第83話
ナイ神父──ではなく、ナイ教授の授業が始まってからはや一週間。
その容姿と立ち振る舞い、そして分かりやすくテンポのいい授業で人気を集めている彼女の存在は、既に然して気にならなくなっている。
と言うのも、彼女がフィリップに対して意外なほど干渉してこないからだ。フィリップ強化のために来たと言っていた割に、だ。教師の仕事が想定以上に忙しいのだろうか。もしそうならフィリップとしては非常に嬉しいのだが。
いつも通りに起床し、いつも通りに食堂へ向かい、ルキアとステラと一緒に朝食を摂る。
そんな日常の風景に、今日はいつもと違う点があった。
それはフィリップの席に置かれた、丁寧にラッピングされた小さな小箱と、それに怪訝そうな視線を向けるフィリップが持った小包。
そしていつもより早く来ていたルキアが開口一番に言った。
「誕生日おめでとう、フィリップ」
という言葉だ。
「おめでとう、カーター。プレゼントの用意が追い付かなかったのは、私にそれを教えなかったルキアのせいということにしておいてくれ」
ステラも少し申し訳なさそうに、そう言祝いでくれる。
フィリップは取り敢えず
「え? えっと……おめでとうございます?」
と、新年の挨拶のようにそう返した。
王国内の生活レベルは、王都の内外で大きな差が──それこそ、100年レベルの格差がある。
例えば紙は、王都内では錬金術師が大量に生産し、鼻をかむとかトイレで尻を拭くとか、その程度のことに使うことも、それを一々気に留めないのも普通のことだ。
対して、王都外では大変な貴重品だ。筆記事項は厚手の動物の皮に書き記し、必要なくなったら薄く削って再利用することが多い。樹皮を使う地域もあるらしいが、加工が楽な前者の方が普及している。
生活基盤が異なれば、そこに住む人々の価値観や文化にもまた差異が生まれる。言語だけは辛うじて大陸共通語が普及しているが、文化の乖離は既に始まっている。この状態が300年も続けば、同じ王国内でも王都内語と王都外語に分かれるだろうというのが言語学者たちの定説だ。
フィリップが直面し困惑していたのは、まさにその文化の違いだった。
王都外において、誕生日と言えば教会に行って一年間を無事に過ごせたことを感謝し、また次の一年間も無事でいられるよう祈る日だ。
と言っても特別な儀式などは無く、日曜ミサ程度の短い祈りを捧げるだけ。家庭によっては誕生日がある週の日曜日についでに行う程度。祝うという文化は無いし、プレゼントを贈る文化もない。
おめでとう、と言われるのは、何かを成し遂げた時や、或いは新年を迎えた時など。
誕生日が時節に属するものである以上、フィリップが咄嗟に「おめでとう」と返したのは、論理的な推理としては間違っていなかった。
残念ながらルキアには困惑で、ステラには失笑で応えられてしまったが。
「──なるほど。じゃあ、これも誕生日プレゼントなんでしょうか」
ステラが笑いの発作に苛まれながらしてくれた説明に、フィリップはそんな相槌を打つ。
今日渡すようにと添えて魔術学院に届いていたという小包は、宿屋タベールナからと送り状に書いてある。
貴族どころか王族すら在籍する学院の寮に送られたこともあって、一度開封され爆発物や呪詛などが仕込まれていないか検閲された旨を記した札も付いている。それによれば、中身はノートらしい。
「まぁ、そうだろうな。開けてみたらどうだ? 手紙くらい入っているだろう」
「え? じゃあ部屋で開けますけど」
自分宛の手紙をわざわざ他人の前で開けることも無いだろうと、フィリップは包みを横に置く。
ステラも尤もだと笑い、次を促した。
「なら、次はルキアからのプレゼントだな。それはここで開けるだろ? 渡した当人の前だしな」
「……そういうものなんですか?」
別にそういう決まりや文化があるわけではないが、ルキアは「喜んでくれるだろうか」という不安から、ステラは単に「中身は何だろう」という好奇心から、頷いて答える。
「じゃあ、開けますね。……うわ!?」
中から出てきたのは、黒く滑らかな布に包まれ、さらに箱と物品の間に真っ白な真綿を詰めて緩衝材にした何かだった。
もうこの時点で、中身が大層高価なものだと分かる。
「え、っと……宝石とかじゃないですよね?」
「……」
震え声の問いには、開けてみてのお楽しみ、と言葉にせずとも伝わる笑顔だけが返ってくる。
嬉しいことに、或いは残念ながら、値段で言えば同サイズの宝石の方がまだ
「懐中時計、ですか、これ!?」
懐中時計──機械式時計を小型化した掌サイズのそれは、基本的に市場が存在しない。
小さく、かつ耐久性に優れ、そして何より正確な部品を作る錬金術師と、それを一分の狂いも無く組み上げる優れた技術を持つ職人が、王侯貴族などの命を受けて作る特注品。一つで豪邸が土地・内装・使用人付きで買えるとか、落っことしそうになった国王を職人がぶん殴ったが無罪放免になったとか、様々な都市伝説がある。
銀色の金属製で、文字盤を保護するハンターケースには緑色の宝石が円形に12個も埋まっている。
「えぇ。基本材質は白金だから、錆びたりはしないわ。装飾のグリーンスピネルもかなり硬い石だから、気にせず使ってね」
「できませんよ! というか、貰えませんよ、こんな高価なもの! ……高価ですよね?」
にっこりと笑って言うルキアに、フィリップは思わず声を荒らげ、ステラにも確認を取る。
プレゼントの中身を見て唖然としていたステラも声をかけられて再起動し、神妙に頷いた。
「あぁ、かなりな。……だがまぁ、お前の誕生日を祝う気持ちによるものだし、返礼を要するものでもない。返すなんてそれこそ失礼だ。大切にしろよ。それはそれとしてルキア、ちょっと来い」
ルキアが発していた「余計なことを言えば撃つ」という圧に負けず──いや、ちょっと屈しかけていたが──そう言って、ステラはルキアを引っ張ってトイレに引っ込んだ。
放置されたフィリップが放心していられたのは、ほんの十数秒だった。
ふと、音の遠退くような感覚が訪れる。いつぞや味わった、防諜系の魔術の感覚だ。
ルキアとステラが居なくなったタイミングを見計らったように──いや、実際に機会を窺っていたのだろう、ぽてぽてと歩いて来たナイ教授がフィリップの対面に座った。
「フィリップくん、おはようございますー」
「……おはようございます、ナイ教授」
ほわほわした気の抜ける挨拶と共に、人外の美を纏った猫耳美少女がにっこりと笑いかけてくる。
先ほどまで抱いていた嬉しさや喜び、驚愕などが全て吹き飛び、嫌悪感と少量の殺意に置き換わる。情緒が死にそうだった。
「お誕生日ー、おめでとうございまーす」
「……どうも」
「あれあれ? 先生には「おめでとう」って返してくれないんですかー?」
感情に占める殺意の量が倍増する。
とはいえ、フィリップが彼女に勝てる確率はゼロだ。手元のフォークを眼窩に突き立てようと、『萎縮』や『深淵の息』を撃ち込もうと、たとえクトゥグアを召喚したとしても、片手であしらわれて「本当に君は脆弱ですね」と嘲笑されるだけ。化身を揺らがせられるかも怪しい。
「……失礼しました。そういえば、君の前ではこちらの化身を象る約束でしたね」
瞬き一つの後に、フィリップの眼前には黒髪褐色猫耳美少女ではなく、黒髪褐色長身痩躯の神父が立っていた。
人物が変わり、姿勢まで変わっているという異常に、ふっと気が遠退く。別に驚いたとか怖くなったわけではなく、脳が非連続的な視界に混乱しただけだ。
頭を振り、紅茶を一口飲んで心を落ち着かせる。
きちんとした立礼を見せたナイ神父は、もう一度フィリップの対面に座り直した。
「あぁ、今のは謝意を込めたサービスですよ。今後、他人の前で私を「ナイ神父」と呼べば──」
「分かっています。注意しますよ。……それで、用件はなんです?」
言葉を遮られたナイ神父は嫌な顔一つせず、どこからともなく一冊のノートを取り出した。
黒い革で装丁されたそれには見覚えがある。
「あ、それ……」
「君のノートです。魔術学院では使うことが無いからと、荷物には入れていませんでしたが……まずは、これをお返ししましょう」
ナイ神父が恭しく差し出したそれを受け取り、ぱらぱらとページを繰ってみる。
フィリップの字で、覚えのある内容で、概ね記憶通りの消費量だ。フィリップがモニカ一家から贈られたもので間違いないだろう。
「あぁ、勘違いされても困るので明言しておきますが、これも、今後私が行う指導も、君に対する誕生日プレゼントなどではありませんので」
「……領域外魔術の訓練、再開するんですか? ここで?」
誰も来ない微妙な立地の投石教会であればいざ知らず、ここは千人規模の魔術学院だ。
在籍するのは最低限魔術の才アリと認められた、フィリップを数倍する素養を持った魔術師の卵と、数倍では足りない才と研鑽を積んだ本職の魔術師である教師。
領域外魔術をポコポコ連射していれば、その異常性はそう遠くないうちに看破されるだろう。
そして何より、ナイアーラトテップがフィリップに習得させようとしているのは、連射するどころか一撃で星を砕くような存在を、目にすればほぼ確実に発狂するような存在を呼び出し使役する召喚魔術。
練習風景を見られたらアウト。練習中にちょっとした事故で外部へ流出させてもアウト。二等地の一画を吹き飛ばしたときのように間違った存在を呼び出したり、使役をトチってもアウト。
「……不味くないですか?」
「いいえ?」
「いや、言い換えます。不味いです。仮に邪神を召喚したとして、僕が一発で使役できるとでも? この僕が。クトゥグア程度にさえ一週間、百回以上の試行を要した、この僕が!」
「無能を言い訳に……というか、武器にして振りかざさないでください。大丈夫、練習場所は確保しましたし、物理的・魔術的な詮索を全て遮断することなど造作もありません」
勢いで誤魔化そうとしたフィリップだったが、千なる無貌には通じなかった。
なんとか上手いこと言い逃れられないかと頭を回してはいるが、それもすぐに止める。
フィリップ強化計画はアザトースの命に従うことだと、ナイアーラトテップは言った。であれば、フィリップごとき人間風情の意見も都合も斟酌されることはないだろう。こうして事前に通告されていること自体、望外の尊重だ。
「……分かりました。次は何を? 火の次は水? それとも風ですか? 土ってことはないでしょうけど」
投げやりに言ったフィリップに、ナイ神父は浮かべていた嘲笑に愛玩の色を滲ませる。
「おや、鋭いですね。流石は魔王の寵児。──次は風属性、召喚する対象はハスターです。 ……じゃあ放課後、研究室で待ってますね、フィリップくん!」
最後にナイ教授へと姿を変えて快活に笑い、手など振りつつ立ち去っていく。
不連続な視界に酔いそうになりながら、フィリップは朝から嫌なものを見たと表情を歪める。
間もなくして帰ってきたルキアが、フィリップの不機嫌そうを通り越して殺意すら宿した顔を見て何を思うかは、もはや想像するまでも無いが──何も心配することはない。
プレゼントが気に入らなかったのかと心を痛めるルキアを安心させるなら、フィリップはその贈り物を受け取り、彼女の言う通り普段使いすればいいだけなのだから。
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