第79話
『か、壁ぇ!? フィールドと客席を隔てるように、壁が──燃え上がる壁が現れました! なんですかこれ!』
実況席で叫ぶニーナの言葉が、この王立闘技場に詰める5000人の観客の総意だった。
突如として現れ、プレイヤーとオーディエンスを隔離するように聳え立つ、半透明の黒い壁──いや、壁と言うよりは箱だ。黒いガラスのような材質のそれは、ちょうど闘技場の頂点あたりで蓋がされている。
フィールドと客席、プレイヤーとオーディエンスを分け隔てるオブジェクトではなく、プレイヤーを完全に隔離する結界のように思えた。
『『黒耀聖堂』と『炎獄』? あの子たち、どこまで本気なの……?』
『知っているんですか、おばあちゃ──いえ、解説のマルケル聖下』
ヘレナが思わずといった風情で漏らした呟きを拡声器が捉え、直後に燃え上がる壁が大きく揺らぐ。
自分の方に倒れてくるのではと感じた観客の何人かが短い悲鳴を上げるが、それもすぐに収まる。壁が倒壊どころか、より精緻に成形されていくのを見て、それは無いと──この魔術が完全に制御されているという安心感を得たからだろう。
『……王女殿下の魔術は『炎獄』。概念型の空間隔離魔術よ……』
声を震わせて、ヘレナはなんとか絞り出したという体でそう応える。
壁が鳴動しながら成形されていく。薄いガラスのような質感のそれが震えながら、遥か頭上まで、しかも炎上しながら動く様は確かに悪寒を覚える光景だったが──成形が終わった頃には、戦々恐々と身構えていた者も含め、観客全員が感嘆の息を漏らすことになった。
完成したのは、ガラス細工の大聖堂だった。
黒い半透明の外壁越しに、精緻な装飾や絢爛豪華なシャンデリア、最奥部に据えられた何かの彫像が見て取れる。繊細な美しさを湛えた内装が、荘厳な威容を醸し出す外装が、紅蓮の炎に巻かれていた。
燃え堕ちる硝子の教会。安直にタイトルを付けるならそんな感じの、美術品じみた空間が出来上がっていた。
建物一つを丸ごと燃やすような炎だが、フィリップたちにも、そしてフィールド上、教会の内側で言葉を交わしているらしい二人にも、熱は届いていないらしい。
『は、はは、はははははは──! すごい! すごいわ!』
実況席から身を乗り出し、半狂乱の体でヘレナが叫ぶ。
ニーナが慌てて「ちょ、国王陛下ご観覧の御前試合ですよ!?」と制止すること十数秒。ようやく落ち着き、端的に謝罪した。
『失礼しました。それで……そう、サークリスさんの使った魔術のことだけど、あれも空間隔離魔術ね。こちらは重力子を凝縮させた半物質を用いる、半物理型。闇属性神域魔術『黒耀聖堂』──そのカスタム版です』
ヘレナの言葉に、観客席からどよめきが起こる。
「馬鹿な」「有り得ない」と騒ぐ者もいれば、「なんで?」「そんなに凄いの?」と首を傾げる者もいる。フィリップは後者だったが、サークリス公爵家の面々はどちらでもなく「あぁ、うん。まぁルキアだしね……」とどこか諦観にも似た感情を滲ませていた。
『えっと、それってすごいんですか?』
『はァ!? 貴女、それでよく宮廷魔術師に……あぁ、失礼。貴女、いまは実況役だったわね』
そう。そして貴女は解説役だ。1人で興奮していないで、観客にも何が起こっているのか説明してくれ。
フィリップも含む観客の何割かの、そんな声なき願いを聞き届けたわけでは無いだろうが、ヘレナは何回かの深呼吸を挟んで説明を始めた。
『まず神域魔術というのは、本来は儀式による天使召喚と、その天使による補助を前提とした大規模魔術です。その魔術式は極めて難解で、上位存在の補助無しでは絶対に演算できないでしょう。我々聖痕者のような一握りの逸材でも、数学の公式を暗記するように、半ば脳死で使うのが限界でした』
自身も含めて「一握りの逸材」と言い表すことに抵抗を感じつつ、ヘレナは一先ずそう言い切る。この場の誰も──フィリップすら、その言葉が自意識過剰であると笑いはしないのだが。
彼女は間違いなく人類屈指の強者だ。そしてその彼女が我を忘れるほど、眼前の光景は異常だった。
『それを彼女──サークリスさんは、改変して使っている。しかも部分的な削除などではなく、要素の大幅追加。……信じられない。彼女は実は天使でした、と言われた方がまだ信憑性があるわ』
確かに、まるで天使のような美しさだと、観客から冗談交じりの同意が飛んだ。
天使を見たことの無いフィリップは同意も否定もせず、続く言葉を待つ。
『第一、重力子は星を形作る第五元素──エーテルに属する非物質。凝縮はともかく、成形なんて……』
不可能だと続けたかったのだろうが、現に眼前で、その不可能が起こっている。
『有り得ない……編集不可能と言われる神の組み上げた魔術式を、ここまで大幅に書き換えるなんて、そんなの』
『……神の御業、ですか。でも、それなら──』
その神域を侵す紅蓮の炎の主、ステラもまた、その領域に足を踏み入れているのではないか。
そう口にしたいのに、ニーナの口から出るのは掠れた吐息ばかりだ。眼前の異常を正しく理解できるだけの魔術師は、サークリス公爵家のように慣れている一部の者を除いて、全員がそうなっていた。
『い、いえ、待って。そもそも『炎獄』も『黒耀聖堂』も、内界の様子は外部から観測できないほど高次元の隔離だったはず。それに、内部は極高温か、超重力の生存不可空間…… まさか、嘘でしょ? これ、改変どころか、魔術理論を応用しただけの、完全オリジナルの神域魔術なんじゃ……!?』
拡声器の存在を忘れ、口元を押さえて呟いたヘレナが、数瞬遅れで繰り返される自分の声にも気付かない没頭具合を見せる。
彼女がそれを秘匿しようとした理由は、高位の魔術師であろう観客数名が卒倒したのを見れば、フィリップにでも分かることだった。
◇
その神秘的な質感の建材も相俟って、ルキアの作り出したバシリカ型教会の情景はまさに幻想的の一言に尽きた。
黒い半透明の装飾品や壁は、その実、光すら通さない天体級の超質量を用いた空間断絶障壁。内部や外部に大破壊が齎されていないのは、その重力をルキアが完全に制御していることの証明だ。
モデルでもあるのか、カーペットの模様や壁に彫られた彫刻は簡素ながら精緻なものだ。建材が普通なら、この王都に建っていても魔術によるものと気付かないほどに。
最奥部、普通は聖女像かそれに類する聖人の像が静置される場所には、造形の崩れた四つ足の生き物の彫像が置かれていた。山羊か、犬か、タコやゲイザーといった触手ある生き物か、あるいは人間か。どれを形作ろうとしたのかは不明だが、それらの要素を見受けられるのに、そのどれにも似ていない。彼女に彫刻のセンスはないらしい──と、フィリップ以外はそう安堵することだろう。彼女にも苦手な分野はあるのだと。
不気味までは行かず、精々が不細工止まりな像も含めて、その荘厳な教会は炎に巻かれている。
もちろん、重力子は拡散しようと凝縮しようと燃焼することはない。自然六属性のうち火・水・土・風の四属性は相互に作用する同格だが、光と闇は第五元素に属する上位属性だ。原初の闇と最初の光、世界はそれから創られた。世界を包む大火であっても、光と闇だけは燃やせない。地上を埋める洪水も、世界を呑みこむ地割れも、万物を消し去る風化も、その二つにだけは干渉できない。
だが、いま二人の周りで起きている現象は、厳密には燃焼ではない。そもそも炎が酸素を喰らっていれば、二人ともとっくに酸欠で倒れている規模と勢いだ。
それに、二人の姿を隠すような無粋な煙は一条も上がっていない。
「燃えている」という状態を空間に押し付け、それ以外のあらゆる改変を許さない隔離空間。
酸素がなかろうと、燃えるものがなかろうと──熱すら発していなくとも、そこはとにかく「燃えている」。外部から内部へ侵入するものも、その逆も、あらゆる全てがあらゆる法則を無視して「燃え朽ちる」。
光、闇、音、霊、魔力、重力。燃えるはずの無いものですら、その空間は燃やし尽くす。故の絶対隔離。
「──『煉獄』。お前が“本気で”などと言うから、慌てて作ったのだが……不要だったか。それより、お前のこれは? さっきは『黒眩聖堂』とか詠唱していたが」
「それであってるわ。重力子操作による空間隔離と、光操作による外部と内部の投影。……理論上、時間旅行も可能よ。机上の空論だけど」
「ほう、あれか。 光が世界を形作るという……何だった? 普遍時理論だったか? 神を含めた全存在の観測が途絶えた場合と、光が停止した場合にのみ、時間が進行していることを証明できなくなる…… あぁ、観測構築論か。思い出した」
自力で答えに辿り着いたステラに、ルキアは満足そうな笑みを浮かべる。
無知な相手に一から教授することの楽しさも、つい最近フィリップに教えてもらったが──やはり、自分と同レベルの相手との会話も楽しい。ステラのような力量も知識も同格で、自分自身の成長にもつながる相手とは特に。
「つまり時間を形成する要素は『光』だ。この聖堂を構成する重力子を使い、光を歪ませ、止めることで、内部の時間を停止させる。……時間操作ではなく時間旅行か。なるほど。試してはいないのか?」
「これを組み上げたのはついさっきよ? 検証してる時間も余裕も無かったわ。……ところで、貴女の『煉獄』だけど──これ、オリジナルの『炎獄』より火力が高いじゃない」
「概念型の魔術に火力も何もあったものではないが……まぁ、言わんとしていることは分かる。なんせ、燃えるはずのない重力子すら焼き焦がす炎だからな」
感服と共に頭を垂れたくなるような笑顔で──ルキアにしてみれば、ちょっと殴りたくなるようなドヤ顔で。ステラは燃え落ちるバシリカ型教会の内装を示し、笑う。
「それにしても──本当に、全く、お前は変わらないな。お前の美的感覚には感動すら覚える。王女として豪華絢爛たる美も、閑古素朴たる美も嗜んできたが、その全てがこれには劣るだろうよ。だがな──」
轟、と。
教会を巻く炎が一段と激しく燃え盛る。ステラの胸に渦巻く複雑な感情を具現化したように。
「お前の魔術には、何の戦略的合理性も無い。精巧な彫刻を壁に刻む手間があれば、その──」
ステラが指したのは最奥部にある不格好な彫像だ。あれだけが、この幻想的な教会にはひどく不釣り合いな醜矮さを漂わせていた。
「よく分からない彫像を作る余裕があれば、この投影機能に割く余力があれば、より堅牢な、あるいはより攻撃的な魔術にできただろう?」
そりゃあね、と、ルキアは肩を竦めて肯定する。
重力子はふつう、自然界における最も正常な形である球形に収束しようとする。天体の大半が球体なのはそのためだ。それを魔力で無理矢理に、しかもミリメートル単位の彫刻を再現する精度で成形している。負担はステラの『煉獄』どころではないはずだ。
「こんな意味不明な規模の魔術、普通は5秒も維持すれば魔力欠乏と処理能力オーバーで昏倒している。……全く、お前は本当に天才だな」
「流石、理解が早いわね」
「褒めるな、上から目線が気に障る。それにしても……空間隔離魔術を設置型に改造するとは。考えたな」
「加減する必要のない魔術なら、設置型にした方が魔力も演算能力も少なく済む、ってね。最近教わったことよ」
上機嫌にそう言ったルキアに、ステラは興味深そうな視線を向ける。
「例の“あの子”とやらにか?」
ルキアは「えぇ」と言葉少なに肯定し、会話は終わりだと示すように攻撃魔術を照準する。
これ以上の情報は先も言った通り、「勝てば教える」ということだろう。全く単純で──ステラ好みの明快さだ。
「いいだろう。本気を出せるフィールドは整ったんだ。始めようか、我が美しき好敵手!」
ステラが吠え、その周囲に人間大の火球が10個も浮かぶ。空気を揺らがせる熱が見て取れ、当たれば一撃で骨まで燃え尽きるだろうと窺えた。
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