第43話
意外かもしれないが、魔術師にとって最も重要なのは『体調管理』だ。
魔術師は魔術の行使に際して、記憶力、計算力、集中力などを高い水準で要求される。当然ながら、魔力もそうだ。
日頃の訓練によって鍛えられたそれらはしかし、万全な体調でないと100%のパフォーマンスを発揮できない。栄養不足、睡眠不足などは脳の働きを著しく低下させ、魔力の回復効率も落とす。
そう考えると、野外訓練は整った環境に慣れた彼ら学院生を劣悪な環境に置き、その重要性を理解させるいいカリキュラムなのかもしれない。
それはさておき、高度な技能を持つ魔術師を育成するための学院は、生徒の体調管理に非常に重きを置いている。
特に睡眠への力の入れようは素晴らしい。
基本、消灯は22時頃。20時以降のカフェイン摂取は制限され、消灯時間以後に騒いでいる者には罰則が課される。勿論、部屋で静かに起きている分には大丈夫だが、推奨はされない。
ベッドはふかふかで、沈み込むような穏やかな眠りを提供してくれる。
宿にいた時分は他の客の気配で起きてしまうこともあったが、厚い壁と全員が一斉に眠る環境のお陰で、フィリップも快適な眠りを得られた。昨日丸一日、習得することもできない魔術を延々と使い続け──ルキアの補助あってだが──魔力枯渇気味だったのだが、倦怠感は一片も無い。
それはいい。それは大変に素晴らしいのだが──
「ッ!?」
跳び起き、カーテンを払って窓の外を見る。
ちょうど朝日が地平線から顔を出し、白亜の王城と校舎を清涼に照らすところだった。
時刻にして五時半といったところか。全然余裕の目覚めだが、フィリップは深く安堵の息を零した。
寝坊などいつだってしたくはないが、今日だけは特に不味い。
なんせ、今日はフィリップの初登校日なのだから。
二度寝するには微妙な時間だが、ゆっくり確実に準備できると考えれば残念な気持ちも失せる。
顔を洗い、真新しい制服に袖を通し、クローゼットの鏡で全身を、洗面台の鏡で寝癖を確認する。
学院指定のクラッチ・バッグに教科書や筆記具が入っていることを確認し──さて、時間が余りまくっている。
本来は七時ごろに起きて朝食を摂り、そこからゆっくりと準備するようなルーティンなのだろうが、それに気付いたのは準備を全て終えてからだった。
制服のまま朝食を摂って服を汚すのも嫌だったので、普段着用の私服に着替える。
何やってるんだろう僕、と消沈しそうになるが、ハンガーに掛かった制服を見ればそんな気も晴れるというもの。
端的に言って、フィリップはとても興奮していた。
なんせ学校に通うなど生まれて初めてのことだ。それがたとえ王国法に基づく拘束措置だとしても、楽しいことに変わりはない。
教科書を眺めて時間を潰し、食堂が開く頃合いを見て部屋を出る。
早起きして勉強していたと言えば優等生然としているが、使えもしない魔術に思いを馳せて恍惚としていただけなので、そんな評価をされたら恐縮する。
少し早い時間ということもあり、食堂はかなり空いていた。
スムーズに朝食のトレイを受け取り、まばらな生徒たちの視線を無視して、教わった特等席へ座る。ルキアはまだ来ていないが、もしかして待つべきだったか。
失敗だ。
焼き立てのトーストも、とろりと溶けて染み込んでいくバターも、肉汁の輝くベーコンエッグも、気品ある香りを漂わせる暖かい紅茶も、フィリップの視覚と嗅覚に「早く早く」と訴えかけてくる。
記憶を辿り、ルキアの台詞を思い返す。
確か「朝はここで待ち合わせ」だったか。待ち合わせるだけなら先に食べててもいいよね! と思わなくもないが、流石に軽視が過ぎるだろう。
冷えていく朝食たちを諦めてしばらく待っていると、既に制服を着たルキアが顔を見せた。
「おはよう、フィリップ。早いわね」
「おはようございます、サークリス様」
ルキアは少しの間フィリップを観察するように注視して、やがて安堵したように微笑した。
「魔力はちゃんと回復しているわね。ちゃんと眠れたようで良かったわ」
「あはは……昨日はもう夕食時から倒れそうでしたからね……」
ほぼ一日中、ルキアの手を借りて魔術発動の感覚を身体に染みつかせていたのだ。当然ながら魔力消費も激しく、気付いたらルキアに膝枕されていた、なんてことも何度かあった。
失神してもなお練習を続行したのは、今日から始まる授業のためだ。魔術を実践する授業などもあり、その度に適当な魔術をでっち上げるのも疲れるし、気付かれるリスクも高くなる。
「私もご飯を取ってくるわ。ちょっと待ってて」
「あ、はい」
作法を損なわない程度の早足で厨房の方に向かったルキアを見送って、フィリップは軽くお腹を擦った。
しばらくして戻ってきたルキアが持っているトレイも、フィリップと同じモーニングセットだ。やっぱり朝はカリカリのベーコンとスクランブルエッグだよね、と勝手に共感しつつ、立ち上がってルキアの椅子を引く。
「ありがとう。ちょっとそのまま、動かないで」
「え? はい」
ふっと背筋が冷えるような奇妙な感覚を味わい、それもすぐに消える。
今のは何だったのだろうと背中を掻きつつ、「もういいわよ」というルキアの言葉を受けて席に戻る。
「待っててくれてありがとう。でも、明日からは先に食べてていいわよ?」
「あはは、今日はたまたま早起きだっただけなので。たぶん普段は僕の方が遅いですから、サークリス様こそ、僕を待つ必要は無いですよ?」
今日に関しては本当に、いっそ暇なほど早起きだった。
どれだけ浮かれているのかと自嘲しつつ、トーストにかぶりつく。舌を焼かない程度に熱いバターがもちもちしたパンから染み出し、フィリップは思わず天を仰いだ。
やはり、ここの飯は美味すぎる。
一等地に卸される食材は全て国内最高品質。シェフは王宮や貴族の屋敷に仕えるような腕利きばかり。
不味くなる方が不思議と言うものだが、ここまで美味くなるのも不思議だ。
「やっぱり美味しいですよね、ここのご飯」
「それなら良かったわ」
肉汁の弾けるベーコンに湯気を立てるスクランブルエッグを乗せ、一緒に食べる。
この瞬間が一日で一番幸福な時間なのではないかと錯覚するが、学院にいる限り、同じことを昼食時にも夕食時にも思う。
何も考えずに舌鼓を打っていたせいで気付くのが遅れたが、ふと思い至り、口の中のものを慌てて呑み込む。
「あ、ありがとうございます。サークリス様。これ、温めてくれたんですよね?」
「どういたしまして。……ふふっ」
可笑しそうに口元を隠したルキアに首を傾げると、彼女は自嘲混じりの微笑を浮かべた。
「魔術を限界まで秘匿したのだけど、温まった料理でバレるわよね」
「あははは……」
何気なく「魔術を秘匿した」と言っているが、あの森では出来なかったことだ。
彼女の魔術によって光を操作し、透明化してカルトの目を掻い潜るという脱出方法が取れなかったのは、あまりに強大な魔力が周囲に漏れていたからだ。その魔術の気配は、魔力に疎いフィリップですら一瞬で彼女の位置が分かるほどだった。
だが今は、彼女の魔術行使に気付けなかった。
ほんの数週間前にできなかったことが、今はかなり高度にできるようになっている。
才能の格差には最早乾いた笑いしか浮かばないが、その小さな弱点すら克服しようという意識には素直な尊敬が浮かぶ。
「凄いですね。僕もいつか、そんな魔術を使ってみたいです」
その言葉は本心だ。
フィリップに与えられた領域外魔術、火力の目盛りは「町」「国」「星」である。こういう器用な芸当には称賛と羨望を抱くのが正直なところだ。
ルキアは痛みを堪えるように一瞬だけ目を閉じ、すぐにフィリップへ笑いかけた。
「なら、物凄く頑張らないといけないわよ?」
気を遣わせてしまったかと自省するが、こういう時に罪悪感に任せて謝ると、かえって相手を傷付けることにもなりかねない。
喉まで上がってきた謝罪を呑み下し、口角を上げる。
「そうですね。今日から授業ですし、頑張ります」
「えぇ。分からないところがあったら、いつでも相談して頂戴」
激励に礼を言って、食事を再開する。
食べ終わる頃には話題はすっかり変わり、何故かルキアの実家の話になっていた。おかげで貴族社会に少し詳しくなったのだが、その知識が役立つことはあるのだろうか。
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