第84話
11歳の誕生日を境に、つまり新学期開始から一週間足らずで、フィリップの安寧は破壊された。
本当は新学期初日の時点で壊れていたものが顕在化したとも言えるが、表現は然して重要ではない。
毎日、放課後にナイ教授の研究室──人間には不可能な方法で空間を拡張し、強化したという外観の三倍近いスペースを誇る特別製──に籠り、悍ましき邪神ハスターを讃える言葉を繰り返す日々。
毎日だ。毎日毎日毎日、雨が降ろうが風が吹こうが屋内なので関係なく、魔術実習の授業で魔力欠乏一歩手前だろうが、基礎体力を付ける目的の体育の授業で全身筋肉痛だろうが、彼女は満面の笑みで「はわわ、失敗でしたねー。まぁ君の才能ではそんなものですよー。はい、もう一回」と繰り返す。
ハスターを召喚したらまず真っ先に
「がーんばれ♡ がーんばれ♡」と、媚びるような甘ったるい声を上げるナイ教授に覚えた吐き気を我慢していても。
「あれあれ? また失敗ですねぇ。でもでも、ヒトってそういうモノですよねぇ」と嘲笑ってくるナイ教授に同意しないよう、必死に心を無にしていても。
変わらず、領域外魔術『ハスターの召喚/使役』は失敗する。
完全なる不発か、ハスターの下僕たる神話生物ビヤーキーが現れるか。ちなみに現れたビヤーキーは数秒もせずにナイ教授が消し去る。帰還ではなく、フィリップでは知覚できない手段による抹消だ。
呪文は合っているはずだ。ナイ教授が教えた呪文が間違っているとは考えにくいし、もし間違っていたらもう思いっきり嘲笑してやる。
召喚対象への理解もあるはずだ。フィリップの持つ智慧は外神に授けられたもの。通常の人間であればとっくに発狂しているか自害している、精神汚染にも等しい膨大で悍ましい知識がある。
何が不足しているのか、或いは何が過剰なのか。
きっとナイ教授には分かっているのだろうが、それをフィリップに伝えるつもりは無いようだ。自分で気づくまで、或いは飽きるまでは、フィリップの試行錯誤を愉しむつもりか。
もしそうだとしても、自ら悟り蒙を啓くことの重要性を知っているだけに、フィリップはそれを責められない。相手がナイ教授でなければ、そのスタンスに感謝すらしただろう。
ナイ教授の教育方法は、フィリップの性質と環境、そして目的に非常に即している。まるでというか、真実、フィリップを教導するためだけに顕現した化身だ。
フィリップに必要以上の嫌悪感を与えないよう、ナイ神父の姿で理論を教え込む。嘲笑も蔑視も愛玩も、この姿の時には最低限の──彼が抱いているもの、フィリップが心の底から共感できる程度のものしか混ざらない。
フィリップに嫌悪感や憎悪、殺意といった集中を乱す感情を催させるため、実践時にはナイ教授の姿を象る。彼女から飛んでくるのは、フィリップを不快にさせるためだけの嘲りと煽りだ。人類や世界への冷笑が根幹にあるだけに、こちらも反駁し辛いのが厭らしい。
「ほらほら、そんな甘々でよわよわな魔術構成だと、また暴走しちゃいますよぉ? 君の大事な糞袋ちゃんも、君の住まう社会も、みーんな壊れちゃいますよぉ? もう一回やりましょう! がんばれ♡ がんばれ♡」
◇
後学期の中間試験を数週間前に終え、生徒たちの気が抜ける時期。
その昼休みともなれば、食堂は賑やかな活気に包まれる。
食器の立てる音、生徒が話し、笑う声。陽気で、喧しく、しかし嫌いにはなれない騒々しさだ。
そんな明るい食堂の片隅で、フィリップとその周囲の空間はどんよりと淀んでいた。
「もうやだ……」
瞳どころか身体の輪郭すら溶けているのかと思わせるほどぐったりと机に突っ伏し、口の端から弱気を垂れ流すフィリップ。
ルキアもステラも、ヘレナに呼ばれて今は不在だ。
だからこうして、癖もしつけも忘れて行儀の悪い姿勢で飯を食い、弱音を吐けているのだが──少し、寂しい。周りから聞こえる喧騒が、フィリップの孤独感を際立たせる。
「辞めたい……」
毎日の授業、魔術の実習、そしてナイ教授の放課後特別授業。
フィリップが魔力欠乏一歩手前で済んでいるのは、この魔術学院の環境が魔術を学ぶ者にとって理想的だからだが、そろそろ限界だった。
そもそも、フィリップの魔術適性は一般生の半分以下だ。魔力の総量も、回復能力も、魔力操作に必要な集中力も、全てが劣る。
ルキアとの魔術訓練を中断して余力を作っても、そんなものは一週間で食い潰された。
魔力欠乏から来る精神疲労。虚脱・憂鬱感。無気力。
そして難しくなりつつある授業や実習による体力の低下。回復しきらない体力・精神力をじわじわと削りながら、一か月ほど耐えてきたが、もう無理だ。破綻する。
「……辞めるとか逃げるとかできないのが一番つらい」
フィリップ強化計画はナイアーラトテップが始めたことだが、その根幹にあるのはアザトースの意図なき命令だ。フィリップが何を言ったところで、途中で切り上げることはないだろう。
唯一の例外は、フィリップがこの脆弱極まる肉体を捨て、ナイアーラトテップやシュブ=ニグラスが認める程度には強力な存在に変性した場合。フィリップが最悪と定義する状態になった場合だけだ。
「それは嫌だ…… けどもう疲れた…… せめてナイ教授じゃなくてマザーがよかった……」
と、そんな全自動弱音垂れ流し機になったフィリップを柱の影から見守る人物が二人。
ヘレナに言われた用事を終え、遅れて食堂にやってきたルキアとステラだ。
「フィリップ……」
「……まぁ、あいつの魔術適性ならよく耐えた方だろう。魔力の大量消費と回復をあれだけ繰り返して、総量も回復能力も殆ど成長していない」
ルキアは心配そうにフィリップを見つめ、ステラはそんなルキアを宥めつつ、フィリップの中で脈動する魔力を観察する。
ステラはこの一か月、フィリップが授業終了後に「ナイ教授に呼ばれているので」と別れ、夕食の時に魔力をほぼ空にして合流するのを見ていた。
普通はそんなルーチンを一週間も繰り返せば、魔力の総量や回復能力はそれなりに向上する。一か月も繰り返せば、目に見えて成長するはずだ。尤も、身体が保てばの話だが。
そして、フィリップの成長は皆無だった。
魔術的な素養が絶対的なまでに欠けている。あれでは本当に一般人と何ら変わりない。
どういう理由があるのかは不明だが、そんなハードワークを続けられる精神力があるのかと思えば、こうして限界を迎え弱音を吐いている。
本当に──ルキアは、あれの何に惹かれて傍に置いているのだろうか。
ルキアに限って、洗脳されたとか、異性愛に目を曇らせたとかは無いだろうが。
「なぁ、ルキア。お前は……」
「──何、ステラ?」
お前はあいつの何処を買っているのか。そう訊ねたとして、ルキアがどう返すかは予想できる。「自分の目で確かめろ」だ。
答えの分かり切った質問をすると言うのもガラではないし、ステラは二つ目の疑問を口にする。
「──気にならないか? 一般人並みの魔術適性しかないカーターが、どんな補習を受けているのか」
ルキアは少しだけ眉根を寄せ、不快感を示す。
「それ、好奇心? それとも遠回しにフィリップを馬鹿にしてるの?」
「前者が四分の三、残りは義務感だ。劣等生に補習を付けるのは当然だが、過酷なだけで効果が出ないような補習を課す無能を雇っているのなら、王国第一王女として、学院長を糾弾せねばならん」
「ほとんど好奇心じゃない。残りのそれは言い訳というのよ」
呆れたように言って、ルキアはフィリップの伏せるテーブルの方へ歩き出した。
ステラも後を追いながら、銀髪の揺れる背中に向かって続ける。
「同年代の猫耳美少女と二人っきりのカーターがどんな反応をしているのか、お前は気にならないのか?」
揶揄うような物言いに、ルキアは大きなため息を吐いた。
足を止め、振り返ったその顔には色濃い苦悩が浮かんでいる。
10年以上の長い付き合いがあって、それでも見たことも無いような表情に、ステラは驚きを隠せない。
「気になるわよ、勿論。フィリップがあそこまで疲弊していて、私が何も思わないとでも? 何をしているのか知りたいし、できるなら手伝ってあげたいわよ。でも、私はナイ教授に関われない」
「関われない? 何故だ?」
「フィリップがそう言ったからよ。「彼女にはなるべく関わらず、絶対に彼女のことを探ろうとしないでほしい」って頭を下げたあの子を、私は絶対に裏切らない」
自分の意志を押し殺していることが伝わってくる、血でも吐きそうな声で吐き捨てて、ルキアは足早に歩き去る。
「言われたからやらない? ……不合理だろう、それは」
ここまで来ると、「あのルキアが?」なんて言ってはいられない。
彼女の変容はかなり異常な振れ方をしている。フィリップ・カーターに魔術的素養がないことは間違いないが──では、そのフィリップが露骨に警戒し、毎日のように二人で過ごしているナイ教授はどうだ?
彼女が研究者をしていた帝国は王国よりも魔術の研究が盛んで、逆に錬金術の立場が低い。
王国に於いては禁忌とされる死霊術や支配・洗脳系の魔術も肯定され、積極的な研究がされている。
一度怪しく見えると、全ての要素が怪しく見えてくるものだ。弱冠10歳にしてヘレナにスカウトを受けるほどの研究者であるという事実も、彼女が洗脳のプロだとしたら話は変わってくる。
フィリップも共謀しているのか、或いは彼も操られているのか。
何にせよ、本腰を入れて観察する必要がある。
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