第86話

 真っ白な壁と床、天井。

 灯りも窓もないのに昼間のように明るく、光源も定かでは無い薄い影が降りている。


 近付いてよく見れば、床と壁は石のタイルで舗装されている。天井もきっとそうだろう。


 だだっ広い長方形の部屋だ。短辺は15メートル強、長辺はそれより少し長い。

 片方の長辺の壁には金属製らしき扉があるが、それだけだ。窓も無ければ、絵画や彫刻と言った装飾もない、無機質で閉塞感のある部屋だ。


 部屋の中央には木製の丸テーブルが一つ。

 引き出しは無く、卓上には小さなポーチが置かれ、その横には小ぶりなナイフが突き立てられている。


 取り上げてみるとずしりと重く、よく研がれた刃にはフィリップの困り顔が反射していた。




 ◇




 「では予定通り、テストをしましょう」


 いつものようにナイ教授の研究室を訪れたフィリップを、ナイ神父はそう言って出迎えた。


 その予定自体はフィリップも勿論覚えていたけれど、細部については何も知らされていない。

 たとえばどんなテストなのか。合格の条件、失格の条件といった大前提から、禁止事項やテストの形式についても。まさか筆記試験では無いだろうと、特に事前の勉強などはしていないが……まずかっただろうか。


 「筆記試験ではありませんので、ご安心を」

 「まぁ、そうですよね」


 領域外魔術『ハスターの召喚』を使いこなすためのテスト──いや、使と示すためのテストだ。

 出題者が人外の智慧を持つナイアーラトテップとはいえ、机に向かって答案用紙の空欄を埋めるような方法で、それが計れるとは思えない。


 「テストは実戦形式で行います。無論、神話生物や旧支配者と一対一で、なんて、面倒かつ無粋な方法ではありませんのでご安心を」

 「……それは、本当に安心できる情報ですね」


 神話生物はともかく、旧支配者でも上位の存在が相手だとしたら、出来損ないの『ハスターの毛先(仮称)』では全く歯が立たない。それを前提として、この魔術が「使える」と証明するのが本旨だ。

 要は切り札としてクトゥグアの招来を据えて、小手調べとして『毛先』を使うとか、とにかく「弱い魔術の存在価値」を示せばいい。……ということだろうか。


 正直なところ、ナイ神父が「テストに受かればいい」とか、妥協案を提示したこと自体がフィリップの予想の埒外だ。

 絶対にクリアできないとか、色々と捨てないとクリアできないとか、厭らしい裏があると予想すべきだろう。


 「で、具体的にはどういう?」

 「急きますね。まぁ、勿体ぶる必要もありませんが。テストは君に最低限度の問題解決能力があると示せばクリアです。そのハスターの毛先みたいな魔術が……なんです?」


 どうやらフィリップとナイ神父のネーミングセンスは似ているらしいが、それはフィリップにとってはあまり愉快ではない事実だった。

 「別に」と端的に言って、片手で続きを促す。


 「……その魔術が未完成でも問題ないと示しつつ、試験空間から脱出してください」

 「……はい?」


 脱出?

 指定目標の討伐などではなく?


 「これから君を異空間に閉じ込めます。あぁ、意識のみを隔離するので、副王の庇護は当てにしないように。攻撃されれば死にますよ」


 攻撃されたら死ぬ。

 それは、まぁ、当然といえば当然ではあるのだけれど──フィリップにとっては、この半年間、遠くにあった“当然”だ。


 論理が整っているどころか1=1ぐらいの正当性があるせいで理解が遅れるが、それは少し、いやかなり話が変わってくる。

 

 「ちょっと待ってください。それ、クトゥグアやハスターを召喚した場合、僕は普通に死ぬのでは?」

 「精神防護は万全なので、召喚が即、死と繋がるわけではないでしょうが……暴走、或いは攻撃範囲の指定ミスなどがあれば、普通に死ぬでしょうね」


 ……どういうつもりだろうか。

 フィリップをわざと殺し、外神として再創造する──というわけではないだろう。その疑いを数秒の思考で棄却できる程度には、フィリップはナイ神父のことを信用していた。より正確には、彼に対するストッパーであるシュブ=ニグラスとヨグ=ソトースを、だが。


 「……意外と冷静ですね。魔術の照準ぐらいは覚悟していましたが」 

 「覚悟とは、また大仰な」

 

 つまらなそうに言ったナイ神父に、フィリップは苦笑を向ける。

 フィリップが何をしようと、ナイ神父を傷付けることはない。本気の魔術を撃ち込んだとしても、だ。そんな相手に「覚悟」という言葉は、確かに大仰だった。


 「お察しの通り、君が異空間で死んだとしても、肉体に影響はありません。いわば精神世界、夢のような場所ですからね。……普通は強烈な死のイメージに身体が引っ張られて、錯死するんですが」

 「マザーの精神防護、ですね」

 「ご賢察です。肉体は死にはしませんし、死という全生命体にとって最も忌むべき状態を経験しても、発狂することはありません。……とはいえ、文字通り死ぬほど不快なはずです。後遺症こそ無いでしょうが、魔力欠乏の比ではない苦痛も感じます。お忘れなきように」


 あのナイアーラトテップが事前に忠告するあたり、本当に不快なのだろう。それこそ、フィリップが異空間で死ねば、ナイアーラトテップに何かしらの制裁が下るレベルで。でなければ忠告などしないだろうし。

 ヨグ=ソトースにぶん殴られ、シュブ=ニグラスに絞め殺されるナイアーラトテップはさぞかし見物だろうが……嫌がらせのために死ねるほど、フィリップは苦痛に慣れていない。


 「ということは、普通にクリアする分には死なない……少なくとも、確実に死ぬようなテストではない、って認識でいいんですよね?」

 「無論です。……それはテストではなく、処刑と言うんですよ」


 尤もだが、ナイアーラトテップはそういうことをする。

 フィリップに対してどうかは知らないが、幾つもの星、幾つもの生命や文明に対して、戯れに死を突き付けてきた邪神だ。言葉を額面通りに、手放しで信用していい相手ではない。


 「他に質問が無ければ、そろそろ始めましょうか」

 「……分かりました」


 フィリップの返答を受け、ナイ神父はそっとフィリップの頭に手を伸ばす。

 その手が聖水で濡れていれば洗礼にも見える、厳かで堂々とした動き。普段なら警戒して距離を取るフィリップも、概ね説明を受けていれば身構える程度だ。


 「では、ご健闘を」


 額に当てられた手が強い光を放つ。

 あまりの眩しさに、フィリップは驚きの声を漏らして後退した。


 「う、わ……!?」


 反射的に目を閉じてなおも目蓋が赤く透けるほど、強烈な光だった。朝日を直視したレベルの眩惑が残っている。

 目が覚めるような、と形容できる輝きだったのに──強烈な眠気が襲ってくる。足元が覚束ない。直立していられない。視界が揺らぎ、目蓋が落ちてくる。頭が、重い。


 目の前で抱き留める準備をしているナイ神父から離れたいのに、足が言うことを聞かない。せめて椅子の方に倒れ込もうと、わざとバランスを崩す。

 傾いでいく視界の端で、上から下に金色の波が流れるのを見る。顔を向け──暗くなっていく視界で、とても見たくないものを見た。


 「王女、殿下……?」


 苦しげな顔で倒れ伏す、ステラの姿を。




 ◇




 そして、体感的には一瞬の後。

 魔力欠乏で失神したときのような、意識の不連続感と倦怠感を覚えながら、視界以外の感覚で横臥状態だと察する。


 反射的に目を開けてまず真っ先に目に入ったのは、ステラの苦しげな寝顔だった。


 「……最悪だ」


 手を伸ばせば届く距離に、ステラがフィリップと同じく横たわっている。

 ルキアと同じく「可愛い」というよりは「綺麗」というべき美貌だな、とか。ルキアとは違って明朗快活といった態度だけど、風貌自体はルキアと同じで冷たい美しさだな、とか。まぁでも、やっぱりマザーの方が綺麗だな、とか。健全な男子としてはそんな感じのことを考えるべき一瞬かもしれないが、先日誕生日を迎えたとはいえ、フィリップはまだ子供だ。


 そして、そんな舐めたことを考えている場合ではないことを、フィリップはしっかりと記憶していた。


 慌てて跳ね起きると、急な姿勢の変化で立ち眩みに襲われる。

 ふらつく足でステラを踏まないように壁際へ寄り、視界の回復を待つ。


 数秒の後、フィリップはようやく自分の現在位置を知る。

 ここは、真っ白な部屋だった。


 真っ白な壁と床、天井。

 灯りも窓もないのに昼間のように明るく、光源も定かでは無い薄い影が降りている。


 近付いてよく見れば、床と壁は石のタイルで舗装されている。天井もきっとそうだろう。


 だだっ広い長方形の部屋だ。短辺は15メートル強、長辺はそれより少し長い。

 片方の長辺の壁には金属製らしき扉があるが、それだけだ。窓も無ければ、絵画や彫刻と言った装飾もない、無機質で閉塞感のある部屋だ。


 部屋の中央には木製の丸テーブルが一つ。

 引き出しは無く、卓上には小さなポーチが置かれ、その横には小ぶりなナイフが突き立てられている。


 取り上げてみるとずしりと重く、よく研がれた刃にはフィリップの困り顔が反射していた。


 「……どうしよう?」


 ここがナイ神父の言っていた「脱出すべき試験空間」で間違いないだろう。

 だがステラはどうする? 彼女がどうしてここにいるのか──正確には、どうしてナイ教授の研究室を、あんな最悪のタイミングで訪ねてきたのか。


 いや、最悪のタイミングで最悪の場所に来てしまっただけなら、まだマシだ。


 彼女が巻き込まれること自体、ナイアーラトテップが仕組んでいるということも有り得る。

 このテストの目的は「ハスターの召喚が未完成でも問題ないと示す」こと。『クトゥグアの召喚』、『深淵の息ブレスオブザディープ』、『萎縮シューヴリング』、そして『ハスターの毛先(仮称)』だけで、現状、十分に自分の身を守れると示すことだ。


 これまでフィリップが直面した戦闘には、常に誰かが傍にいた。

 衛士、ルキア、クラスメイト、班員。彼らを殺さず、発狂もさせずという縛りが、常にフィリップには課せられていた。そして今後も、衛士やルキアを殺したり、発狂させたくはない。


 を想定しているとしても、これはやりすぎだ。


 この精神空間での死や狂気は、現実の肉体にもフィードバックがあると、ナイ神父は言った。

 フィリップはともかく、ステラはここで死ねば現実でも死に、発狂すれば現実でも狂う。彼らがアフターケアをするなんて、甘い幻想は持てない。


 最悪だ。

 なんて、本当に、最悪だった。

 


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