第96話

 敵がいると明確に分かっている部屋の扉をノックするのは、よく考えたらとても間抜けな絵面だった。

 何やってるんだろう僕、という疑問を振り払うように、扉を叩く動作が多少雑になる。数分前に彼らがやっていたように、どんどん、と。


 実行者であるフィリップが「僕はいま何をしているんだ?」と考えるほどの暴挙だ。部屋の中からは困惑の空気が漂ってくる。え? これどういう状況? と言わんばかりだ。


 「……君たちに聞きたいことが──」


 ずどん! と、フィリップの言葉を遮るように、扉が内側から殴りつけられる。

 異種間コミュニケーション作戦──駄目そうだった。




 ◇




 「だろうな……扉を叩く音がここまで聞こえた」


 駄目でした、と照れ混じりに報告したフィリップに、ステラは呆れたようにそう答えた。

 当たり前だろう、と突き放されなかっただけ有難い。


 「部屋に入るまで会話できないのか、そもそも会話できないのか、だな」

 「意思はありそうですけど……意思疎通する気が無いように思えました」


 そして、その理由にはもう見当が付いている。

 彼ら「深きものどもディープワンズ」が信奉するクトゥルフと、フィリップがその毛先じみたものを召喚しているハスターは敵対関係にある。召喚の過程でハスターを讃える言葉を唱えているフィリップは、彼らの目には邪教の徒に映るのだろう。対面していないので、目というか、耳だが。


 表現はさておき、対面すればその勘違いは解けるのだろうか。

 フィリップは自分自身を魔王の寵児だと認識できない。だがシュブ=ニグラスの落とし仔は「母の寵愛」を感じ取り、アイホートは「外神の尖兵」と評した。フィリップ自身には分からずとも、神話生物はフィリップに何かしらの特異性を感じ取る。流石に、フィリップを「魔王の寵児」と認識しているのは外神だけのようだが。


 相手の感知能力を仮定したまま動くのは危険だが、対面すれば相手の出方が変わる可能性はある。変わらなかったら全員殺す。

 まぁ、たぶん。態度が変わったところで味方にはならず、相手の警戒度が数段跳ね上がるだけだ。どうせ殺すことになる。会話の可否は情報を引き出せるかどうかの分岐点であって、戦闘に発展するか否かの分岐点ではない。


 「じゃあ予定通り、殺す方向で。殿下はどうします? ここに残りますか?」

 「……いや、部屋の前までは行こう。耳を塞いで待ってる」


 盾が必要な状況なら部屋を出ろ、ということだろう。頷き、一緒に書斎を出る。


 「一応言っておくが、魔術を撃たれてから下がるなよ? 敵の魔術展開……は見えないだろうから、照準か、最悪「嫌な感じがする」くらいでも下がっていい」

 「了解です。殿下も、何かあったら僕の傍まで来てくださいね」


 応接間の鍵を使い、三度目にして漸く鍵を開ける。

 

 応接間には赤く毛足の長いカーペットが敷かれ、やや大きめのローテーブルと、それを挟んで向かい合うように三人掛けのソファが置かれていたようだ。

 いたようだ、と過去形の推測でしかないのは、カーペットは所々が破れて白い床が見え、テーブルは折れ、ソファは座面が破れたものが打ち捨てるように転がっているからだ。


 豪奢で絢爛で、来客に財と権威を誇示するための空間だったはずだが、今や磯のような饐えた臭いの漂う廃墟でしかなかった。


 中に居たのは、魚と蛙を交配させたものを無理矢理に人型へ成形したような存在だった。


 横向きに飛び出た目玉と、黄ばんだ乱杭歯がずらりと並ぶ口の備わった頭部は、首を介さず直接肩に付いている。頬の後ろにはエラがあり、前傾姿勢で床を擦るほど長くだらしない腕と猫背に曲がった背中には、棘のあるヒレが生えていた。四本指しかない両手には水かきが、腰にはヒレを備えた太く強靭な尾が見て取れる。


 ──ダゴンとハイドラの末裔、神話生物「深きものどもディープワンズ」で間違いない。

 総数は三体。警戒するようにこちらを注視して待ち構えていた。


 「……」

 

 定石通りにまずは一体減らそう、と手近な個体に魔術を照準したフィリップに、その個体を含めた二体の「深きもの」が唸り声をあげて身を屈める。

 彼らの体長は約2メートル、泳ぐために発達した全身の筋肉から考えて、体重は120キロを超えるだろう。飛びかかられるだけでも大ダメージだが、彼らの攻撃手段はおそらく、手に備わった鋭い鍵爪によるもの。特に鍛えているわけでもないフィリップの肉など、触れるだけで切り裂けそうだ。


 魔術を撃てば片方は殺せる。だが残る一方の攻撃は止められない。

 フィリップに防御能力が無い以上、ここは照準のブレを許容してでも回避を優先するしかない。そう判断して足に力を籠め、飛び退く準備をした時だった。


 「──待て」


 唸るように、「深きもの」の一体──攻撃準備をしていなかった個体が制止する。

 その宛先がフィリップを含むこの場の全員であるのは、動きを止めた「深きもの」を見れば瞭然だった。


 その上で。


 「──《萎縮シューヴリング》」


 フィリップは魔術を行使し、手近な個体を炭化させて殺した。

 赦しを乞い、慈悲を乞い、介錯を乞う惨めで痛々しい死に様に、フィリップは死亡確認の無感動な一瞥だけを向けた。


 「──!」

 「待てと言った!」


 同胞を惨たらしく殺され、「深きもの」の一体が金属を擦るような耳障りな声で咆哮する。

 怒りのままに飛びかかろうとした個体をしかし、先程制止した個体が重ねて止めた。


 何か知らんがラッキー、もう一体殺せるな、と。好戦的な方を再照準するフィリップだったが、その射線を遮るように見覚えのある水のヴェールが出現する。

 撃ち込んだ魔術は案の定、それを黒く濁らせるだけに終わった。


 「……何者だ、貴様」


 冷静な方の個体がそう問いかけてくる。

 先程と同じく2対1、そして『深淵の護り』の耐久値は残り二発という状況だ。もう一発撃ち込んだらどうなるかを経験しているフィリップは止まるしかない。


 「我らが神の敵対者、邪悪の貴公子を信奉する者かと思ったが……違うな。貴様に信仰心は無い」


 フィリップは答えず、魔術の照準を続ける。


 「それに、この匂い。懐かしき星々の香りと、忌まわしき月の香り。シュブ=ニグラス、ナイアルラトホテップ……外なる神々の恩寵を受けた者か」


 フィリップが内心で抱いた驚愕と感心が、素直な表情筋によって出力される。

 魚面に人間の表情を読む機能があるとは驚きだが、彼はそれを汲み取って深く頷いた。


 「やはりな。こんな辺境の星に、貴様のような異常が現れようとはな。大いなるクトゥルー、我らが神も、それを予期してこの星へ来られたのか?」

 「……さぁね」


 それはフィリップの知ったことではないし、外神にとっても知る価値のないことだ。

 韜晦ではなく本心だと察し、冷静な「深きもの」が落胆したように首を振る。


 「知らぬのであれば、仕方ない。責めはせん。……時に貴様、ここが何処かは知っているのか?」

 「……いや、知らない。教えてくれると嬉しいな」

 

 揶揄うような口調で返すと、激昂していた方の「深きもの」が歯を食い縛り、ぎちぎちと威嚇音を鳴らす。

 対して冷静な方は穏やかに頷き、その魚顔を綻ばせた。


 「ここは我らが神たるクトゥルーの兵が眠る場所。かつてナイアルラトホテップによって現実と夢の狭間に封じられた、神の寝所だ」

 「へぇ、それは災難だったね。君たちの神に、アレの干渉を跳ね除けるような力は無いだろうし──と、いうか。シュブ=ニグラスやナイアーラトテップを知ってるのに、クトゥルフなんて矮小な神を信じてるの?」


 フィリップの嘲弄に彼らは不快感を覚えたようだったが、攻撃はしてこない。『深淵の護り』を解くか、その前に出て来てくれることを期待したのだが。

 彼らはむしろ落ち着いた様子で、逆にフィリップの疑問を嘲笑う。


 「フン。信仰する神の強さなどに、大した意味はない。重要なのは我らが捧げる信仰に対し、どれだけの見返りを与えてくださるか。そして幾星霜を経て受け継がれてきた信仰という一族の伝統を守ること。それだけよ」


 ヒュウ、と、感心を口笛で示す。


 「いいね。確かな認知と智慧を持った従属種族らしい答えだ。……で、どうするの? そのまま『深淵の護り』の奥に籠られると、ぶち抜けるような魔術を、僕は一つしか知らないのだけれど」

 

 厳密には二つだが、クトゥグアは無理だ。

 応接間は広々として豪奢ではあるが、それでもクトゥグアの巨大な化身が入る空間的余裕はない。今のフィリップは制御を誤れば焼け死ぬことになるし、その場合試験は不合格。ついでにステラの安全は保証されない。


 「ふむ……あの忌まわしき風の王を讃える魔術か。それも不愉快な話だな」


 本当に心底不愉快そうに言って、その個体が片手を掲げる。

 それが攻撃指令の前兆だと、フィリップだけでなく「深きもの」の片割れさえも思っていた。


 「兄の仇だ。殺してやるぞ、ガキ!」


 二人同時に突っ込んでくる様子はない。

 一体ずつなら『萎縮』で処理できる。あとは攻撃にフィリップの動体視力と反射神経が追い付くかだ。


 へぇ、さっき殺した炭塊は兄弟だったのか。という興味を振り払い、魔術の照準に集中する。


 こういう場合、対象の現在位置ではなく攻撃時に移動するであろう軌道を意識して照準するのだと、以前にルキアから教わったことがある。

 正直、魔術戦になった時点で負けが確定しているフィリップが身に付けるべき知識ではない、と心の底では思っていたけれど──なんだ。役に立つじゃないか。ありがとうルキア。


 ルキアが施した教導は、本来ならその成果を存分に発揮する場面だった。

 フィリップの動体視力は「深きもの」の突進を僅かに追いきれない。しかしその軌道予測と偏差照準によって、「深きもの」はフィリップの目前に到達する頃には内部組織の大半が炭化して死んでいる。


 そんな失敗に終わるはずの「深きもの」の攻撃は、しかし。そもそも実行されなかった。


 「──がァ!?」


 掲げた手は、唸り声を上げ、飛びかかる予備動作を取った個体の頭部に向けて振り下ろされた。

 鋭い鉤爪は同族の鱗をも引き裂き、どす黒く濁った血潮を吹き上がらせる。


 苦痛の悲鳴を数秒だけ漏らしほぼ即死した同族を労わるように見下ろして、残った「深きもの」は血に濡れた手を自らの頸部へ添える。


 「……分からないな。どういうつもり? 僕に殺される──ハスターに殺されるよりは、という判断?」


 フィリップの油断を誘う演技──いや、片割れの「深きもの」は本当に死んでいるので、捨て駒と表現すべきか──を警戒して、照準は外さない。しかし、それもポーズ以上の注力を伴ってはいなかった。


 質問に対して、「深きもの」は口角を歪める。

 それが嘲弄ではなく歓喜を示す笑顔だと、魚顔の感情表現を熟知しているわけではないフィリップにも分かる、明朗な声で答える。


 「ナイアルラトホテップは言った。『外なる神々に愛された者だけが、彼の眠りを解くであろう』と。遠回しに目覚めの時は来ないと言ったものとばかり思っていたが──そうでもなかったようだ」

 「だから──君たちの生存如何に関わらず、目的は果たされるから、自害すると?」


 「深きもの」が「左様だ」と頷く。

 そして思い出したように、壊れて打ち捨てられたローテーブルの残骸を示した。


 「以前に迷い込んだ冒険者どもを殺して奪った、何かの鍵がそこにある。大方、我らから奪った聖堂の鍵を金庫にでも収めたのだろうな」

 「……どうも。探す手間が省けたよ」

 「礼を言うのはこちらだ。貴様のお陰で、我らの使命は果たされる」

 

 朗らかにそう言って、「深きもの」は自分の頸を貫いた。


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