第52話
かたかたと馬車に揺られながら、フィリップは油断すると零れそうになる溜息を呑み込んだ。
昨日まで──厳密には昨日の就寝寸前までは、大して気にならなかった。
あぁ、明日はお出かけかぁ。先週の一等地観光は延期になっちゃったけど、そういえば埋め合わせの話をしてないなぁ。そんなことを考えていたのだが、二等地じゃなくて一等地に行きたいなぁ、なんてことを考え出した頃から、だんだん内心が曇ってきた。
二等地かぁ。ナイ神父とマザーにまた会わなくちゃいけないのかぁ。逃げ出せたと思ったら、たった2週間で再会かぁ。
そんなことを考えていたら、寮のベッドの上だというのに「帰りたいなぁ」なんて口を突いて出て、思わず苦笑したほどだ。まだ寮を出ていないどころか、日付が変わってもいないというのに。
申請者がルキアでは無かったからか、学院が貸し出してくれた馬車はグレードの落ちた、というか、一般的な運送用のキャラバン型馬車だった。
ちなみに、ダンジョンまでの足にもこれと同じ型のものが貸し出される。今から尻と腰が痛くなってきそうだ。
「停めてください。ここから歩きます」
御者役をしてくれていたリチャードに告げ、馬車を下りる。
見慣れた道を先導して歩いていると、ふと目の前に人の列が現れる。教会までまだ曲がり角が二つも残っているのだが──
その横を素通りして教会へ向かうと、「なんだこいつ」という視線が並んだ人々から投げかけられる。
十数人目の横を通り過ぎたとき「ねぇ、ちょっと」と呼び止められた。
「貴方たち、この先の教会に行きたいのよね?」
「あ、はい。投石教会に用があります」
「やっぱりね。この列が待機列よ。最後尾に並んでね」
順番抜かし──というより、この列の行き先を知らない者だと思われたのだろう。事実、この列が教会に続いているというのは半信半疑だった。諭すような言い方に、つい「あ、そうなんですね」なんて返してしまう。
もろに関係者のフィリップに、教会どころか教皇庁にすら顔パスで入れるルキアがいる。押し通ることは容易いが、そこまでして二人に会いたいかと言われれば、勿論NOだ。
よし。これを言い訳に、みんなには諦めて貰おう。
息を吸って振り返り、適当な謝罪を口にしようとした時だった。
「あぁ、彼は特別なんです。道を開けてください」
と。耳障りな──耳触りの良い声がする。ダメだ、遅かった。
並んでいた人々に加え、背後ではユリアとシルヴィアが黄色い悲鳴を上げる。
その喧騒の中に在って、地面を叩く革靴の音が一歩、また一歩、ゆっくりと近づいてくるのがいやに鮮明に聞こえた。
ごくり。唾を呑む音を聞く。
人外の美に中てられた女性のものか、或いは。
深々と溜息を吐いて、覚悟を決めて振り返る。
「やぁ、お久しぶりです。フィリップ君」
いつも通りの慇懃な言葉遣い、普段通りの丁寧な一礼。
黒い髪と褐色の肌、長身痩躯に異国の顔立ち。一挙手一投足が絵になる
何とか意識を保っていた人に、美しさの暴力で倒れてしまった人を任せ、教会へ向かう。
ナイ神父とフィリップが並び、少し離れてルキアとリチャード、かなり離れてユリアとシルヴィアが続く。
ナイ神父が教会の扉に手を掛けた時、不自然にならない程度に長身を傾ける。
「フィリップ君。まだあの糞袋をお傍に置いているんですか? もう少し見る目を養われては如何です?」
「…………」
不愉快そうに囁かれ、フィリップも不愉快そうにその黒い瞳を見返す。
フィリップの視線が一段鋭くなった時点で、ナイ神父が目を細めて笑い、睨み合いは一瞬で終わる。
「さぁ、入りましょう。マザーもお待ちかねですよ」
フィリップの交友関係とフィリップの守護に関係は無い。強制するようなことでもないと判断したのか、これ以上言い募るつもりは無いらしい。
扉が開かれると、見慣れたバシリカ型教会の内装が目に入る。
よく整えられたカーペット、整然と並んだ信者用の椅子、最奥でステンドグラスから差し込む光を浴びる聖女像。その下で、漆黒の喪服に身を包んだ女性が待っていた。
何度目かの溜息を吐き、大人しく彼女の元に向かう。
「久しぶり、フィリップ君」
「お久しぶりです、マザー」
ぺこりと頭を下げ、抱擁を無抵抗に受け入れる。
ひとしきり愛玩されて解放されたのち、クラスメイト達の方に向き直る。
「えっと、こちらが投石教会の主──いえ、管理人のナイ神父、あちらの女性がマザーです」
その常識に照らせば、神父は管理人に過ぎない。
二人を順番に示して紹介し、今度は彼らの方に向き直る。
「こちらは僕のクラスメイトで、今度、校外試験で同じグループになった方々です」
「シルヴィア・フォン・アルカスです! よっ、よろしくお願いしますっ!」
「ユリア・ベルトです! あの、お会いできて光栄です!」
ガチガチに緊張した女性二人を苦笑交じりに眺め、ナイ神父の顔色を窺う。内心の読めない、フィリップを含めた誰にも読ませない貼り付けた微笑だが、彼女たちにとってはそれすら猛毒だ。
「そうですか。フィリップ君がお世話になっています。ご迷惑をおかけしていませんか?」
迷惑も何も、昨日までは「話したことはあるクラスメイト」程度の関係だった。
ちなみにこの質問に冗談でも「迷惑だ」とか「邪魔だ」と答えた瞬間に首が飛ぶとは、フィリップを含めた誰も気付いていない。
「い、いえ! とんでもありません!」
「それは良かった。折角ですし、お祈りしていかれませんか?」
「よよ、よっ、よろこんで!」
わちゃわちゃしている二人に──ではなく、内心で渦巻いているであろう軽蔑や嘲笑を一片も感じさせない微笑を浮かべたナイ神父を見て、まぁ大丈夫そうかと安堵する。
それを背後からふわりと抱擁して、マザーはフィリップの愛玩を再開した。
「栄養状態は良さそうね。睡眠の質も量も十分そうだし……魔力もかなり上がったんじゃない?」
「そうかもしれません。ここ最近は、ずっとサークリス様に鍛えて頂いていたので」
抱き締められ、頭を撫でられると、どうにも気が抜けて眠くなる。
マザーの体温、感触、匂い、気配、彼女を構成する全てが、フィリップの本能を麻痺させる。いや、逆に励起しているのだろうか。「ここは安全だ」と、脳と身体を休眠させているのか。
この程度の触れ合いは日常茶飯事だっただろう。ほんの二週間空いただけだというのに、もう耐性を失くしたらしい。
そんな自虐も、意識と一緒に流れていきそうだ。
「ご無沙汰しております、神官様」
──と、いつも通りの、涼やかなルキアの声が意識を繋ぎ止める。
彼女の声も耳に心地よく、普段なら傍に在っても気にせず眠れるような透明感のある声だ。だが、ことマザーの前では、彼女の一挙手一投足に注意を払う必要性を思い出させるアラームとなる。
「!?」
さっきまで立っていたはずだが、気付けば長椅子に座ったマザーの膝の上だった。
半分寝ていたのかと愕然としつつ、ぱっと体を起こす。
「ルキアちゃん。久しぶりね」
親しげな呼びかけに、フィリップとリチャードが鳩が豆鉄砲を食ったような顔でマザーを見る。
リチャードの驚きは、たかがいち神官風情が聖人に向けて親しげな口を利いたことによるもの。
フィリップの驚きは、たかがいち人間風情がマザーの記憶に留まっていることによるもの。
二人の認識は上下関係が逆転していたが、その驚きように大差は無かった。
呆然と、見目麗しい女性二人が言葉を交わすのを眺める。
片や人類最高、まさしく「当代随一」「絶世」の言葉が相応しい美少女。片や人類以上、直接目にすれば毒にすらなる相貌の美女。
儚げな雰囲気と、神秘的な気配。折り目正しい制服と、ゴシック調の喪服。血のように赤い瞳と、神秘的な銀色の瞳。発育途中ながら女性的魅力を感じさせる肢体と、成熟した女の色香を感じさせる肢体。色素の薄い銀色の髪と、「銀色」としか形容のできない月光のような髪。
異なる点もあり、共通する点もある。
総合的な「美しさ」においてはマザーが別格だ。だが──それは、ルキアの美しさを損ない、貶める要素にはならない。
彼女たちが並んで会話している。その光景だけで世の男性は意識を飛ばし、ここが天国かと錯覚するほどだろう。
美しさに慣れ、その本性を知るフィリップはともかく、リチャードはその例外になれなかった。
フィリップの隣で、長身がふらりと揺らぐ。慌てて身体を支えるが、体格の差がある。倒れる先を床から長椅子へ誘導できたのは幸運だった。
頭を打ったりしていないことを確認して、そっとナイ神父の方へ向かう。
シルヴィアとユリアは聖女像の前に跪いて祈りを捧げており、今ならこっそりと話せそうだ。
「……あれ、どういうことです?」
「さぁ? 私にもなんとも。アレも信者には優しいなんて生易しいモノじゃありませんしね。……私としては、ああいう低俗なものを傍に置くのは、君の有って無いような品位を損なうので止めて頂きたいのですが」
またか、と、これ見よがしの嘆息を返答とする。
森で知り合ったルキアを紹介した時から、ナイ神父はずっとこの調子だ。
何が気に入らないのかは知らないが、モニカには向けなかった隔意を抱いているらしい。
ちょうどいい機会だ。その理由くらいは訊いて──
「何のお話をされてるんですか?」
「……ルメール様が気を失ってしまったので、処置をお願いしていました」
ユリアがナイ神父の声に反応し、距離を詰めて来たので咄嗟に誤魔化す。
つい視線を逸らしてしまったのだが、その先にリチャードが寝ていてくれて助かった。
「えぇ!? なんで!?」
幸せそうな寝顔のリチャードに気付き、ユリアがぱたぱたと駆け寄っていく。
外にいた人たちと同じ理由ですね、と端的に返し、そういえばと思い出す。
「大盛況ですね?」
「えぇ。人の口に戸は立てられないとは言いますが、本当に鬱陶しいですね」
同意を求めるように囁いたナイ神父から一歩離れる。無駄に耳触りのいい声なので、近くで囁かれると毒だ。
長く真剣な祈りを終えたシルヴィアが立ち上がったのを見て、そろそろ頃合いかと見切りを付ける。
「じゃあ、僕はそろそろ行きますね。ダンジョンの攻略について、色々と訊くことがあるので」
フィリップが断りを入れると、ルキアがマザーとの会話を切り上げ、一礼してこちらへ歩いてくる。
当初の予定ではリチャードが冒険者ギルドへ行ってくれるはずだったのだが、彼はまだ幸せな夢を見ている。放置でいいだろう。
ナイ神父とマザーに見送られ、教会を後にする。
その背中に「そういえば」と呼び止める声がかかる。
「あの物語はお気に召しましたか?」
「…………」
どういう意図の質問なのかは知らないが、非常にNOと答えたい。ナイ神父のセンスを認めるのは癪に障る。
だが──彼の齎したものだから。そんな理由であの素晴らしい作品を貶すのは、物語に触れる者としてあってはならないことだ。作品は作品、作者は作者、紹介者は紹介者。全く別の、独立したものだ。それも分からない者に、物語に触れる資格は無い。
「──えぇ、とても」
とはいえ、心情を切り離すのは難しい。
せめて顔を見ないように前を向いて言って、フィリップは扉を開けて出て行った。
その背後で、ナイ神父の口角が僅かに動いた。
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