第44話
朝食を終え部屋に戻り、さっき脱いだ制服にもう一度袖を通す。
本当に浮かれているなと自覚しつつ、顔に浮かぶのは苦笑や自嘲ではなく期待の笑みだ。
この三日間、人外を想起させるような出来事が何一つ無かった。ルキアの私服には驚かされたが、マザーのことを忘れてしまえば、彼女に最もよく似合う衣装と言っても過言ではない。そのうち慣れるだろう。
限りなく人外の美に近しい容姿に“慣れる”なんて発想が浮かぶ時点で、既に人外の美に慣れている──深層心理にマザーの存在が刻み込まれているのだが、それを自覚してはいない。
歯を磨き、髪を整え、もう一度荷物を確認して、部屋を出る。
階段を降りていくにつれ、同じ道を行く生徒の数が増えていく。確か四階以上が貴族向けだったので、平民の数もそれなりに多いのだろう。
男子寮の出口は教室棟へ向かう生徒でごった返しており、朝市もかくやという人混みに思わず溜息を吐く。
時間に余裕をもって出てきたつもりだが、教室に着くのはギリギリかもしれない。というか──
「あれ? 教室ってどこだろう」
昨日は何も考えず、正確には余分なことを考える余裕も無いほどのペースで魔術の練習をしていた。魔力消費が思考の質と速度に大きく影響するというのは本当なのだなと益体の無いことを考え、それは現実逃避だと自嘲する。
とりあえず職員室か、学長室に行けばいいだろうか。或いは──
「……ん?」
寮の入り口は依然として生徒で溢れかえっているのだが、どうにもおかしい。
さっきからその数が全く減らないどころか、人混みが捌ける様子もない。何なら人の数が増えているし、外側には数人では効かない数の女子生徒まで見える。基本的に異性寮への立ち入りは禁止のはずだが。
何かのトラブルだろうか。
トラブルだったとして、それはフィリップが遅刻するよりも大きなトラブルだろうか。もし違うのなら、道を開けて欲しいのだが。
平均年齢16歳の男子生徒の群れを割って歩けるような体力・体格は、10歳のフィリップにはない。
せめて何が起こっているのかくらいは把握したいとぴょんぴょん飛び跳ねるが、身長と跳躍力が生徒の壁を超えるに至らない。
だが少なくともフィリップの存在をアピールすることは出来たのか、人混みの奥から「フィリップ!」と呼ぶ声がした。
他にも何人かのフィリップ何某が在籍しているらしく、何人かが「俺?」「僕?」と困惑している。フィリップもその一団に加わりたいところだが、その前にフィリップの前にあった人だかりが左右に割れる。
「……え?」
割れた人波の中心を、靴音も高らかに堂々と歩いてくる探し人。
ちょうどクラスについて尋ねようと思っていたルキアが、柔和な微笑を浮かべてそこにいた。
「おはよう……は、さっき言ったわね。その制服、よく似合っているわ」
「ありがとうございます。あの、僕のクラスって分かりますか?」
かつて海を割った水属性の聖痕者の御業、まさに聖人のような──いや、彼女も聖人なのだが、とにかく聖典に描かれた者のように人波の割れる光景と、それに対して抱いた色々な感想を取り敢えず横に置く。
今最も重要なのは、フィリップのクラスとその教室が何処なのかだ。クラス分け──ヘレナの適性検査で魔術をでっち上げたので、フィリップにもどうなるかは分からない。
「えぇ、勿論。行きましょう?」
ルキアが手を差し出すと、周囲から押し殺したようなどよめきが起こる。
慣れているのか、ルキアはそれに一瞥もくれない。
自分から案内を頼んだわけだし、このエスコートを断るのは地位云々を抜きにしても失礼に当たる。
「……はい」
突き刺すような視線は無視して、フィリップは大人しく手を引かれて歩くことにした。
一人の例外も無く、すれ違う生徒全員から注視され続け、流石のフィリップも居心地の悪さを覚え始めた頃、ルキアが一つの教室に入る。
三人掛けの長机が扇状に三行三列、教卓と黒板から離れるにつれて数段ずつ高くなるような鉢状に据えられた、シンプルなレイアウトの講義室だ。
入口の壁には『1-A』と書かれたプレートが貼られており、ルキアのクラスだと容易に判別できる。
荷物を置くのだろうと思ったフィリップは律儀にドアの前で止まったのだが、繋いだままの手を引かれて一緒に入ってしまう。
不意の抵抗に振り返ったルキアに「入っていいんですか?」と尋ねると、彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「勿論。ここは貴方の教室よ?」
「え? あー……そうなんですね」
魔術学院におけるクラス選別基準は実力ただ一つのみ。
フィリップはその実力を見る適性検査で魔術を使わなかったはずだが。
少し考え、すぐに納得のいく理由に思い至る。
そもそもフィリップは拘束措置としてここに来たのだ。何をやったのか──何ができるのかは、既に王都衛士団から報告されているだろう。
適性検査の結果に関係なく、最上級クラスに割り当てられた可能性もある。
そうなると適性検査で敢えて魔術を使わなかったのは失敗かもしれない。
楽観するのなら、あの失敗によって「制御不能だ」という主張に説得力が出た。悲観するのなら、「テストで実力を隠す変な奴」みたいな認識をされたかもしれない。
まぁどの道、あそこでクトゥグアを呼ぶという選択肢は無かった。
誰も発狂せず何も壊さず、ついでにフィリップが巧く魔術を使えるような、そんな手段があったのなら悔やむところだが、最善の選択だったと思えば後悔も無い。
ルキアの先導に従い、最奥列最後尾の窓際に座る。
緑豊かな校庭だけでなく、遠くに絢爛な一等地の街並みも見える特等席だ。思わず感嘆の声を上げると、隣でルキアがくすくすと押し殺した笑いを漏らす。
確かに、ここは授業を受ける場所で、景色に感動するような場所ではない。
照れ笑いを浮かべつつ、誤魔化すように教室をぐるりと見回し──生徒の大半と目が合い、思わず視線を窓の外に戻す。
クラスに知らない奴が居たら気になるのも分かる。が、全員がじっと注視してくるとは。
「一等地に行ったことはある?」
ただ視線を逃避させただけなのだが、窓の外に興味を惹かれたのだと勘違いしたルキアがそう問いかける。
「いえ。二等地も宿の周りと商店街ぐらいですね」
「今度の休日、一等地に出掛けない? 案内してあげるわ」
「いいんですか? じゃあ、是非」
王国内のほぼ全ての才ある魔術師・錬金術師が集められる王都は、円層構造の中心側に行けば行くほど、街を構成する要素の質が上がる。
それは建築物もそうだし、そこで働く従業員の技能、取り扱う商品の質、そしてそこに住まう人間の質。
貴族とその従者が住民の大部分を占める土地だ。平民であるフィリップは、たとえ多忙な身では無かったとしても、わざわざ見に行こうとは思わなかっただろう。
だがルキアが案内してくれるというのなら、万が一にもトラブルに巻き込まれたりはしないだろう。まさか公爵令嬢に喧嘩を売ってくるような間抜けもいまい。
「最高のエスコートを期待して頂戴?」
「あはは……」
立ち居振る舞いの麗しいルキアが言うと様になっているが、エスコートは男性が女性に対してするものだ。この場合はフィリップがルキアをエスコートすると言うべきなのだが、残念ながら周辺地理に明るくないフィリップでは難しい。二人の立場を考えるなら、いち平民が最高貴族の隣を歩くなど夢のまた夢だ。
「いつか、今度は僕にエスコートさせてください」
失笑を受ける覚悟で、半ば意地で吐いた言葉にしかし、ルキアは蕩けるような笑みを浮かべた。
「えぇ、期待しているわ」
予想とは違う反応に「おや?」と思うが、それを動作や台詞で出力する前に教室の扉が開き、「はーい、着席してー」と手を叩きながらヘレナが入ってくる。
唐突な学院長の来訪に生徒たちがざわつくが、ヘレナが教卓に着く頃には皆が着席し、きちんと口を閉じていた。
「何故、私がこの1-Aの教室に来たのか。まずはその理由について話します」
ルキアと話すときとは違い、温和ながらしっかりとした教師然とした態度のヘレナからは、確かに最強の魔術師に相応しいカリスマを感じ取れる。
普段と違う態度に首を傾げたルキアを見て一瞬だけ顔を引き攣らせたあたり、こちらは演技──とまでは言わないが、素ではないのだろう。
「既にご存知でしょうが、1-A担任のアルナ先生、1-Aのボード君、アルバート君、ラインさん、アルマンさん、ハークさんの6名が、野外訓練中に亡くなりました。葬儀に出席された方もいらっしゃるでしょうが、もう一度、この場で黙祷を捧げましょう」
重い内容に反して、生徒たちの反応は軽い。
特に仲の良かったのだろう幾人かは顔を悲嘆に歪めているが、大多数は「言われたからやる」くらいの温度感で目を閉じている。
名前も知らない相手に冥福を祈られるのも妙な気分だろうが、フィリップも周りに倣って目を閉じる。
数秒の後、誰からともなく目を開ける。
ヘレナが空気を切り替えるようにぱんぱんと手を叩き、また全員が注目した。
「いいニュースもあるわよ! アルナ先生の代役が決まるまで、前学期はこの私が担任になります! それだけではなく、編入生もお迎えすることになりました!」
ヘレナの言葉に反応して、生徒ほぼ全員がフィリップの方を向く。
注目を浴びることに慣れたわけではないが、この2日ずっとルキアと一緒にいたのだ。ある程度の免疫は付いた。
「カーター君、前に来て、自己紹介をして貰える?」
「はい」
教卓に向かって下りつつ、何を話せばいいのだろうかと軽く思索する。
別に何を言わなければならないという決まりは無いだろうが、フィリップの場合は「言ってはならない」事項が多すぎる。取り敢えず色々とぼかして──
「フィリップ・カーターです。少しトラブルがあって、編入することになりました。至らないところもあると思いますが、よろしくお願いします」
こんな感じか。
ぺこりと頭を下げて締めくくると、ルキアを含めた数人が律儀にぱちぱちと拍手してくれる。
残りの生徒は顔を突き合わせ、情報量の少ない自己紹介について議論を交わしていた。
「何か質問のある人ー?」
ヘレナが問いかけると、何人かの手が挙がる。
当てられた男子生徒が立ち上がり、えーっと、と脳内で言葉を纏める。
「ここに来られる前は、何をされていたんですか?」
妙に慇懃な言葉に首を傾げつつ「二等地で丁稚を」と答えると、教室内が困惑に包まれる。
何か可笑しなことを言っただろうかと考えを巡らせる間もなく、次の質問が来る。
「サークリス様のことを「恩人」と仰っていたそうですけど、何があったんですか?」
あ。
そんな呟きを漏らしてルキアの顔色を窺うが、彼女は不機嫌そうに質問した女子生徒を見ていた。
「──色々と」
端的に言い切り、言外に「詳しく話す気はない」と示す。
上手く伝わったようで、彼女は不服そうにしながらも何も言わずに着席した。
「次の人──」
まだ数人が手を挙げており、ヘレナが誰から当てるかと迷う様子を見せる。
あまり触れてほしくない質問ばかりが飛んできて、フィリップは早くも帰りたくなった。
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