第97話

 かつて「深きもの」だった炭の塊も、同士討ちと自害によって大量の血を溢れさせている死体も、この空間のルールに従ってじき消滅するはずだ。

 磯の香りと血の臭いが混ざり合った空気は鼻につく。さっさと鍵を回収しよう。


 ローテーブルの引き出しを漁ると、「深きもの」の言葉通り小さな鍵が見つかる。ポケットに収めて部屋を出ると、饐えた臭いが追い打ちをかけるように鼻を突いた。数刻前に嗅いだ覚えのある、胃液の臭い、吐瀉物の臭いだ。


 「殿下!? 大丈夫ですか!?」


 前回とは違ってスタート部屋までは戻らず、扉のすぐ傍で胃の内容物を吐き戻していたステラに駆け寄り、背中を擦る。

 大方、フィリップの戦闘を見守ってくれていたのだろう。事前の打ち合わせでは耳を塞いで待機しているとのことだったが、それでは咄嗟に介入できないと判断してのことか。だがたとえ耳を塞いでいたとしても、「深きものども」の威容ならぬ異容と、その死に様を見ていればこうもなる。


 「あぁ──大丈夫だ、気にするな」

 「いや、でも……」


 吐瀉物はそれなりの量だ。放置すれば脱水症状に陥る可能性もある。


 「書斎に戻りましょう。金庫の鍵はもう見つけましたから」


 肩を支えながら、まずはスタート部屋まで誘導する。どうせここには戻ってこないだろうし、ここには嘔吐の跡だけでなく血痕もある。汚すならここだ。

 まだえづきの収まらないステラを残し、書斎へピッチャーとコップを取りに走る。

 

 戻ってきたとき、ステラの吐瀉物には僅かながら血も混ざり始めていた。

 鼻を突く臭いと見覚えのあるモノに、思い出したくも無い光景を回想する。薄暗くて美しい地下祭祀場、時間も空間も超越して接続した宮殿、存在の核が崩壊して液状化した人間、美しく見えた異形たちの中でもなお悍ましく醜悪だった──


 「ぅぇ……」




 ◇




 さっき食べたサンドイッチをほぼ全部吐き戻して、フィリップはすっかり空腹だった。

 内臓が悪いわけでもなく、精神に受けたダメージを肉体が分散したというわけでもなく、ただ吐瀉物の見た目と臭いに中てられて吐いただけなので、体調は万全なのだ。それに、ステラに胃薬を呑ませたついでに自分も呷っておいた。じき、この余韻も晴れるだろう。


 少しばかりの期待を抱いて書斎へ戻るが、サンドイッチは置かれていなかった。

 体感時間が正しければ、そろそろ夕食の時間のはずだが──まぁ、どうせあと一部屋というか、出口らしき鉄扉を開けてラスボスとの対面を残すだけだ。ステラの目を信じるなら何も配置されていない出口で、フィリップの想定通りでも死せるクトゥルフが眠っているだけ。ステラの目と耳を塞いで走り抜ければゴールだろう。


 安楽椅子で苦しげな寝息を立てるステラの様子を見るに、彼女の損耗具合はそう酷いものではないだろう。

 少なくとも精神的ダメージの肉体への分散は正常に行われ、精神の破綻や正気の喪失には至っていない。とはいえ、それは増水した川が堤防で堰き止められているようなものだ。異常か正常かでいえば間違いなく異常であり、破綻すれば不可逆の被害が予想される。


 「はぁ……」


 嘔吐後の不快感と空腹とで募らせた苛立ちを、溜息にして晴らす。

 ステラを起こさないようそっと書斎を出て浴場へ向かうと、フィリップは金庫を抱え上げ──鍵を開けて中身だけ持ち出せばいいと気付き、自嘲の笑いを溢しながら実行する。


 一応、罠に警戒しつつ開けてみると、中身はやや大ぶりな鍵と紙束だった。

 

 「……先人の手記、ね。凝りすぎ」


 さっきの「深きもの」といい、その言葉にあった先駆者の存在といい、この空間を織りなす背景の設定が過剰だ。ほんの数時間前に作られただけの、フィリップのための試験空間とは思えない。


 いや──違う。

 外なる神であるナイアーラトテップは、時間の流れの外にいる。フィリップが彼らに遭遇する以前からこの状況を知り、準備しておくことだって可能だ。

 この空間がほんの数時間前に作られたことを証明するのは不可能だ。対して、この空間が以前から存在していたという証拠は存在する。あの「招かれたもの」と「深きもの」、そしてこの手記という三つが。


 別に、この空間が過去に何人の犠牲者を生んでいるとか、実は何年も前から計画されていたとか、そういったことを気にしているわけではない。

 フィリップの知らない人間が何人死のうが何億人死のうがどうでもいいし、外神が時間の縛りを受けないことも知っている。


 ただ──この手記がナイアーラトテップの用意したヒントなのか、先人の書き残したものなのか。それはフィリップにとって、非常に重要なことだった。

 だって、信憑性がまるで違う。


 ナイアーラトテップがわざわざ用意したものなら、それは試験のクリアに直結する重要なヒントのはずだ。必要十分なだけの量が揃い、情報の正確性にも疑義がない。

 だがフィリップより先にこの空間を訪れた──十中八九、ナイアーラトテップが試験空間を試験するために用意した──人間の書き残したものだとしたら。人間の視座と人間の智慧によって書き記された情報に、前者ほどの信憑性はない。


 手記にはこの空間や配置されている神話生物について、それなりの情報が記されている。

 これが人間によるものだとして──


 「うわ、そういうことか……!」


 しまった、と、口元を覆った指の隙間から後悔の滲む呟きをこぼす。

 書斎から持ち出され、浴場に散乱していた大量の本。あれは手記の内容を精査するためにナイアーラトテップが配置した、辞書や参考資料のようなものか。


 残念ながら、書物の大半はさっきフィリップが『ハスターの毛先』で「招かれたもの」と一緒に攪拌した結果、死体と一緒に消滅したか、読解不可能なレベルでズタボロになっている。

 母数が多いだけに無事な本もまだまだあるが、それでも八割近い本が失われたはずだ。


 それに、本を漁って情報を精査している余裕はない。

 フィリップの空腹はともかく、ステラの精神的なダメージを鑑みれば、なるべく早くこの空間を出た方がいいはずだ。食堂で夕食を摂り、寮の温かなベッドで眠れば、少しは気も晴れるだろう。


 「……信じるしかない、か」


 手記の内容を真実だと仮定して、対策するしかない。

 フィリップはそう諦めて、手記と鍵だけを持って浴場を後にした。



 書斎へ戻ると、ステラはまだ安楽椅子で呻きのような寝息を立てて苦しんでいた。

 可哀そうだし、その苦しみが一刻も早く取り払われるよう行動するつもりだけれど、寝ているならラッキーだ。彼女を起こさないように気を払いつつ、隣の安楽椅子にぐったりと身を委ねる。


 ステラが寝ているうちに、ともすれば彼女にトドメを刺しかねない手記を読んでおきたい。

 所詮は人間が書いたもの。されど、この環境で書かれたものだ。正気を損なうとまでは行かずとも、精神に害を為す危険性はある。


 「……前も二人だったんだ」


 この空間のテスターとして送り込まれたであろう、冒険者の二人。それぞれが書き残した手記は、それぞれの個性が窺えるものだった。


 剣士だという男の書き残したものは、その殆どが実戦的な内容だ。

 「招かれたもの」と「深きもの」の行動パターン分析。弱点。その突き方。攻撃方法。その対策。彼が「後にここを訪れる誰か」に向けて遺したものは、その羅列だ。どう殺せばこちらの被害が最小か。それを突き詰めた、戦士というより狩人の考え方に近いもの。


 残念ながら剣を使うことを前提に書かれていて、フィリップが有用だと思えるアドバイスは無かった。これを読んだのがこの最終盤でなかったとしても、あまり有難くはなかっただろう。

 最後の数行に、同行者を案じる言葉と、両親と兄弟への感謝、そして「後にここを訪れる誰か」のためにナイフを置いていくという言葉が連なっていた。


 「……はは」


 机の上に置かれている、フィリップが自害に使おうとしたナイフを見遣る。

 彼は、あれの持ち主だったのだろう。先人が生きるために置いて行ってくれたものを、死ぬために使おうとしていたと考えれば、苦い笑いも浮かぶ。



 紙束を繰ると、もう一人の先駆者である魔術師の女が書き記した部分に差し掛かった。

 遺された手記の8割以上が彼女によるもので、その内容はこの空間と、ここに配置された神話生物に対する分析や考察だ。


 魚と人間を掛け合わせたような魔物である魚人マーマンか、或いはその変種かという思索は、フィリップにしてみれば無意味極まりない不正解だ。攻略の助けになるような情報は皆無といっていい。

 しかもページを繰るごとに、内容や文法から整合性が失われている。文字は乱雑に、表現は稚拙になっていき──ある一枚を境に、全く別物のような様相に変わる。


 文字には大陸共通語と邪悪言語が入り混じり、考察の正確性と、その根拠となる知識の量と深度が桁違いに増す。

 一部、フィリップでも読解不能な図式などを省いて流し読む。内容は鉄扉の奥、ゴール前にいる存在についてだ。どうやら書斎にあった本を読んだ──それこそゲロを吐きながら読んだのだろう、引用した書物やページ数まで、几帳面に書かれていた。


 これなら情報の信憑性は高い──とは、一概に言い切れないのが悲しいところだ。

 その本を探して正確な引用か、彼女の考察が適当かを判断できない以上、これは狂人の遺した走り書きだ。信用する方が愚か、何も読まずに暖炉へ投げ込むのが正解だ。


 これを読んでいるのが、フィリップ以外の人間であれば。


 フィリップに与えられた智慧は、視座はともかく、正確性では魔導書なんかの追随を許さないものだ。

 彼女が残した情報と考察の正誤を、フィリップは与えられた智慧のみによって判断できる。


 もちろん、智慧とて完全ではない。

 ダゴンの配下にして同族たる「深きものども」の知識はあっても、所詮は変異した人間でしかない「招かれたもの」の知識は無かった。フィリップに与えられている智慧は、あくまで外神の視座から見て、フィリップにとって危険だろうと判断される存在についてだ。


 フィリップが智慧と照らして判断できる──フィリップの智慧にあるという時点で、書き記されたものの危険度は推し量れる。


 最奥の鉄扉の向こう側。ゴール前の空間であり、ステラは「何もいない」と言った場所。

 あそこにいるのは──


 「ゾス星系よりのもの。……クトゥルフの同種か」


 これは不味い、非常に不味い、と。フィリップはこの試験における最難問に直面したことを理解し、苦い笑いを浮かべた。



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