第71話

 アリアが呼びに来たタイミングは、ほとんど完璧に近いものだった。

 もう少し早ければフィリップは興奮に水を差されて機嫌を損ね、もっと遅ければ興奮が静まり、緊張が戻って来ていた。


 だから彼女が人知れず──案外、気付かなかったのは半ばトリップしていたフィリップだけだったのかもしれないが──部屋を出たタイミングも、公爵の執務室に都合を確認しに行くのにかかった時間も、帰ってくるのに要した時間も、全て完璧だった。


 フィリップとルキアの会話がちょうど途切れていたタイミングということもあり、二人は何らもたつくことなくソファを立ち部屋を出た。至って正常に。


 だから──彼女に出会ってしまったのは、誰が悪いということもない、強いて言うのなら運の悪いことだった。


 「あぁ、サークリス聖下にカーター猊下、お会いできて光栄です!」


 ぱたぱたと──というよりは、どたどたという擬音の似合う、恰幅の良い女性が一人、廊下を走ってやってくる。

 誰だろう、と隣のルキアを見遣るが、ルキアも不愉快そうに、不審そうな目を向けている。公爵家の誰かではないらしい。


 年は40歳くらいだろうか。ルキアたちの母親世代だが、どう見てもルキアの母親ではない。


 身なりは盛られており──「整えられており」と言うには、服やアクセサリーの装飾が過剰だった──使用人や平民階級の者ではないと分かる。だが貴族と言うには、少しばかり醜い。

 学院にいる貴族はみんな制服だし、ルキアは美しさには一家言ある。つまりフィリップは、いわゆる一般的な「貴族」を知らないので、「貴族と言うには」なんて知った口を利ける立場では無いのだが。


 だから知っている範囲に照らして、知ったような口を利くと、ルキアからルキアを引いたような──つまり。貴族としては零点の美しさだった。ルキアが顔を顰めるのも無理はない。

 装飾華美は許せても装飾過多は許せない。美しいか美しくないかの差は大きいということだ。


 だからこの時点で、フィリップたちは適当な理由を付けて──いや、そんなことをせずとも、「公爵に呼ばれているから」と正当な理由を告げて、この場を立ち去ればよかったのだ。

 そうしなかったのは、フィリップの機嫌がすこぶる良く、それにつられて、ルキアも普段より幾分か寛大になっていたのが一つの原因だろう。


 「えっと、貴女は?」


 未だ治まっていなかった上機嫌を変換した曖昧な笑顔を浮かべて、フィリップがそう問いかける。

 女性はニコニコ笑ったまま、何も返さない。ルキアが不快感を露わにする寸前で、アリアが二人の背後で「ルメール伯爵夫人です」と囁いた。


 伯爵夫人程度が別邸とはいえ公爵家で取れる態度では無かったが、誰かがそれを指摘する前に、フィリップが「あ、リチャード様の?」と問い掛ける。


 我が意を得たりと笑顔を深め、伯爵夫人が口を開く。


 「えぇ、はい。この度は不肖の息子がご迷惑をおかけしたようで、大変申し訳ありません」


 先ほどのライウス伯爵とは違い、その謝罪の理由は全く不明だった。

 カリストは二人に決闘を吹っ掛け、雛に寄生されていたとはいえ二人を含む班員たちを襲った。謝罪の正当性はさておき、謝罪する理由としては納得がいく。


 だが、リチャードからその手の謝罪されるべき行為を受けたことは無い。フィリップを枢機卿の親族だと勘違いしていたからかもしれないが。

 むしろ、フィリップの方こそ「魔術剣を見せてくれ」とか、「剣を触らせてくれ」とか、色々と我儘を言ったくらいだ。


 「迷惑、ですか?」


 口を利くのも嫌、と顔に書いてあるルキアを横目に、フィリップが答える。

 公爵は彼女に何も教えなかったのか、未だにフィリップ=教会関係者説を信じているようだし、多少の失礼は大目に見てくれるだろう。


 「えぇ。恥ずかしながら、あれは一家でも出来の悪い子でして。聖下と猊下と同じ班になったと知っていれば、こんなことになる前に試験を──いえ、学院を辞めさせていたのですが」


 ルキアが片眉を上げ、フィリップが首を傾げる。

 話が見えない。こうなる前に辞めさせていた──フィリップと同じ班になれば、こうなると分かっていた?


 いや、有り得ない。


 こと外神・旧支配者絡みであれば全人類の中で最も詳しいフィリップは、アイホートの存在を確認したり、その干渉を跳ね除ける魔術など存在しないことを知っている。

 邪神──仮にも「神」であるアレに、人間の魔術は大した意味を持たない。その行動を読むなど、行動原理や性質をある程度知っているフィリップでも不可能だ。


 魔術や予測でないなら、未来視?


 神の言葉を預けられる預言者ならぬ、未来を予言する予言者の存在は、ある種の都市伝説として語られてはいる。だが、あれはあくまで御伽噺のはずだ。


 「すみません、仰る意味がよく分からないのですが」

 

 警戒心を抱き始めたフィリップには気付かず、伯爵夫人は上機嫌に語る。


 「お二人だけでなく、アルカス侯爵のご令嬢までお亡くなりになったとか? 別の班ではライウス伯爵のご子息や、他にも何人も。まぁそちらはさておくとしても、お二人ほどの魔術師が仲間を二人も失うなんて……息子が足を引っ張ったに違いありませんわ」


 魔術師としては平凡以下のフィリップはともかく、ルキアが自分の班員を守り切れなかったというのは、それほど──亡き息子を貶めてまで整合性を取らなければいけないほどのことなのだろうか。

 自分の判断基準に疑問があるフィリップだからこそ、反応に困る。


 その隙を突くように、伯爵夫人は言葉を重ねる。


 「そのお詫びと言ってはなんですけど、今度、是非うちの別荘に遊びにいらしてください。息子や娘にお二人の話をしたら、とても会いたがってしまって」


 息子の名前が何で、どんな魔術が得意で、娘は何という名前で、何が好きで、と。つらつらと話し続けられ、貴族社会に疎いフィリップも流石に「おや?」と思い始めた頃。ルキアが軽く溜息を吐き、夫人の言葉を遮る。

 そこそこの声量で話していた伯爵夫人だったが、そこは貴族。上位者のご機嫌伺いは慣れたものであるということか。


 「フィリップも私も、お父様に呼ばれているの。退いて貰えるかしら?」


 ルキアの言葉に応じるように、アリアがその前に立つ。

 「退かなければ退かせる」という意思表示に、夫人は慌てて廊下の隅に寄った。


 「それは、知らずのこととはいえ失礼いたしました。公爵閣下によろしくお伝えください」


 ぺこぺこと頭を下げながら立ち去る夫人の背中を見送り、ルキアは見せかけではなく心底からの溜息を吐いた。


 「はぁ…… 二度と敷居を跨がせないで」

 「畏まりました。警備に申し伝えます」


 結局、伯爵夫人が何を言いたいのかは判然としなかった。リチャードの死因や死に様を聞きに来たのかと思っていたが、そうではなかったし、むしろリチャードの弟や妹について語られた印象の方が大きい。

 うんざりした様子のルキアに聞くのは気が引けて、後ろに控えていたメグに近寄る。


 「あの、伯爵夫人が何を言いたかったのか、全く分からなかったんですけど……」


 メグは困ったように微笑して、まずは歩くように無言で促した。

 確かに、公爵に呼ばれてから少し時間が経っている。遅れても怒られたりはしないだろうが、遅れて良いことは無いはずだ。


 「そうですね…… 貴族社会に馴染みのないカーター様には、少し難しい言い回しだったかもしれません」


 言い回しがどうこうというより、殆ど脈絡が無かったのが理解に苦しんでいる大きな理由なのだが。脈絡を無視する言い回し、ということだろうか。

 言語能力が低いのではなく、わざとやっていた? 何のために?


 「要約すると、『ルキアお嬢様には次男を、カーター様には長女を宛がって、ルメール伯爵家に引き入れたい』と、言ったところでしょうか」

 「頭に『死んだ長男なんてどうでもいい』を付けるのを忘れていますよ、メグ」


 冗談っぽく言ったメグに対し、アリアはいつも通り淡々と、真顔で言う。キツい冗談なのだろうが、冗談を言う性格でもないように思える。

 となると、誇張抜きの要約なのだろうが──要はリチャードの件は話しかける口実で、何の脈絡もなかった弟妹の話の方が本題だったのか。


 無意味な死よりは有益な死の方が幾分かマシ、とは、何故か思えなかった。


 歩きながら、メグが続ける。


 「以前から、ルメール伯爵夫人とご長男、リチャード様の不仲は有名でした。いえ、正確には、伯爵家からリチャード様への迫害、というべきでしょうか」

 「迫害?」


 穏やかならぬ──家庭環境を言い表すのなら、普通は出るはずの無い単語に、フィリップが眉根を寄せる。


 「はい。魔術適性の低いリチャード様に家督を継がせたくないからと、学院を退学させようとしておられました」

 「え? そうだったんですか?」


 魔術学院は王国最高の教育機関だ。カリキュラムは魔術一辺倒ではなく、経済や法律といった王宮勤めに必要な科目を修めるコースや、冒険者には必須のサバイバル技術や対魔物戦闘をメインとするコースもある。

 卒業資格があれば王都での就職に困らないし、成績上位者には王宮や衛士団といったキャリアが約束されている。


 卒業などされてしまえば、家督を継がせないどころか逆に箔が付くというもの。


 「はい。ですが、学院長が学校理念を理由に拒否されまして。以来、半ば勘当状態だったとか」


 理念と言うと「魔術の実力によってのみ自らを誇示せよ」という奴だろうか。学校外におけるあらゆる権力の剥奪は、つまり、親から子への干渉を──特に、学習の機会を奪うような真似を許さない盾にもなる。

 有名無実だと嘆いていたが、なんだ。意外と機能しているではないか。


 「ご長男がお亡くなりになり、弟君を正式な後継者として立てられるようになったので、こうしてサークリス公爵家に繋がりを求めて来られたのかと」

 「なるほど……」


 聞かなければよかった、と、フィリップは久し振りに知識の追加を後悔した。

 こと智慧と啓蒙に関しては人並み以上にこだわりのあるフィリップが、だ。


 死んでしまった友人の憐れむべき過去を知って、その死をもう少し悼めばよかった──なんて、人間的な後悔をしたわけではない。フィリップの後悔の宛先は、あくまで「今」だった。


 「……着いたけど、準備はいい?」

 「……ちょっと待ってください」

 

 メグが語り終えたほんの数歩後。フィリップは公爵の執務室の扉の前に到着していた。

 到着、してしまった。こんな、愉快さの欠片もない話で直前の興奮を冷却して、冷や水どころか液体窒素をかけたような過冷却状態で、公爵と対面しなければならない。平常時のテンションをゼロとするのなら、公爵邸に来た時のテンションは10、ライウス伯爵と別れた直後は60から70はあった。今は──ゼロどころか、マイナスだ。


 帰りたい。

 タベールナにでもいいし、学生寮にでもいい。宛がわれた客室でも、別に構わない。


 とにかく、こんなテンションで──内心の苛立ちを表情に出さないように必死な状態で、フィリップに対してどんな態度で接してくるかも分からない相手と対面するのは得策ではない。

 

 苛立ちは思考の精度を落とし、判断速度を落とす。そうなると、思考に基づく行動よりも反射の方が優先される。

 これはフィリップに限らず、人間であれば避けようのない身体メカニズムだ。訓練次第では感情と思考を全く切り離せたり、或いは先天的に感情とは全く違う行動を取れたりもするのだが、フィリップにそんな才能は無く、訓練もしていない。


 快いから生かす、不快だから殺す、なんて、蛮族の王じみた暴挙に出るつもりはないけれど、それはあくまで理性の話。

 フィリップの獣性──あるいは本性は、独裁者の如き暴虐を厭わない。より正確には、それを暴虐であるとも感じない。眼前を飛ぶ羽虫を叩き落とすのと全く同じ反射で、放っておけばそのうち飛び去って行くであろう命を、不愉快だという理由だけで潰して殺す。


 咬みも刺しもしない、できない、無価値なものを、耳障りな羽音と視界を飛び回る邪魔さだけで殺す。

 「不愉快だから」という判断以前に、反射的にだ。


 「すぅ……ふぅ……」


 二度、三度と、深呼吸を繰り返す。

 緊張を解しているのだと、安穏とした勘違いをするような者は、ルキアを含めて誰も居なかった。


 故人を貶めることを指して、冒涜だ、ということがあるけれど。本物の「冒涜」を、冒涜という言葉が形を持ったような存在を知っている身としては、少々笑える表現だ。

 尤も、笑えるのはその表現と、その言葉を当て嵌めてしまう智慧の浅さであって、その行為自体に面白味は無い。


 死人を貶すな、なんて言うつもりは無い。

 人間に価値が無いのなら、その生にも同様に価値は無く──生の終着点である死にも、大した意味は無い。

 生と死が同じく無価値で、生者と死者を同一視できるフィリップに、そんなつもりはない。


 生死などどうでもいい、。とは、少しだけ思うが、リチャードが生きてこの場に居て、フィリップの眼前で貶されたとしても、きっと激昂したりはしなかったはずだ。

 それほど仲がいいわけでもなかったし、その程度の相手に「怒って貰って」も、リチャードは別に喜ばないだろう。


 つまりフィリップの苛立ちは、伯爵夫人の言葉ではなく、興奮に水を差されたことによるもので──それを自覚してからは、テンションが平常に戻るのも早かった。


 「……よし、行きましょう」

 

 覚悟を──苛立ちに任せて誰も殺さないという覚悟だが──を決めて言ったフィリップに、三人分の心配そうな視線が突き刺さった。



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