第73話

 ナイアーラトテップの逆鱗がアザトースだとするなら、フィリップの逆鱗はナイ神父とマザーの二人だ。

 無貌の君に相対したときに白痴の魔王を罵倒すれば、苦痛と絶望に溺れて死ぬことになる。フィリップの前で二人の話をすれば、フィリップが物凄く嫌そうな顔をする。


 ……まあ、そもそも存在の格に大きな差がある。その反応に差が出るのは必然だろう。


 「……一応、確認させてください。僕の保護者と言うと、魔術学院に提出した書類に書かれている、投石教会の神父様で間違いありませんか?」


 フィリップ本人としては冷静に、それこそ公爵が浮かべている──この部屋に入ってからずっと変わらず浮かべ続けている、穏やかで紳士的な微笑を浮かべたつもりで、そう問いかける。

 尤もフィリップの非常に素直な表情筋は、内心の嫌悪感や拒絶感を表出させていたが。主人の不利益になるようなら、それは素直ではなく不忠と言うべきなのかもしれない。


 「うん、そうだよ。君の精神変容の原因がカルトだとすれば、君の魔術的素養の変質は彼らが原因だと、私はそう睨んでいるのだけれど……どうかな?」


 どうかな、と言われても。

 フィリップが変化した原因の全ては彼らにあるのだが──まぁ、それはいい。


 「魔術的素養の変質、と言うと?」

 「ふむ──」


 公爵は考えを整理するように、数瞬の沈黙を挟む。

 顎に手を遣って黙考する姿には、さて何を言われるのかとドキドキさせられるが、公爵はまず常識的なことから話し始めた。


 「王都内や近郊の人間は、田舎町の人間と比べて魔術適性が高い傾向にある。逆に言えば、君のような田舎生まれの人間は、ほぼ例外なく魔術適性が低い」


 こくこくと、フィリップは首肯する。

 魔術適性は血統に大きく影響される──殆ど血統で決まると言ってもいい。魔術学院の卒業生を囲い込んでいる王都とその近郊には優秀な魔術師が集まり、必然的に、そこで家族を形成するケースが大部分を占める。例外的に、冒険者になったり旅人になったりして王都を出る者もいるが、普通は王都の高度で快適な生活を手放したりしない。


 王都近郊には優秀な魔術師が築いた家庭があり、その子供も優秀な魔術師となり、またそこで家庭を築く。

 魔術師の血統が外部に流出しにくい以上、王都外で優秀な魔術師が生まれるケースは非常に稀──それこそ、遺伝子変異と同確率程度だ。先天的な遺伝子異常と考えるよりは、神父によって後天的に何かされたと考える方が自然なのかもしれない。


 だが、残念ながら──フィリップにとっては特に、非常に残念なのだが──魔術適性には、一切の変質は無い。

 フィリップの魔術的素養は一貫して一般田舎平民レベル、つまり魔術師になる可能性など万に一つもないレベルである。そんな魔術クソザコ一般田舎少年でも使える、現代魔術とは別系統の魔術──領域外魔術を教授したという意味では、公爵の推測は正しい。


 「そんな君が、錬金術製の強靭な建材で作られた王都の建造物を、街一画レベルで吹き飛ばすほどの強力な魔術を……正確には召喚術だったかな? まぁとにかく、そのレベルの魔術を行使できるというのは、普通なら考えられないことだ。加えて──」


 公爵は一度席を立ち、執務机の引き出しから書類を何枚か取り上げて、元の場所に座り直した。

 アリアとメグを使わない辺り、あまり余人に見せたくない内容なのだろうか。


 公爵がそれをフィリップに差し出すと、従者二人は──その気になれば完璧に気配も動きも隠せる技量があるのに、敢えて空気を動かすようにすっと下がり、顔を伏せた。「見ていませんよ」というポーズ……ではなく、本当に見るつもりは無いことを、明確に示したのだろう。

 残念ながら、これは習得しても一般宿でしかないタベールナでは使う機会は無さそうだ。


 溜息を一つ吐き、背後の従者から意識を切り離す。今は圧倒的な技量を持った接客のプロではなく、この重要らしい書類の方に目を向けなくては。


 「……人物調査書?」


 それは、以前に王都衛士団の団長が臣民管理局に問い合わせて入手したものと同じ、フィリップ、ナイ神父、マザー三名についての書類だった。

 フィリップの素性は相変わらず平凡なもので、ナイ神父とマザーのそれは教皇庁による一級閲覧制限がかけられている旨の注意書きだけがある。


 「こっちは……手紙、ですか? 私信のようですけど」

 「うん、まぁ、そう見えるように書いてあるからね。……ルキア」


 ずっとしょんぼりしていた訳ではなく、しかしずっと黙って話を聞いていたルキアが急に呼ばれ、「何か?」と言いたげな視線を向ける。

 公爵は片手でフィリップの持った手紙を示し、「意訳してあげなさい」と促した。


 頷き、「貸して」と差し出された手に、フィリップは素直に手紙を乗せた。


 「……教皇領ジェヘナに住む友達からの手紙、近況の報告や安否確認。……まぁ、定期的な便り、という感じよね」

 「そうですね。そう見えますけど…… 意訳ってことは、裏の意味があるんですよね?」

 

 当然の質問に我ながら間抜けなことを言ったと赤面するフィリップに、ルキアは苦笑も浮かべず端的に「そうね」と頷いた。


 「大前提として、この差出人の名前。『君の友ヨウェル』……ヨウェル書、あるいはヨベル書は教会指定の偽典だけど、もう一つ。この名前は、教皇庁が擁する秘匿組織の構成員がたまに使う偽名でもあるの。その存在を敢えて匂わせたいときに使うから、偽名と言うよりは符丁かしら」

 「……へぇ」


 そんなことを民間人であるフィリップに教えてもいいのだろうか、と、少し心配になる。

 知ってしまったな、では死んで貰おう──なんて展開になったら、死ぬのは彼らの方なのだが。ルキアや公爵にそのつもりが無くても、教皇庁が穏健とは限らない。


 「文中の注目すべき点は……そうね、この「君の探していた十字架だけど、私の家には無いようだ。どこか別のところに忘れたんじゃないか」という一文だけど」


 すっと、ルキアが公爵の首元を示す。

 金で縁取られた黒い十字架──光と闇の聖痕を与えられたルキアにちなんだものだろうか──が、そこで揺れている。


 「スペアではないよ。十字架は肌身離さず持っているし、失くしたことなんて一度もない」


 公爵の入れた注釈に頷き、ルキアは続ける。


 「十字架は文字通りの意味じゃなく、神官様とあの神父……貴方の保護者、お父様が調べていた二人のことね」

 「なるほど。……じゃあ、私の家には無いってことは、教皇庁に登録されていない偽神官……じゃ、ないですね。何でもないです」


 フィリップが口にしかけた推理は、いまフィリップが手にしている人物調査書の閲覧制限によって棄却される。教皇庁は確かに二人のことを把握しており、その素性を王国政府に秘匿している確たる証拠だ。

 それを本当に教皇庁が行っているのか、ナイ神父がそう見せているのか、或いは教皇庁はナイ神父によって掌握されているのか。どれも棄却できない辺り、本当に面倒くさい。


 「そうね。悪くない推理だけど、この場合は『忘れたんじゃないか』とあるから……『君の問い合わせた神官について、教皇庁が回答することは無い。彼らについては忘れた方が身のためだ』といったところかしら」

 「うん。まぁ、忘れろと言われて、はい分かりましたと従ってしまうような素直な人間は、宰相なんて豪華な椅子には座っていられないだろうね」


 公爵は愉快そうにそう言って笑い、フィリップが持つ書類を示した。

 繰れ、という意味だと捉え、ルキアが持っていた手紙から視線を外し、まだ目を通していない書類を探す。


 フィリップの人物調査書、ナイ神父の人物調査書、マザーの人物調査書、ナイ神父の──おや?


 「ナイ神父の書類が二枚ありますけど……あ、マザーのも」


 よく見れば、検閲済みの証に『一級閲覧制限 教皇庁』と端的に書かれただけの書類の他に、もう一セットの調査報告書がある。フィリップのものは無いが、ナイ神父とマザーのものはここ数か月の行動記録がびっしりと書き連ねられている。外神観察日記などフィリップでもやりたくないが、勇敢な調査員もいたものである。その人はただの神官だと思って行動していたのだろうが。


 「君のことと同様に、彼らについても調べた。風貌から察してはいたが、やはり異国人だね」

 「……え? そうなんですか?」


 まぁ、確かに。ナイ神父の浅黒い肌、黒い髪、黒い瞳は、王国人の特徴とは合致しない。マザーの銀髪と銀の瞳もそうだ。ルキアも銀髪だが、王国人は普通金髪だ。

 そんなことが気にならないようなぶっちぎりの美形だから──ではなく、それが単なる化身であると知っているから、フィリップはその外見や素性に大した意味を見出さなかったが、確かに、人間にはその背景や歴史が存在する。これは奴隷から国王まで分け隔てなく、絶対にだ。


 どこで生まれ、どう育ち、何を経験してきたのか。その歴史が、いまの「その人」を形成する。

 まさか時間という概念を超越した外宇宙から、その触角である化身を送り込んできた邪神であると知っていなければ、そこを知ろうとするのも当然だ。


 そして、狡猾無比なナイアーラトテップがそれを予測していない訳もなく。教皇庁所属の神官で、その故郷は王国外であると身元を偽装した──といったところだろうか。


 「あぁ。読んでみてくれれば分かるよ」

 「はぁ。…………え、なんですかコレ」


 フィリップの目を引いたのは、ほぼ全日分に出てくる『対象2(マザーのことだと先に書かれている)と会話。異国言語のため内容は不明。調査員体調不良により交代』という一文だ。一日や二日程度なら「おいおい体調管理くらいしてくれよ」と笑えるのだが、二人の会話を聞いた要員全員が例外なく体調不良を訴え、交代しているというのは異常だ。どう考えても、要員ではなく対象の側に何かしらの原因がある。


 「あぁ、多分、防諜系の魔術だと思うんだけど…… ルキアに聞いても、「言わない」の一言で済まされてしまうんだ」

 「……私が知っている魔術でも知らない魔術でも、教えれば神官様の不利益になるじゃない」


 この調子でね、取り付く島もない、と。公爵はそう困ったように笑う。

 せめて現場で魔術を見てみないことには、いくらルキアでもどうしようもないとは思うが──そもそも、たぶん彼らは防諜魔術など使っていない。


 調査員たちに害を及ぼしたのは、その異国言語──おそらくは邪悪言語と呼ばれる、彼らが奉仕種族やその他の彼らを信仰する神話生物と交信する時に使う言葉だ。クトゥグア召喚の呪文も、この言語体系に属する言葉で書かれている。

 確か「いあ くとぅぐあ」で「我らが信仰し信奉し心酔する、偉大で強大なクトゥグア万歳!」みたいな意味だった気がする。違ったかもしれない。そもそも文化や価値観の違う相手の言語を翻訳しようというのが間違っているのだが……まぁ、それはいい。


 要はルキアがどうこうできるものではなく、むしろ彼女にも害を与える可能性が大いにあるので、できれば避けて頂きたい。


 「……それで、結局」


 ここまで、ナイ神父とマザーの表面的な異常性を陳列されたわけだが。


 「結局、公爵は何が仰りたいのでしょう」


 フィリップの問いに、公爵はずっと変わらない笑みを浮かべて、端的に。


 「うん。彼らの正体を知っていたら、私に教えてくれないかな」

 「神官ですよ。ただの神官です」

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