


 「いや、もうちょっと離れてからにしましょう。殿下……殿下?」




 ◇




 ステラが目を覚ましたのは、不意に訪れた浮遊感と、尻に感じた衝撃によってだ。

 暖炉の炎が投げかける暖かな色の光を薄っすらと感じて、安楽椅子に揺られて眠っていたはずなのに。気付けばこの空間で最初に居た部屋を何倍にも広げたような、壁の見えない空間にいる。


 「これは……どういう状況だ? 何があった?」

 

 思わず、そう呟く。放心している暇があったら思考するのがいつものスタンスだが、寝る前と起きた後で場所が違うというのは中々に衝撃的だ。

 狼狽えてばかりもいられないと分かってはいるが、思考が空転する。


 「出口を開けようとしたんですが、気付いたらここに」


 返事を聞いて、フィリップの存在に気付く。

 自分一人だけがこの状況に直面したわけではないと分かり、一先ずは安心だ。


 出口を開けようとしていた、と聞いて、「自分一人で出ようとしていたのか?」とは思わない。

 そんなことを考えるような人間ではないと、鎮痛剤の効果が切れ始めた右手が証明している。その信頼が思考を最適化し、フィリップへの疑いを挟まず、即座に現状の分析へと移ることができる。


 「なら、ここは出口の奥か?」


 口に出しておきながら、ステラはその疑問を検証しようとはしなかった。それはステラの知識では真偽の証明ができないことだし、これが試験であるのなら、フィリップも具体的な内容は知らないはずだ。

 ステラはいつも通り、自分がするべきこと、この場に於ける最適な行動を取る。


 視界を切り替え、魔力へとチャンネルを合わせる。

 魔物の潜伏、魔術罠の配置、魔術の展開。前後左右、360度にそれら危険因子が存在しないことを確認して、最後に上方を仰ぎ──を見た。


 魔術的干渉の大半を無効化するであろう、対魔術防護の水の繭。

 その中に蠢く、見たことも無い何か。


 「おい、アレは何だ……」


 まだ幼い頃、生物学の授業で教わった、蛾の蛹態。教授が眼前で解剖して見せてくれた繭の中身はドロドロの半液状組織であり、一部の組織以外は未完成だった。

 それ故に、ほんの少しの刺激で液状組織が破損し、羽化しなくなるという。あれにそっくりだ。


 手足が震える。視界が揺れる。呼吸が制御できない。

 身体の中で恐怖を反映する器官が全て、一斉に警鐘を鳴らしている。


 駄目だ。あれを羽化させては駄目だ。殺せ。

 駄目だ。ここにいては駄目だ。逃げろ。


 駄目だ──あれは、駄目だ。あれはこの世に存在してはならない、悍ましいほどに冒涜的なモノだ。

 壊れてしまう。人間が築き上げてきた文明が、社会が、歴史が、あの一個存在だけで簡単に崩れ去ってしまう。


 「……ゾス星系よりのもの」


 フィリップの呟きを聞き、如何なる状況でも最適な行動を取れるよう訓練してきたステラの脳が再起動する。

 と命じる強靭な理性が、本能の制止を振り払う。問題解決における最優先課題は、今直面している問題が、どういう問題なのかを理解することだ。


 思考が回る。

 空転ではなく、この空間で蓄積してきた経験と知識を歯車として噛み合わせ、ぎちりぎちりと、何かをすり減らしながら。


 あれは何か。

 フィリップは「ゾス星系よりのもの」と言っていた。天文学もそれなりに学んだが、聞き覚えの無い単語だ。しかし、それを信じるのなら、あれは太陽系外から飛来した、いわゆる異星人の類だろう。

 

 どういう状態か。

 見るからに蛹態であり、能動的行動どころか自我の存在すら怪しい。そして蛹態とは、その生物が最も脆い状態である。強固な外殻を持っていても、内容物は脆弱かつ繊細なのだと教わった。


 どうすべきか。

 殺すべきだろう。羽化した後、あれがどういう状態の、どういう生態の、どういう生物になるのか見当が付かない。だが明確に、ステラでは敵わない相手だと察しが付く。


 殺せるのか。

 今のステラでは不可能だ。魔術を封じられた今のステラでは。もし魔術が使えれば、あの水の繭ごと内容物を蒸発させてやれるのだが。


 だが、それは必要条件ではない。

 あれを殺すのに、その全部を蒸発させる必要性は皆無だ。内容物をぐちゃぐちゃに──今以上にぐちゃぐちゃになるまで攪拌してやれば、それで事足りる。そしてフィリップの魔術は、まさにそういう性能だ。この試験を設計したナイ神父は、かなり正直な性根の持ち主らしい。


 「カーター、あれを殺すのに極端な破壊は必要ない! 中身がぐちゃぐちゃになるまでかき混ぜろ!」


 

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