第69話
ふ、と。目の前が暗くなる。
それは意識消失の比喩ではなく、物理的なもので──より正確には、魔術的なもので、現実のものだった。
「──たったひとりの姉だもの。だから一度だけ、チャンスをあげる」
廊下を暗闇に染め、そこに存在していた光の全てを右手に集めたルキアが、いっそ優し気にも聞こえるほど穏やかに言う。
水をかけても消えず、しかし何に引火することも無く、そして既定のスイッチによってオン・オフを切り替えられるという錬金術製のランプ。廊下を照らす照明器具であった洒落た飾り付きのそれらが、明かりを付けたまま明るさを失くすという奇妙な状態になっているのを、目の端で捉える。
「撤回して、謝罪して。そうしたら、褒めてあげる。この私の前で、私の客人を、私の友人を侮辱する度胸を」
褒めるってブチ殺すって意味だっけ、と。フィリップが困惑するほどの、普段のルキアとはかけ離れた怒り具合だった。
それこそ、カリストに喧嘩を売られた──フィリップにしてみれば、あれは単なる事実の羅列だったのだが──時か、それ以上の。聖なる証の刻まれた赤い双眸が、内に秘める魔力で微かに輝きを放つほどだ。
本気度次第ではダンジョン一つを丸ごと焼却できる火力を照準されて、しかし。ガブリエラに恐れや怯えは無い。
「その反応……ハズレかぁ。うーん、結構自信のある推理だったんだけど。あ、失礼なこと言ってごめんね、フィリップくん」
あっけらかんと。ルキアに言われたからでも、魔術を照準されたからでもなく。あくまで、自分の推理が間違っていたから、謝った。
言葉にせずともそれが分かる、いっそ明朗な態度だった。
「いえ、次期公爵閣下からすれば、平民も奴隷も大差なく下賤でしょうから。ちなみに、どういう推理だったのかお聞きしても?」
「フィリップ、それは──」
ルキアが血でも吐きそうなほど辛そうに言葉を紡ぐ。
フィリップを宥めようとしたのか、慰めようとしたのか、単にその言葉を否定しようとしたのかは分からない。言葉が全て形になる前に、朗らかな笑い声に遮られたからだ。
「あははは! いや、そこまでは言わないよ? 平民は国家を構成する大切な臣民だけど、奴隷はあくまで財産。モノ扱いだからね」
王国には奴隷なんていないけれど、と、彼女は補足する。
明るく、しかし人を人と思わないようなガブリエラの発言に、フィリップは微妙な表情を浮かべた。
わぁ、差別的。王も貴族も富豪も貧民も奴隷も、みな同じ、みな無意味、みな無価値じゃあないか、と。目クソ鼻クソを笑うというか、どんぐりの背比べというか。
そんな内心を反映した顔を、彼女はぴっと指差した。
「それ。その目が理由だよ。自分も含めたあらゆる全てに希望を抱いていない、諦めに満ちた目。奴隷に、よく表れる目。……幼い頃から奴隷として他人に遜り続けてきて、そんな年に見合わない礼儀作法を躾けられているのかな、ってね。心底からの敬意か、立場への阿りか、単なる礼儀か──それとも、ただのくせか。それぐらいは判別できるんだよ、私」
それぐらいは、なんて言っているが、本当はもっと多くのことを見て取っているはずだ。
フィリップの心中にある彼女への──貴族も含めた、人類への冷笑も。もしかしたら。
「ま、間違えちゃったみたいだけどね! お父様はちゃんと調査したみたいだけど、私には何にも教えてくれないしさぁ。どう思う、ルキアちゃん?」
「──話しかけないで」
魔術の照準こそ解いたものの、ルキアの瞳に宿った剣呑な光は未だ消えていない。
にもかかわらず、ガブリエラの表情は──いや、ずっと、か。ルキアが魔術を照準していても、怒りを露わにしていても、魔術を解除しても、拗ねたように顔を背けても。ずっと変わらず、朗らかな笑顔を浮かべている。
「あの、サークリス様は……」
言いかけて、この場にそう呼ばれるべき人間が二人居ることに気付く。
「いえ、ガブリエラ様は、何が仰りたいのでしょう? 僕の目が不愉快だという意味なら──」
「うん? いやいや、不愉快とは言ってないよ? ただ、君の目は不思議だって言ったの」
不思議──奴隷ではないフィリップが、奴隷の目をしているのが不思議、ということか。
別に絶望も諦めも奴隷の専売特許ではないし、むしろ奴隷は自由を求めて戦争を起こしたり、部族や宗教や慣習を大事にしたり、押し付けられた環境の中でも必死に生きているらしいが。
いや、しかし、それは本で読んだ知識に過ぎない。
実際に目にした奴隷は確かに死んだ目をしていた。……あのレベルだとすると、不愉快と言われても仕方ないけれど。
「奴隷でもないのに、この世の最底辺を知ってる目ができる──知ったような目ではなく」
真剣な口調で、しかし表情を変えることなく、彼女は笑い続ける。
「いったいどこで、それほどの絶望を背負い込んだのかな? って、気になっただけだよ」
背負い込んだと言うか、絶望の方から抱き着いて来た感じだが。それも両手両足どころか、無数の触手を使って。
さておき、「どうして」背負い込んだかはともかく、「どこで」なら、答えるのもやぶさかではない。
「以前に、カルトに攫われたことがあるんです。その時の扱いは、まぁ……人並み、ということは無かったと思います」
あれは生贄にするためだったので、奴隷どころかナマモノ扱いだったのだが。
薬漬けにされ、支配魔術をかけられ、邪神の供物にされかけた。何の因果か、本物の邪神との交信に接続し、挙句最大神格の目に留まる──白痴の魔王に「目」という器官や「認知」という機能は無いだろうし、比喩的な話だが──なんて、絶望では済まない経験だった。
普通は発狂し、自死を選ぶまでもなく、存在の核が壊れてどろどろになっている。
今もこうして無事でいる理由は──ちょっと分からないが、外神の誰かしらが何かしらの防御手段を講じたのだろう。たぶん。
「あれは本当に──本当に、クソみたいな体験でした」
あの一件が無ければ、フィリップは今も平和に丁稚奉公に勤しみ、宿屋の従業員としての技能を磨いていたのだろう。
将来の夢とか、好きな女の子とか、そういうものも出来ていたかもしれない。
モニカやセルジオと話すたび、彼らの無知と平穏な死を願うことなくいられただろう。
ルキアやアリアのような美人を見た時に、無意識にマザーと比べるような失礼な真似をせず、ドキドキできたのだろう。
衛士団の剣や鎧に憧れて、見せろ触らせろとはしゃぐこともできただろう。
そんな「普通」を、全て奪われた。
彼らのことを思い出すだけで、癖もしつけも抜け落ちて口汚くなるほど腹が立つ。あれから半年近く経つというのに、まだ。
おかげでカルトに対する殺意は高まりっぱなしだ。積極的に絡んで来い。苦しんで死ね。
「っ……そう、みたいだね」
初めて、ガブリエラが表情を揺らした。
怯えは一片も無かったが、その笑顔には確かな驚愕が混ざる。
「そんな目、人間嫌いのルキアちゃんでもしたことないよ」
ルキアを指して「人間嫌い」という不適切さにくすりと笑いを漏らす。
彼女のそれはフィリップのと同じで、人間に価値を見出していないがゆえの無関心だ。好きとか嫌いとか、そういった区別ではない。
そっと、頭を下げる。
「お耳汚し、失礼いたしました。やはり私の礼儀作法ではお二人を不快にさせてしまいそうなので、部屋に戻ります」
勿論、狙ってやったわけではない。
高まった殺意が獣性になって口から漏れただけで、そこに「こうすれば場を去れるか?」という打算は一切無かった。失言に気付いた時には冷や汗を流したくらいだ。
だが、それを利用するくらいの強かさと冷静さを残せていたのは、やはり立場意識の欠如が理由として大きい。より正確には、平等意識が大きすぎるのだが。
これ幸いと部屋に引っ込もうとしたフィリップだったが、それはガブリエラによって止められる。
「あぁ、待ってフィリップくん。私はすぐに魔術学院に行かなくちゃだから、このままルキアちゃんと一緒にいてあげて?」
「学院に? どうして?」
ルキアが思わずと言った様子で問いかけるが、ガブリエラは「仕事の内容は漏らせませーん」と言いながら──言って、ではなく──足早に立ち去った。「すぐに」というのは、どうやら言葉通りだったらしい。
おそらく、部屋を出て玄関に向かう途中でフィリップたちに遭遇し、そのまま話していたのだろう。別れの挨拶もなく、かなり焦った様子で去っていった。
「…………」
嵐のよう、と形容するには美しい女性だったが、立ち去った後の静けさはまさにそれだった。
ルキアも、フィリップも、メイド二人も、一言も発さない時間があった。数秒から数十秒くらいだが、誰もが言葉を探しているのに見つからない、重い沈黙だった。
「その、ごめんなさい。姉が失礼なことを言って……」
「え? ……あ、いえ、気にしてませんよ」
何か言われただろうか、と本気で考えたフィリップは、安心させるように笑って応える。
平民も奴隷も貴族も、王族や聖人すら同列に扱える本物の平等主義者としては、あのくらいは暴言にもならない。
「それより、公爵閣下はご多忙とのことでしたけど」
「そうね。遅らせるって、どのくらいかかるのかしら。……アリア、ちょっと聞いてきて頂戴」
アリアは畏まりました、と、綺麗な一礼を残して去っていく。
他にも使用人はたくさんいるが、わざわざ側付きを離す必要はあったのだろうか。屋敷の中とはいえ、部外者の目の前で離れていくアリアもだが。
「自分で呼んでおいて別の客を招き、挙句長引いたから遅らせるなんて、失礼よね。……フィリップ?」
「あ、はい、なんですか?」
ぼけーっと、去っていくアリアの背中を見るとは無しに見ていたフィリップは、ルキアの話をまるで聞いていなかった。
失礼と言うなら立場的に下のフィリップが一番失礼なのだが、ルキアが眉根を寄せた原因はそれでは無かった。
「あの子を気に入った?」
アリアの背中は角を曲がって見えなくなっていたが、誰のことを指しているのかは分かる。
気に入ったか気に入らないかで言えば、とても気に入っていた。なんせ二つ名持ちの剣士だ。魔術剣士ほどではないが、中々に少年心を擽ってくれる。
尤も、フィリップの言う「気に入った」に大した意味は無い。
気に入った相手が眼前で死にそうになっていれば助けようとするだろうが、既に死んでいたら「あぁ、そう」で済ませるだろう。そのくせ他人に侮辱されると腹を立てるという、他人の身命より自分の不快感の方が優先される逸脱者の感性が吐き出す「気に入った」はその程度だ。
衛士たちやルキアのように眼前で人間性の輝きを魅せ、ようやくその程度になれる。そこまでされて、ようやくその程度の認識が出来る。
そしておそらく、その程度の認識が、その程度の価値が、人間に見出せる限界なのだろう。
だからアリアに対して言う「気に入った」は、かっこいい二つ名に「かっこいいじゃん」と思った分のものでしかなく。ルキアとアリアが並んでいて、どちらか殺せと言われればアリアを殺すのに躊躇いを覚えない程度のものなのだが。
「……駄目よ、あの子は」
「え? はぁ、まぁ、何をするつもりもありませんけど」
ルキアの側付き──つまりは護衛に、何かをする理由も無い。
彼女が敵対してくるのなら話は別だが、その時はルキア自身も敵対してくるだろう。「駄目よ」という言葉も、敵になってしまえば無効ということでいいはずだ。二人がフィリップの敵になるところは、二つの理由から全く想像できないのだが。
「それより」と。半ば強引に話題を戻す。
「それより──公爵閣下って、どんな人なんですか?」
これから半ば尋問じみた会話をするであろう相手について、少しでも知っておきたいという意図は、どうやらきちんと伝わったらしい。
ルキアは表情を引き締め、少し考えてから口を開く。
「お父様? そうね…… 巷では「国王の懐刀にして快刀」とか、大層な称号で呼ばれることもあるけど……」
ルキアは顎に手を遣り、最適な言葉を探している。漏れ聞こえてくる呟きに「愛妻家? いえ、恐妻家かしら」と聞こえたのは、彼女一流の冗談なのだろうか。
「貴族としてなら、私に「美しく在れ」と求めるだけのことはある人物よ。傑物、と言い換えてもいいわ」
「……おぉ」
魔術的・肉体的な強さや外見の美しさならともかく、内面について──人間性について語られると、フィリップも期待せざるを得ない。
このたった一言で、フィリップの中の優先順位はアリアより公爵の方が上になる。フィリップの対人認知などその程度だ。
「それは、是非ともお会いしてみたいです! あ、いえ、急かすつもりではなく」
アリアの二つ名を開示した時より激しい食いつき具合に、ルキアは困惑を微笑で隠した。
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