第78話
ルキアにとって、この御前試合というイベントは面白味のない退屈な時間だった。
あらかじめ渡された台本を暗記し、その流れに沿って魔術を使うだけの十数分。人前に立つことに慣れていなければ緊張もしようが、「美しさ」に──他人の目があることを前提にしたような概念に固執してきた彼女にとって、視線など今更意識するまでも無いものだ。
そのうえ、台本で指示される魔術は中級から上級。ルキアにとっては歩行にも等しい児戯未満だ。舞台上を衆人環視の下歩き回るにも等しい虚無感に苛まれる、苦痛ですらある時間だった。
だが御前試合は300年前から脈々と受け継がれてきた恒例行事だ。彼女の世代だけでなく、かつての聖痕者も参加してきた格式と伝統を誇る。だから「面倒なので参加しません」というのは、通る通らないは別にして、あまり美しい行いでは無かった。そして参加するのなら、台本通りにきっちりと洗練された魔術を魅せつけなければならない。
面倒くさいなぁ、という内心など一片も感じさせない演技を見せてきたルキアだ。彼女が「台本を破棄する」と運営に言ったときは勿論驚かれ、それなりに言い募られたのだが──「これは打診ではなく通達である」と断言したことで、すぐに静まった。対戦相手であるステラ第一王女が二つ返事で了承したのも大きな要因だろう。
どこぞの三下魔術師が書いた──演武に造詣の深い宮廷魔術師数人が知恵を絞って書いた──台本に従うことそれ自体も、ルキアの美意識にそぐわない。
だがそれ以上に、今年の御前試合では張り切るに足る理由がある。これまでの漫然とした、最低限の美しさを魅せてさっさと帰るような立ち振る舞いは見せられない。見せたくない。
いや、正確には、「自分の力量を知っている相手に、手を抜いた無様な魔術を見せたくない」か。
対戦相手のステラも、解説席にいるヘレナも、もちろん貴賓席にいる家族も彼女の力量は知っているが──彼女らにではなく。今年初めて建国祭に来て、今年初めて御前試合を見る──しかしルキアの本気を知っている、人間以上の存在をすら知っている少年に。
生半な魔術師どころか、時折ルキアにすら冷笑を向けるフィリップだ。
彼に認められるだけの力を付けようと日々努力はしているが、まだまだ遠い。あの悍ましいほどの神威を放つシュブ=ニグラス神の神官、マザーの足元にも及ぶまい。彼の保護者だという神父にも、悔しいが全く届かない。もっと強くならなくてはならないが──発展途上だからと手を抜いたり、台本通りに子供騙しの低級魔術を使っていては、彼に失望されてしまう。
それは嫌だ。
笑顔は威嚇だという話を聞いたことがあるけれど、あの森で見せた冷笑にはそれすら無かった。愛情も同調も、威嚇や韜晦も、眼前の存在に対して向けるには過分だと言わんばかりの、冷淡無比な蔑みだけがあった。もう一度、あの何の価値も見出していないような、嘲りすら混じった冷笑を向けられると考えただけで、背筋を刺すような恐怖が沸き上がる。
今できる全力を揮う。
今見せられる最上を魅せる。
それが人間風情であるルキアに許された最善の選択肢であり、信仰するシュブ=ニグラス神と、その寵愛を受けるフィリップに向けるべき誠意だ。
それに。どうするべきとか、どうすれば美意識に適うとか、そういう理屈を全く抜きにしても──フィリップには、一番美しい自分を見て欲しい。
あの森やダンジョンでは少し情けないところを見せたから、せめてこの御前試合では気を張って、張り切って、“ルキア・フォン・サークリス”を魅せたい。
その為になら、命だって懸けられる。
──嘘だ。
命を懸けるとか、身命を賭すとか、そんな大それた大層な覚悟なんて抱いていない。
覚悟も決意も無く、ただ命を懸け身命を賭し、心身を擲っている。
命を懸けて実行する、ではなく。命がどうこうという思考すら浮かばない、一所懸命という言葉でも足りないほどの没頭具合。
結果として死ぬならそれでもいい。無様を見せるよりずっといい。
「──相変わらずの壊れ具合だな。いや、少し酷くなったか?」
貴賓席に並ぶ家族や他の高位貴族、その上の階にある玉座に向けたように見える一礼。
同じ女性から見ても魅了されそうな、彼女の美貌を引き立てる見事な所作だ。そこに確かな敬意が込められているのを見て、彼女──次期女王、アヴェロワーニュ王国王位継承権第一位、ステラ・フォルティス・ソル・アブソルティア・レックス第一王女は、怪訝そうに呟いた。
ルキアが誰かに敬意を払うところなど、知り合って以来13年間で一度も見たことが無い。
自分の両親にも、ステラの父である現国王にも、他国の聖痕者や教皇庁の司祭、唯一神の祭壇の御前ですら、心底からの敬意を見せたことなど一度も無い。ステラと同様、と頭に付くので、それを責めるつもりは無い。むしろ共感すらしていたのだが──だからこそ、その変化は不思議だった。
「──あぁ、ステラ」
ルキアが向き直り、薄く笑みを浮かべた。
彼女たち聖痕者が有象無象に向ける冷笑ではなく、互いを殺し得る好敵手に、そして互いを深く理解している友人に対する笑顔だ。
「久しぶり。私の提案がお気に召したようで良かったわ」
「“脅し”と言うのだ。こちらに選択肢が無い“提案”のことはな」
呆れたような台詞ではあったけれど、ステラが浮かべているのは呆れ笑いではなく好戦的で獰猛な笑顔だった。
「お前だけが一方的に台本の流れと縛りを捨てれば、まぁ順当に私が死ぬ。故にお前に演技破棄の意志がある時点で、私が取れる戦略は“同調”の一択だ」
「貴女も相変わらずね。相変わらずの──」
ルキアが笑う。
フィリップはおろか、家族ですら見たことが無いほど凄惨に──立場に於いても、力量に於いても自らと同格の相手にだけ向ける、不快感と親愛の入り混じった複雑な笑顔だった。
「──美しさの欠片もない、気色悪いほどの合理主義」
「お前こそ、まだ美しさなどという主観的で果ての無いものに拘っているのか?」
二人が吐き捨てる。その応酬には紛れもない不快感が込められていたけれど、しかし敵意は一片たりとも含まれていなかった。
むしろ互いへの尊重と、尊敬と、それに起因する口惜しさのようなものが多分に含まれていた。
貴女はどうして、
お前はどうして、
それが美意識に適わないことであれば、如何なる合理的手段も、たとえそれが意思決定点における戦略的最適解であったとしても選択しない。美しいか否か、それだけが意思決定の基準であり、行動規範。
それが戦略的合理性に適うのなら、どんな汚い手でも使う。身を侵すような汚穢に浸り、敵と同胞の血と肉を啜り喰らい、最大の利益を得る。
無疵か、無謬か。
全く違うようでいて、その実双子のように似通った性質の二人は、その一点以外においては気の合う友人だった。
他人に価値を感じない。腕の一振り、指の一弾きで死んでしまう人間に。
社会に価値を感じない。どれだけ堅牢な制度を作り上げても、力によって瓦解してしまうような社会には。
世界に価値を感じない。人間と人間社会、弱くて脆いこの世界は、もはやどうしようもないものだ。
だが、これは万人と共有できる常識ではない。
超越者の視座と言えばマシに聞こえるが、要は異常者の視座だ。語り合うことも、理解し合うことも望めない価値観だ。この大陸には2億人もの人がいて、人間以上の力と智慧を持つ悪魔や龍、精霊などを含めれば意思疎通ができる者はもっと多いのに──共通のロジックを用いて共通の認識を共に作り上げる関係構築の第一段階、会話が噛み合う者があまりにも少ない。
同性で、年頃が近くて、地位が近くて、そして何より身近にいる。そんな好条件を併せ持った相手など、互いに一人しかいなかった。
話が合う。価値観も合う。視座も同じで、魔術の才能や戦闘魔術師としての性能も同等。一緒に居ることも多かったし、一緒にいると楽しくもあった。
けれど──だから殊更に、その一点の違いが許容できない。
その一点さえ違えば、貴女は/お前は、本当に完璧な存在なのに。
互いが互いの相違点である信念の強さを、自分の抱いているものと同等であると──何があっても揺るがない強固なものだと知っているから、矯正しようとは思わなかった。この決定的な差異を抱えたまま、ずっと一緒にいるのだろうと思っていた。
だが、違った。違っている。前に会った時とは、ルキアの纏う雰囲気が明確に異なっている。
「……何があった? 今回の申し出といい、今の立ち振る舞いといい、今までのお前とは全く違うものに思える」
「美しさ」は、個々人の主観によって定義される、絶対性の無い概念だ。
そこに正解は無く、不正解も無い。結論が存在しない代わりに、無限の過程だけがある。
ルキアもそれは分かっているだろうが、彼女はそれを強固な自我によって──自分の信じる「美しさ」という明確な指標によって解決した。他人の目どころか、他人の存在すら意識外へ追い遣り、自分の価値観を絶対的なものにしていた。
親、姉、
それが、今はどうだ。これまで見せたことも無いような心底からの礼を見せ、これまで面倒そうにしつつも従っていた台本を破棄し、こうして戦意すら滾らせてこちらを見ている。
「貴女らしからぬ質問ね。全ては最も美しい私を見せるため……当たり前でしょう?」
「今まで通りのお前から出た言葉であれば、それで納得したのだがな」
「嘘だと思う? なら、そうね……私に勝てたら、あの子に紹介してあげる」
唇に指を当てて艶やかに笑うルキアの言葉を、ステラは「くだらん韜晦だ」と笑う。
わずかに生まれた会話の隙を狙ったかのように、間の抜けた実況の声が割り込んだ。
『あぅ……失礼いたしました、もう4年目なのに、慣れないなぁ…… じゃ、なくて! えっと、これより、御前試合決勝戦を開始いたします! 両者、構えて──始めっ!』
ステラは口角を吊り上げ、獰猛な笑顔を浮かべる。
誰を指して言っているのか、そもそもルキアを変容させるような人物が存在するのか、突っ込むべきところは色々とあるが──どうでもいい。
彼女が気に留めた──彼女の気に障ったのは、ただ一点。
「演技を辞め本気で戦うという条件で、この私に勝つつもりか? あまり舐めてくれるなよ、ルキフェリア!」
勝てたら教える、などと。
自分が勝つという前提の条件を提示されて、じゃあいいですと引き下がるほど甘くはないし、言葉の裏から嗅ぎ取れる挑発の香りに反応しないほど冷静でもない。
酷薄に、獰猛に、笑顔を交わし合って──二人は全く同時に魔術を展開した。
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