第85話

 陽光が降り注ぎ、ぽかぽかと暖かな空気が満ちる校庭。木陰には清涼な風が吹き込み、木漏れ日が心地よい明るさを作り出してくれる。

 刈り揃えられた芝生の上に寝転がってみれば、昼食後の満腹感も相俟って、穏やかな微睡みに包まれること請け合いだ。最高に贅沢な、ルキアの膝枕付きであればなおのこと。


 その心休まるひと時で充填したエネルギーが、早くも枯渇しかけていた。


 「あれあれ? またビヤーキーですねぇ。ハスターとは比べ物にならない非神格、君との差も分からないくらいの低級存在ですぅ。はい、しっぱーい。もういっかーい!」


 ナイ教授がぱんぱんと空気を切り替えるように手を叩くと、聞くに堪えない音を立ててビヤーキーが消滅する。

 ちなみにビヤーキーは翼竜が産み落とした蜂のような外観で、突然変異した魔物と言い張れないこともない程度の気持ち悪さだ。肝の太い人間であれば、直視しても驚く程度で済むだろう。磁気を持った鳴き声という特殊な交信手段を持つらしいが、フィリップはまだ一度も聞いたことが無い。


 「……ビヤーキーがいれば……ハスターの招来は……成功しやすくなるのでは……?」


 息も絶え絶えに、重度の魔力欠乏から来る疲労・倦怠感に抗いながらそう言ってみる。


 「その話はこれで43回目ですねー。思考と記憶が覚束なくなってきましたかー? じゃあ、ラスト一回!」

 「…………はい」

 

 フィリップが魔力欠乏で死んだらどうするつもりなのだろうか、この邪神。

 いや、どうもしないというか、何なら願ったり叶ったりという状況か。そうなったらフィリップを外神として産み直せばいい。肉体は強靭になり、戦闘能力は向上し、魔術を仕込む必要も無くなる。


 それに、まぁ。

 本気で死にそうになったら、この状況を見ているであろうマザー──シュブ=ニグラスか、ヨグ=ソトースのどちらかが介入してくるだろう。たぶん。


 本当に、全く、嫌になる。

 どうしてハスター程度の存在に、ここまで骨を折らされているのか──


 「……ぶるぐとむ あい あい はすたあ」


 適当な構え、適当な詠唱。

 もはや単なる魔力の浪費になりそうだったその魔術行使は、しかし、構えていた右手から迸る暴風による大破壊に、ナイ教授本人とその部屋を盛大に巻き込むという、望外の結果を齎した。


 「──え?」


 元が人型であったことすら判別できない肉の塊になった、ナイ教授の矮躯。

 整然としていた錬金術工房は、今や竜巻が過ぎた後も斯くやという惨状だ。


 何が起こったのか。考えればすぐに分かることだが、残念ながら、今のフィリップに考えるだけの余力は無かった。


 「痛っ……」


 床材が捲れ、抉れ、吹き散らされ、瓦礫状になった床に倒れ伏せる。

 ここ一月ですっかり慣れてしまった限界の感覚に身を任せ、フィリップは自分の挙げた成果を認識する前に意識を失った。




 ◇




 翌日。

 ヘタクソな口笛を吹き、スキップなどしつつ廊下を行くフィリップという、とても珍しい──ここ最近は同じ道を死んだように歩いていた──ものを、生徒たちは遠巻きに見ていた。


 その後ろを悠々と歩いてついて行くステラの姿は、陽炎が光を歪曲させており、視認不可能になっている。

 尤も、彼女が魔力を秘匿しているとはいえ、元々の魔力が強大かつ膨大だ。多少なりとも魔力感知能力に秀でていれば、その位置はすぐに看破できる。気付かないのは一般人並の魔術適性しか無い──というか、魔術師か一般人かという区分では間違いなく一般人のフィリップだけだ。


 ナイ教授の研究室の扉をきちんとノックし、しかし返事を待たずに入る。

 普段は丁寧な物腰で、礼儀作法をよく躾けられていると感じさせるフィリップだが、ナイ教授相手には少し雑になるらしい。やはり親密な仲なのだろうかと、ステラはそんな予想を強くする。


 フィリップが入り、施錠した扉の前で耳を澄ます。

 微かにではあるが、中の会話が漏れていた。


 「こんにちは、フィリップくん。昨日は大成功でしたねぇ」


 媚びるような甘ったるい、しかし母性を擽る幼い声。ナイ教授のものだ。


 「こんにちは、ナイ神父。また忘れてますよ」


 ナイ教授と同じ名前の、しかし別の誰かに向けたフィリップの声。直後に耳障りな湿った音が続き、ステラは思わず扉の前から一歩退いた。


 ほんの一歩離れただけで、中の会話は全く聞き取れなくなる。

 無数の触手が這い回るような音が耳に残っている気がして、ステラは何度か耳を擦る。今のが何の音だったのかなんて想像するだけで吐きそうなほどだが──考えないわけにもいかない。


 もう一度扉に耳を寄せ──


 「では、取り敢えず、どうして昨日はあのような結果を産んだのか。まずはその理由から考察してみましょうか」


 ──耳触りの良い、知らない男の声がする。


 「え? は? 誰の声だ?」


 思わず扉に手を掛けるが、覗き窓のない引き戸はしっかりと施錠されており、漏れ聞こえる声以外の情報を与えてくれそうにない。

 音を立てない程度に動きを繊細かつ緩慢にするだけの理性が残っていたのは幸いだったが、そうしている間にも部屋の中では男の声と、少し幼い男の声が会話を続けている。


 視界を優先するか、もう一度聞き耳を立てるか。

 ステラはもう一度耳を寄せ、視界の確保は諦める。こちらから見えるということは、向こうからも見えるということだ。


 光の操作にはステラの追随すら許さない圧倒的なセンスを誇るルキアがいてくれれば、と思うも虚しい。


 「……といったところでしょうか。要は普段通りに物事を捉えていればよかったんです。……こんな風に!」


 年相応の悪戯っぽいハイテンションな声で、フィリップが勝ち誇ったように叫ぶ。

 直後に風の吹き荒れるような轟音が響き、一瞬で消える。


 「……なんだ? あいつ、魔術が使えたのか?」


 だが失敗したのかと、ステラは沈黙の降りた室内に神経を尖らせる。


 ちなみに、フィリップは昨日と同じように水平方向に伸びる竜巻のような大破壊を召喚したが、ナイ神父が呆れたような溜息一つで相殺しただけだ。

 勝ち誇ったような表情を浮かべていたフィリップは一転、強張った笑顔を。ナイ神父はいつも通りの嘲笑を浮かべている。


 「……昨日は君が昏倒したので伝え損ねていましたが、これは「失敗」ですよ、フィリップ君」

 「……そんな気はしていました」


 フィリップが行使している魔術は『ハスターの召喚』だ。竜巻の召喚や暴風の召喚ではない。断じて、こんな現代魔術の上級に区分されそうなの魔術では、ない。


 「でもこれでよくないですか!? 人間一人が使う攻撃魔術として現実的な威力で、しかも直視しても問題ない外観! これこそ僕が求めていた魔術なんですが!」

 「でも、弱いじゃないですか」


 フィリップが指を突き付けて吠えるように言い募り、ナイ神父が淡々と切り捨てる。

 フィリップは無言で無表情で、しかし納得してしまっていた。


 「どういう判断基準なんだ? そりゃあ、部屋が壊れていない時点で相当弱い部類の魔術だろうが……」


 聞き耳を立てている人類最強ステラも、自分基準ではそう判断するところだ。

 とはいえ、相手はほぼ一般人だ。風の発生か何か、細部は定かでは無いにしろ、魔術を発動させるだけでも相当な努力をしたのだろう。それだけで褒められるべきだし、それ以上を望むのは現実的ではない。


 「君は、今の攻撃が私ではなく旧支配者が相手だったとして、通用すると思いますか?」

 「……いいえ」


 旧支配者と言ってもピンキリだが、基本的に人類では太刀打ちできないと考えて良いだろう。今のような「人類にも再現可能なレベルの結果」である時点で、その魔術は大概の旧支配者には通用しないということだ。

 だからこそ、ナイ神父はフィリップに純粋な攻撃や防御の魔術ではなく、同等存在を召喚する魔術を教えている。


 「正解です。今のは──の先触れ、いえ、人間風に言い表すのなら、髪の毛の先端のようなものです」

 「……進歩はしていますね」

 「そうですね。程度で言えば、赤子が自力で寝返りを打てるようになった、くらいのものです。大躍進ですね」

 

 言葉の一部が、脳が理解を拒むように「音」として聞き流される。

 その不自然さに、ステラは幸いにも気付くことは無かった。


 ぱちぱちぱち、と、ナイ神父が心の籠った拍手を送る。

 籠っているのは嘲りだ。だが、どうしてか、深い敬意をも同時に感じさせる。


 少しのあいだ黙っていたフィリップが、妙案を閃いたというように指を弾く。


 「そうだ。これはこのままにして、別の魔術に切り替えましょう!」

 「駄目です。もう魔力欠乏に陥っているんですか? この程度で目的達成などと嘯いては、父王と、その寵児たる君に顔向けできません」

 「千の貌があるのに?」

 「…………」

 「……あの、星空の顔は酔いそうになるので止めてください」


 何の話をしているのかと困惑するステラを余所に、中では会話が──否、聞き取ろうとするだけで吐き気を催すような「音」と、それに応えるように一人で話すフィリップの声が続く。


 「テスト? またテストですか? つい2週間前に中間試験が……なんでもないです」


 「え? クリアすれば『ぁすとるの召喚』はこのままでいい? ……一応聞いておきますけど、クリアできない難易度とかではないですよね?」


 「明日ですか、分かりました。……あの、そろそろ顔を戻してくれませんか?」


 これ以上「音」を聞いていると本気で吐きそうだと、ステラは足早にその場を立ち去る。


 収穫はゼロに近い。

 会話の意味はあまり、いや全くと言っていいほど分からなかった。何かの符丁かとも思ったが、その手の暗号会話に特有の他者への警戒や、仄暗い謀略の気配がしなかった。あの二人には何かを秘匿するという意思は無かったように思える。

 つまり、言葉をそのまま受け取っていいということだが──それでも意味不明だった。


 唯一、彼らが洗脳系統の魔術師でないことは確認できたと言ってもいいが、それは新しく浮かんだ疑念が消えただけ。振り出しに戻っただけだ。

 

 明日のテストとやら。それを少し無理してでも見てみないことには、何も分からない。

 百聞は一見に如かずとはそういう意味ではないが、視覚から得られる情報は聴覚からのそれより何倍も多く、濃い。


 「ルキアに頼ってみるか……? いや、無理か」


 ルキアの頑なさはよく知っている。

 彼女が「やらない」と言ったのなら、それを覆すのはほぼ不可能だ。何より、覗き見は彼女の美意識にそぐわないだろう。


 「どうするか……」


 マスターキーの用意はしてあるが、と。

 ステラは指先に蝋燭大の小さな、しかし鉄すら蒸発させる極高温の炎を灯した。

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