第82話
ステラはフィリップに探るような視線を送り、ルキアはそんなステラに怪訝そうな視線を向け、フィリップは周囲から突き刺さる視線に辟易しつつ前だけを見て歩いていた。
向かう先はもちろん、1-Aの教室だ。
教室棟は既に生徒たちで混み合っていたが、一行が通ると自然に道が開いた。とはいえ、快適な道のりというわけではない。
「おい、あれ……ごにょごにょ」
「サークリス様とカーターさん……と、王女殿下!? やっぱり、カーターさんって……ひそひそ」
誰に見られても、どこに耳を澄ませても、聞こえてくるのはフィリップの「正体」に対する「やっぱりか」という納得と畏怖くらい。
非常に居心地が悪いが、まぁ、変に絡んでこられるよりは多少マシだと思えば我慢できる。
「……カーター猊下? どういうことだ?」
「色々と勘違いが……」
ここでステラに対し懇切丁寧に説明したら、もしかしたら学生たちも同時に説得できるのでは? と、フィリップの脳裏に名案が閃く。
だが残念ながら、フィリップの言葉より、授業開始10分前であることを示す予鈴の方が早かった。
わいわいがやがや、先ほどの静かな密談が嘘のように騒がしく教室へ戻っていく学生たちを見送り、深々と嘆息する。
まぁ、どうせ説明したところで誤解は解けないのだろう。前学期に何度か試み、悉く失敗した苦い思い出を持つ身としては、そんな負け惜しみじみた諦めもあった。
「あ、おはようございます。猊下、両聖下」
「……おはようございます」
教室の入り口近くに居たクラスメイトに挨拶だけを返したのは、そんな諦めの表れだった。
着席し、しばらく駄弁っていると、教室前の扉が開き、ヘレナが入ってくる。
「はーい、着席してー」
ヘレナはぱちぱちと手を叩いて注目を集めながら、どこか楽しそうに教壇に立つ。
「おはようございます。今日から新学期ですが、まずは伝達事項が二つあります。一つ目は、前学期の殆どを公務でご欠席だった第一王女殿下が、後期は通学されることになりました」
ぱちぱちぱち、と、誰かが始めた拍手に全員が乗っかり、ステラも立ち上がって軽く手を挙げて応える。
ルキアにも匹敵する美貌もあって絵になってはいたが、よく考えたら意味不明だった。困惑顔のヘレナとルキアも、流されるように拍手をしているフィリップも、たぶん一番初めに拍手を始めた生徒ですら、なんで拍手をしているのかは分かっていない。
「えーっと……それから、もう一つ。アルナ先生の後任が決定しました。最低でもこれから半年間、来年度以降も担当して頂く生徒もいるでしょうから、失礼の無いように」
数秒間の沈黙。
ヘレナの淡々とした口調ゆえ、生徒たちの呑み込みが遅れていた。
前学期の野外訓練で未知なる魔物に襲われ、1班のほぼ全員と同じく命を落とした前担任の後任。つまり。
「新しい先生が来るってことですか!?」
きちんと挙手し、しかし指名される前に口走った生徒の声色は、どちらかと言えば否定的な感情を宿していた。
無理もない。今まで1-Aの担任代理として教鞭を取っていたのは、世界屈指の実力者であるヘレナだ。彼女が学院長を務めているからと、この魔術学院を志す者も多い。
それが別の人間に変わるということは、確実に魔術師としてのレベルが下がるということだ。学年最高レベルの潜在能力を持つ生徒が集まるAクラスは、学習への意欲も相応に高い。素直に喜べない心情も理解できる。
だがそれはそれとして、環境が新しくなることに、好奇心や新鮮さといったプラスの感情もあるらしい。
生徒たちの大半は期待半分、落胆半分といった表情を浮かべている。何の感傷も無く「ふーん、そうなんだ」と現状を受け容れているのは、フィリップやルキアといった感性のズレている者だけだ。
「えぇ、その通りです。……では、入ってください」
教室前の扉に全生徒の──無感動であっても無関心ではないフィリップやルキアも含めて──視線が集中する。
からからとキャスター音を立てながら扉が開き。
「……え?」
と、幾人かの生徒が思わず声を上げた。
ぽてぽてとことこ、教壇に歩いてくる小さな子供。身長はフィリップと同じか、少し高いくらいしかない。
目を引くのは、王国の人間ではないこと示す褐色の肌と、身体に遅れて靡く長い黒髪。そして、純粋な人間ではないことを示す腰から伸びる尻尾と、頭頂部付近でぴょこぴょこと動く猫耳。
人懐っこい笑みを浮かべ、オニキスのような黒い双眸でクラスを見上げる、どう見ても十歳そこらの少女。
誰? 何? 迷子?
そんな囁きが起こらなかったのは、クラスの誰もが呼吸を忘れ、その姿に見入っていた──或いは、魅入られていたからだろう。それはフィリップも例外ではない。
彼女の容姿は極めて整っており、庇護欲を掻き立てるあどけなさと、触れることを躊躇わせる精緻さ、清涼な活発さ、そして禁忌である小児性愛を催させる不思議な色気を孕んでいる。好みを度外視して美しさを数値化した場合、そのAPPは──21。人外の美だ。
「こちらが、本日よりAクラスで教鞭を執って頂く、ナイ教授です。教授、自己紹介を」
「はい! 今日から皆さんの先生になります、ナイです! 見ての通り
彼女、ナイ教授は明朗快活にそう言い、一礼してにっこりと笑う。
幼子とはいえ人外の美を纏う彼女に数人がノックアウトされ、机に突っ伏した。
──さて。
この状況を、教壇の上でニコニコ笑っている
ペンケースを開け、ペーパーナイフを取り出して投擲する? NOだ。そんな攻撃、邪神に通用するわけがない。
では魔術──フィリップが習得している領域外魔術の中でも最大の火力を誇る、クトゥグアの召喚を以て焼き払う? NOだ。あの何のつもりか分からない幼子の化身を焼き殺したところで、ナイアーラトテップの化身は無数にある。次の化身が現れて、それで終わりだ。学院と生徒に甚大な被害を齎すだけの、意味のない一幕になる。
いや、最悪の場合、ペーパーナイフの投擲も、『深淵の息』や『萎縮』といった貧弱な魔術も、あの化身を残酷かつ凄惨に殺す可能性がある。
そしてフィリップは新任教師を惨たらしく殺した精神異常者として学院と王国から排斥され、人間らしい生活どころではなくなるのだ。
そもそも、ナイアーラトテップがわざわざ学院に赴任してきたということは、フィリップの守護ないし強化計画に関わる理由があるはずだ。
フィリップが何を言おうと、たとえ学院長や国王が何を言い募ろうと、あの邪神は全て無視し、自分の都合を押し通すだろう。盲目白痴の最大神格の意図なき命令と、矮小なる人間の都合、どちらを優先すべきかなど考えるまでもない。
「先生にはホームルームのほか、一年次の魔術理論基礎、二年次の選択科目で錬金術を担当して頂きます。……何か、質問のある人は?」
ヘレナの問いに、クラスメイトが一斉に手を挙げる。男子生徒の方が勢いがあったが、女子生徒も目の血走り具合では負けていなかった。
「はわわ……、積極的なクラスです……! 先生も負けませんよー!」
ふんすっ、と気合を入れ、座席表と照らして指名していくナイ教授。
その小動物的な動きに、また数人が幸せそうな表情を浮かべたまま机へ倒れ込んだ。
「……フィリップ?」
クラスメイト達とは全く違う理由で、そして彼らの誰よりも早い段階から机に突っ伏していたフィリップの後頭部に、遠慮がちなルキアの声が届く。
「……どうしたんだ? 体調でも悪いのか?」
「……いえ、そういうわけでは」
同じ三人掛け机のルキアを挟んで反対側、通路側にいるステラも、軽く机に凭れて怪訝そうに覗いてくる。
勘違いで心配させるのは駄目だろうと生真面目に頭を上げたフィリップと、こちらを見ていたナイ教授の視線がぴたりと合った。
彼女はにこりと微笑み──その双眸が一瞬、吐き気を催すような極彩色に輝く。
「そういうアピールいいから、分かってるから……」
帰ってくれ。
フィリップはルキアやステラには見えないように、新担任である黒髪褐色ガチペドはわわ(嘲笑)系猫耳美少女教師、ナイアーラトテップの化身に向けて中指を立てた。
◇
フィリップが編入した時よりも熱烈な
男子生徒の関心を総取りされた女子生徒まで、それも一人残らず全く否定的な感情無しに混ざっているのは、それに慣れているからか、或いはそれも仕方ないと受け容れるしかない隔絶を感じ取ったのか。きっとその両方だろう。
フィリップはそれには混ざらず、教室を出たナイ教授の後を追っていた。
と言ってもすぐに話しかけたり、背中から魔術を撃ち込んだりはしない。彼女が自分の研究室に引っ込むのを待ち、その後に続く。
「……ナイ神父」
授業の用意をしている小さな背中に声をかけると、ずっと気付いていただろうに、わざとらしく猫耳をぴくりと動かして振り返る。
「おやー? フィリップくんじゃないですかぁ。どうしたんですかー?」
ほわほわと気の抜けた声で応じて、彼女はくすくすと心底可笑しそうな──その実、嘲り以外のあらゆる感情を宿さない笑顔を浮かべた。
「先生は、先生ですよぉ? 神父さまに見えるなら、目と頭のどちらかが──あぁ、いえ、頭の方はこれ以上無いくらい壊れてるのでー、きっとおめめがおかしいんですねー」
「…………」
──驚いた。
驚き具合で言えば、象は魔物や神話生物ではなく通常の動物だと知った時と同等だ。
まさか自分に──諦めている、冷めていると自覚していたこの自分に、ここまでの殺意を呼び起こす人間性が残っていたなんて。あぁいや、これは獣性か。人間性未満の、動物的で原始的な機能か。
「……落ち着け。うん、落ち着くんだ。こんなところでクトゥグアを呼べば、学院もルキアもただじゃ済まないぞ」
自分に言い聞かせ、深呼吸を数度繰り返す。
「ふぅ……。それで、ナイ神……ナイ教授。その話し方は死ぬほど不愉快なので、せめてナイ神父に変わってくれませんか?」
「うーん? ──構いませんよ」
ぞる、と。擬音にすればそんな感じの、生物的に湿った耳障りな音を立てて、幼子の輪郭が崩れる。
人体を模して織られていた触手が解け、無定形の肉の塊と円錐形の頭部を持つ『這い寄る混沌』と呼ばれる化身を象り、それからフィリップの見知った黒髪褐色に長身痩躯の男、ナイ神父の形状へと変化する。
「……そんな手間を取らなくても、瞬きのうちに入れ替われるのでは?」
「それは勿論、君に示すためですよ。今後、私のことを“神父”と呼べばこうなる、と」
教師のことを「お母さん」と呼んでしまうハプニングは、別の人でやってくださいね、と。そう言って笑うナイ神父。
どんな横暴だと喚き散らしたいところだが、泣き叫んだところでナイアーラトテップの意向が覆るわけでも無し。体力と気力の無駄だ。
「ですが、まぁ、君に無用な不快感を抱かせるのは本意ではありません。誰あろうフィリップ君の望みであれば、君の前ではこの化身でいましょう」
「じゃあ不快なので、この星から出て行ってくれませんか?」
「ははは。その場合、君にも父王の宮殿まで来て頂くことになりますが。尺度の狂った地母神と引き篭もり副王では、君の教育はできませんからね」
ぐぬぬ、と、フィリップは最悪の未来を提示されて押し黙る。
この魔術学院は外神に干渉されず日常を過ごせる、フィリップにとって聖域のような場所だった。
ふかふかのベッドも、美味しい食事も、難しいながら確かな手応えを感じる勉強も、息が詰まるような試験も、たった一人しかいない友人も、勿論大切な要素だけれど──何より、世界を遥かな視座から睥睨し冷笑し嘲笑する、悍ましき外神の気配がないことが、何よりも大切な条件だったのに。
「なんで、来たんですか」
「勿論、君を強くするためですよ。君が持つ手札は、未だクトゥグア召喚という頼りない一枚のみ。父王の命を全うしたなどとは口が裂けても言えない、惨憺たる有様です」
ナイ神父はにっこりと笑い、続ける。
「安心してください。マザー──シュブ=ニグラスは教会でお留守番です。それとも、彼女も来た方が良かったですか?」
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