第87話
ステラがここにいることは、ナイ神父の狙い通りかもしれない。
ここでテストを中断して戻ったとして、待っているのは「甘いですねぇ、フィリップくん。そういうところ、直した方がいいですよぉ。不合格です」と嘲笑してくるナイ教授かもしれない。
フィリップが背負いがちな「枷」を想定してのものか、或いはフィリップがどこまで冷徹になれるかを測っているのか、それとも、この決断──最速の解決策を取ることが正解なのか。
両手で掴んだナイフを自分の首元に突き付けて、フィリップは息を荒らげながら思考する。
ナイ神父は、ここで死んでもフィリップの肉体は死なないと言った。
でもたぶん、きっと、物凄く痛くて、苦しいのだろう。
どう死ねば痛くない? 首の血管を切る? 喉にナイフを突き立てる? なんとなく、前者の方が痛みは少なそうだけれど──長引きそうに思える。
大量出血して、痛くて寒くて苦しくて力が入らなくなって、それから「あぁ、痛くても早い方がよかったな」なんて、思いたくはない。
夢の世界だから、何だと言うのか。首元の金属の冷たさと鋭さは、間違いなく本物だ。
死なないから、何だと言うのか。文字通り死ぬほど痛くて苦しいのだろう? なら、死は温情ですらある。
死にたくないとは思わない。だって、死なないから。
ここは精神の世界。こうしてナイフを持ち、震えているフィリップは、魂とか精神とか呼ばれるもの。マザーが守っているものだ。だから、少なくともフィリップが死にたいと願うまでは、死なないはずだ。
でも絶対に痛い。嫌だ。痛いのは嫌だ。苦しいのも嫌だ。
思考が空転して、同じことを何度も考えている。
痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。辛いのは嫌だ。怖くて涙が出てくる。けれど──フィリップはこれをやっても、死なない。きっと向こう一週間くらい寝込んで、「もう二度とやらない」とか悪態を吐いて、それで終わりだ。
ここで死ねば現実でも死に、ここで狂えば現実でも狂うステラを、ここから逃がす一番安全で簡単な方法が
やるしかない。やるべきだ。──やる、はずだ。
ジェイコブ、ヨハン、名も知らぬ衛士たちなら。確実に殺される戦力差を分かっていて、悪魔に挑みかかった。斬られ、焼かれ、命を天秤に掛けられ、しかし一歩も退かなかった彼らなら。
ルキアもそうだ。神話生物の末裔と、第一世代のシュブ=ニグラスの落とし子。個体次第では今のフィリップにとってさえ脅威になるような存在を前にして、ほんの数時間前に会った怪しい子供を、自らを囮にしてまで逃がそうとした彼女なら。
彼らなら。彼女なら。
フィリップの憧れた「人間」なら、こうする、はずだ。
なのに、手が動かない。
喉を突こうとしても寸前で、首筋を撫でようとしても薄皮を一枚切って、刃が震えて、手が震えて止まる。
誰も介入していない。誰も制止していない。
フィリップの右手に力が籠ると、左手がそれを押し返す。
ためらい傷のできた首筋にぴりぴりとした痛痒がある。
それが致命傷の痛みをしっかりと想像させて、よりいっそう怖くなる。
「ぅ、ぁ……」
嗚咽が漏れる。涙が頬を伝い、床に滴る。
彼らの何倍も恵まれた、甘い位置に立っているのに──死線なんて、見えてもいない場所なのに、一歩も踏み出せない。
死ぬのが怖いなら、それは本能だと受け入れもしよう。でも死ぬなんて一片も思っていない。
痛いのが怖い。苦しいのは嫌。そんな、彼らが克服した死への忌避と恐怖を何倍も、何十倍にも希釈したような甘い理由で、刃が止まる。
「は、ははは……」
泣くほど悲しいのに、笑えてくる。
なんだ、意外と──自分で思っていた以上に、人間性が残ってるじゃないか。
彼らの宝石や太陽のように輝かしいそれではなく、吐き捨てられた唾のような、それこそ唾棄すべき、どろどろに濁った自己保身が。
「はははは……」
なんと情けなく、惨めなことか。
こんな、こんな無様なモノは──僕の憧れた「人間」じゃない!
背中を反らせるように振りかぶる。
やれ。でなきゃ死ね。そんなクソみたいな情けない人間性に拘る必要は無い。さっさと死んで、外神にでも何でもなってしまえ。
「──ッ!!」
刃を振り、喉元へ突き立て──
「──止せッ!」
耳に刺さるような怒声を聞き──ぞぷ、と。湿った音を立てて、刃が止まる。
喉元から胸元へと温かい、赤い血が流れていく。
痛みは全く無い。
当然だ。刃はステラの右手を貫通しておきながら、フィリップの喉にはその先端を薄皮一枚分すら食い込ませず、僅かに触れて止まっていた。
◇
幸い、テーブル上のポーチには、これも攻略に役立てるためであろう、救急処置セット……のようなものが入っていた。
内用錠剤型の鎮痛剤と、外用塗布型の化膿止め、あとはよく分からない錠剤が幾つか。精査している余裕はなかったから、とりあえず鎮痛剤だけを飲ませ、傷口には化膿止めを塗って、フィリップのシャツの袖を片方裂いて縛った。
ハンカチは持っていたはずなのに、それも、ルキアに貰った懐中時計も、現実で持っていたものは何も無かった。着の身着のまま、といった感じだ。
「……ふむ。いい手際だな」
「……ありがとうございます」
衛士たちが悪魔に負わされた傷は、もっと深く広範囲で、そのうえ火傷もしていた。掌を貫通するという大怪我の処置を落ち着いて、的確にできるだけの経験はある。
だが掌を貫通する傷の処置としては、かなり甘い。本当なら縫合か、最低でも止血剤でパックしておきたいところだが、無いものねだりだ。あの時はその手の処置の殆どを魔術で置換できる治療術専門の衛士がいたから良かったが……これも、意味のない回想だ。
夢の中の傷が現実に影響する可能性は有意にある。たとえば、こちらで欠損した部位は現実では機能不全に陥るとか、化膿した部位は現実では腐り落ちるとか、そんな危険性が。
思い至ってしまった以上、無視は出来ない。不足だ、甘いと思いながら、できる最善を尽くすしかない。
「……ごめんなさい」
処置を終えて、フィリップは深く頭を下げる。
フィリップは立って、ステラはテーブルに腰掛けているが、頭の位置はそう変わらない。
深く、深く、首筋とうなじを晒すように。
ステラがその気になれば、彼女の横に置かれている血まみれのナイフを取り、突き立てられるように。
じっとりと首筋にかいた汗が、傷に染みて鋭く痛む。
この何倍もの痛みに襲われているはずなのに、ステラは傷の原因であるフィリップを一度も責めていない。何のつもりで、何の思惑があって自害を試みたのかとすら、問われていない。
「……っ」
首筋に、ステラの指が這う。
縊り殺されるのか、なんて勘違いを抱かせない、柔らかく気遣うような手つきだ。
何条も刻まれた躊躇い傷に触れ、優しく繊細に、化膿止めの軟膏を塗り込んでいく。十分に塗りこめたと判断すると、彼女もブラウスの袖を切り裂き、気道を圧迫しないように巻き付けた。
「……すまない、カーター。お前の苦悩はすべて、私のせいだ。私が好奇心に駆られて、お前の補習を覗いたりしなければ──」
「……は?」
ステラが言葉を終える前に、フィリップの口から驚愕と憤怒が漏れる。
それを当然のことと受け止めようとしたステラだったが、フィリップの視線はステラには向いていなかった。その怒りの矛先も、だ。
覗いていた──覗くことが出来た。
それは、まぁ、そうなのだろう。彼女がここにいることと、その言葉に矛盾はない。嘘ではないだろう。
問題なのは、彼女が覗くことができたという点だ。
ナイアーラトテップの対諜報能力が人間に劣るとは考えられない。つまり、意図的に穴が空けられていたということ。
別に、それ自体を責めるつもりはない。
フィリップに対して「詮索の遮断は万全です」などと嘯いた件については、後で問い詰めるとして──フィリップやナイ神父のことを探ろうとする者が、勝手に狂って死んでいくような仕掛けだ。悪辣だとは思うけれど、それは因果応報と言うか、知るべきではないことを知った結果と言うか、それこそ「殺せば死ぬ」くらいの当然性がある。
しかし、ナイアーラトテップは「ナイ教授」なる、生徒たちの興味や関心をこれでもかと引き付ける化身を象ってきた。
それで探れば狂うような罠を仕掛けるのは、マッチポンプというか、ただのテロだ。しかも小火で野次馬を集めてから本命の大爆発を起こすタイプの、悪辣なやつ。
「……殿下のせいではありません。たぶんですけど」
テロと表現したのは、我ながら面白い言葉選びだった。
確実に、なんてわざわざ言うまでもなく、ナイアーラトテップはこの状況を予測していた。
フィリップが魔術の習得に難儀し、ゴネて、テストを実施するというところまで、赴任してきた時には見えていたはずだ。
だから──誰でもよかった。
フィリップがテストを受ける時に、自分から勝手に巻き込まれに来てくれる人間がいれば、それで良かった。1人でも、複数人でも、男でも、女でも、生徒でも、教師でも。
たぶん、最有力候補はいつも一緒にいるルキアだったのだろう。けれど彼女は、フィリップの言葉に従って一切の詮索をしないでいてくれた。
彼女の無事を喜びたいところではあるけれど──そんな場合ではない。
「いや、本当に私のせいなんだ。私は私の好奇心のせいで、この意識空間とやらに巻き込まれた」
「……この空間について、僕と同じ情報を知っていると考えても?」
「あぁ、懺悔させてくれ。私はお前とナイ教授……いや、ナイ神父との会話を聞いていた」
フィリップはうっと言葉を詰まらせる。
ナイ教授の話し方が不快だから、なんて理由でナイ神父の化身を指定したのは間違いだったかもしれない。
「彼が何者なのか。どうして学院に居るのか。……それを問い詰めるつもりはない。そんな場合ではないからな」
ステラは軽く笑いながらそう言って、テーブルから立ち上がる。
フィリップもそれには同意するところだ。
ここはナイアーラトテップが用意した試験空間。おそらくはフィリップに対処させるため、神話生物か、最低でも魔物くらいは配置しているはずだ。こうしてステラの怪我を処置する余裕があったのは幸運だが、のんびりしていい場所ではない。
「そう、ですね。じゃあ……」
改めてナイフに手を伸ばすと、ステラがテーブルからさっとナイフを取り上げる。
「殿下?」
この空間のことを知っているのなら、フィリップが一度死ねばすべて解決すると分かるはずなのに、どうして邪魔をするのか。
先ほどは起き抜けで動転していたのかもしれないが、今はもう冷静だろうに。
「カーター。お前が私を巻き込むまいとしてくれているのは分かる。そのために、泣くほど怖いのを我慢して、自分の喉を裂くつもりだったこともな」
ステラはひらひらと、赤い血の滲む白いシャツが巻かれた右手を振り、揶揄うように笑う。
だったら尚更、どうして邪魔をするのか。そう言いたげな怪訝な表情を浮かべたフィリップの双眸を、彼女は真剣な表情で見返した。
「まずは、礼を言おう。ありがとう。私のために、それほどの決意をしてくれて。そしてその上で、確認させてくれ。お前が死んだ後、私がこの空間から脱出できる可能性は100パーセントか?」
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