第41話

 翌朝。これまで使ったことも無いような高級ベッドは、フィリップに極上の睡眠を齎した。

 もともと寝つきはいい方で、寝起きもそこまで悪くない。だが横たわってからほんの数十秒で眠りに落ち、二度寝の誘惑を容易く振り払えるほどすっきりとした目覚めを迎えるというのは、ここ最近無かったことだ。


 それが貴族向けベッドの力なのか、或いは邪神という超のつく高ストレス源から離れたことによるものかは不明だ。たぶん、その両方だろう。


 魔術学院学生寮──最高だ。


 洗面所で顔を洗い、部屋を出る。そのまま寮を出て食堂へ向かい、適当に空いた席で食事を摂る。

 1000人規模の学生を擁するだけあって、生徒たちも全員の顔を覚えているわけでは無いのだろう。見知らぬ顔に興味を示すことはない。時折同年代にしては小さな身長や幼い顔立ちに「おや?」と怪訝そうにする者もいるが、すぐに「そういう奴もいるか」と興味を失う。


 ナイ神父が用意してくれたトランクには制服の他に、見苦しくない程度に仕立てのいい私服とパジャマが入っていたので、都合よく(有難く、ではない)使っている。おかげで生徒たちの中に紛れ込んでも、とりあえず即座に「なんだこいつ?」と遠巻きにされることは無い。大人しく食事を摂り、さっさと部屋に戻って予習でもしよう。


 生徒が友人たちと楽しそうに朝食を摂り、会話と食器の立てる音が喧騒を作る。

 平和だなぁ、と、柔らかいパンを頬張りつつ、なんだか涙腺が緩んでくるフィリップ。その隣に音を立てずにトレイが置かれ、椅子が引かれた。


 「おはよう。ここ、いいかしら?」

 「はい、どうぞ…… あ、おはようございます、サークリス様」

 「えぇ、おはよう。よく眠れたみたいね」


 穏やかな笑みを浮かべたルキアの手が伸びる。フィリップの頭を何度か撫でて、彼女は可笑しそうにくすくすと笑った。

 もしかして、とフィリップが撫でられた箇所に手を遣ると、掌にぴょこぴょこと当たる感触がある。一応洗面台で確認したのだが、一部の寝癖が直りきっていなかったらしい。


 照れ笑いを零しつつ、本当に平和だなと胸が詰まる思いだ。


 「今日、何か予定はある?」

 「いえ、特には。予習でもしようかなとは思ってましたけど」


 魔術の適性が無い者はどれだけ魔術を練習しようと、その適性が伸びることは無い。というより、練習のしようがない。


 剣でも弓でも、或いは跳躍や登攀でもいいが、何かしらの技能を練習するときに漫然とやっては意味がない。反復動作の中で自分が「これだ!」と思えるような会心の動作を経験し、コツを掴むのが重要だ。だが適性の無い者は何度魔術を行使しようと、成功することが無い。コツを掴む以前の問題だ。


 それを知るルキアは軽く思索する。

 ここで「それは無意味だ」と突き付けたところで、フィリップのやる気を削ぐ以外の結果は産まないだろう。それはあまりにも非建設的だ。


 「じゃあ、まずは魔術理論から勉強しましょうか。私が教えてあげるわ」


 実践ではなく理論分野であれば、やって身に付かないことはない。テストの役に立つくらいの生産性もある。 


 フィリップにとっては未知の分野、未知の学問だ。

 表情を強張らせ、硬く頷く。


 その顔のまま食事を再開したフィリップを可笑しそうに見つめて、ルキアも朝食を摂ることにした。




 ◇




 二人が食事を終えて立ち去った後、食堂は騒然としていた。


 無理もない。

 あのルキア・フォン・サークリスが他人と食事を摂るというだけで極めて珍しいのに、穏やかな微笑を向けるところなど見たことが無い。しかも異性。


 普段から誰かと連れ添うことの少ないルキアが誰かを側に置くというのは、その場所を熱望しているファンや、逆にその場所に誰かが居ることでルキアの完全性が損なわれると考えるファンにとって、とても許容できることではない。と言ってもまさか聖人であり最高位貴族でもあるルキアに正面から「誰よそいつ!」などと喧嘩を売れるわけも無く。


 「おい、さっきのチビって一年か? 誰か、同じクラスの奴ー?」


 食堂に居た生徒たちが互いに顔を見合うが、手を挙げる者はいない。

 いやいやそれは可笑しいだろうと、初めに声を上げた生徒が重ねて問いかける。


 「A組の人ー?」


 一番可能性が高いのは、やはりルキアと同じAクラスか。

 意図の明確な質問に数人が挙手するが、その答えは全員が一致し、そして食堂にいた者の期待を裏切るものだった。


 「はーい。でも、知り合いじゃないぞ?」

 「え? そんなことある?」

 「Aクラスじゃないのは確か。てかいくらチビとはいえちっさ過ぎたよな? 10歳ぐらいじゃなかった?」


 フィリップの近くに居た数人が「そういえば」「確かに」と頷き合う。

 誰かが「弟とかじゃない?」と呟き、幾人かがそれに納得したように手を打つ。しかし、また別の生徒がそれを否定する。


 「いえ、サークリス公爵家にルキア様より年下のご子息はいらっしゃらないはずよ」

 「そういえば、確かに。……え? じゃあホントに誰?」


 学年・性別どころか知人かどうかという枠すら超えて、食堂に居た生徒全員が顔を突き合わせて同じ問題に挑む。学校としては素晴らしいと拍手し、データを取るべき状態なのだろう。

 だが、その問題がいち生徒のゴシップというのは些か問題だった。


 「ちょっと、誰かサークリス様に聞いてきてよ」

 「いや、それは流石に……」


 別にルキアが誰と一緒にいようと、彼らがそれに口を挟む権利は無い。それは交友関係に限った話ではなく、あらゆる公権力と隔絶した立場である聖人で、最高位貴族で、最強の魔術師であるルキアのやることに文句を付けられる者が一体何人いるのか。


 「ま、まぁ待て。ここで朝食を摂ったということは、寮暮らし──少なくとも昨日泊まったのは確かだ」

 「泊まった……!?」

 「アホ、流石に女子寮なワケないだろ」


 ほっとした空気が流れるとともに、寮というワードが幾人かの生徒の記憶を励起した。


 「あ、そういえば……」


 もったいぶって空けた間に、狙い通り食堂の全員が注目する。

 演出に気を遣っただけあって、彼の持っていた情報はかなり核心的なものだった。


 「昨日、サークリス様が一等馬車でどっか行ったじゃん? 帰ってきたところを見たんだけど、誰かをエスコートしてたぞ」

 「エスコート!?」


 公爵家の次女ともなれば、普通はエスコートを受ける側だろう。彼女より位の高い女性に同行するときは例外だが、その例外も一人しか心当たりが無い。

 その「例外」はいま公務で国外に居るはずだし、少年とは無関係だろう。だが、そのレベルとなると──


 「ジェヘナ、いや教皇庁の関係者じゃないか? 枢機卿のご子息とか……?」

 「いやー……あのサークリス様だぞ? その程度の相手をエスコートするか?」


 傍若無人を地で行く第一王女ほどではないが、ルキアもその力ゆえ他人や権威を省みない傾向にある。唯一神への信仰心はともかく、宗教としての一神教には一片の敬意も無いだろう。


 「確かに……。じゃあ誰なんだよ!?」

 「わ、わからん……。今度会ったら聞いてみるか。……男子の方に」


 ルキアにではないと明言した生徒に「まぁ、うん」という諦めと理解の視線が向けられる。この場の誰もルキアに物申す度胸は無かった。




 ◇




 魔術は道具だ。


 目的達成のため最適な魔術を行使するのが魔術師のあるべき姿であり、魔術の行使そのものを目的としてはならない。


 ──と、魔術理論の教科書は序文でそう述べているが、フィリップにとっては取り敢えず魔術を使うのが目標だった。


 対価を支払えば誰にでも習得・詠唱可能な領域外魔術とは違い、現代魔術はその資質の大部分を先天的な才能に依存する。生まれ持った魔術適性がゼロの者は100の努力を積み重ねたとしても、ただ100の時間を浪費するだけに終わる。だが100の才能を与えられた者は、一片の努力も無しに100の結果を出せる。


 学院長は魔術を行使する瞬間を見れば適性を判別できると言うが、フィリップに関してはもっと客観的な証拠がある。

 衛士団が使う魔力拘束の腕輪だ。通常レベルのそれは、ルキアやヘレナが付ければ一瞬で崩壊する程度のもの。一般的な魔術師でも1週間から10日ほどで壊れるはずだ。それが2週間そこら耐えたということは、魔術適性、特に魔力量は著しく低い。


 フィリップが向こう100年、いや1000年の間血を吐くような努力をしたところで、ルキアやヘレナの域に至ることは無いだろう。いや、一般的な魔術師レベルになれるかも怪しい。

 

 だがそういった天賦の才を持たない者が魔術に携わることが無いのかと言われれば、それはNOだ。

 魔術師と科学者の中間に位置する錬金術師、召喚物の補助を受ける召喚術師、医学をベースに一つの道具として魔術を使う治療術師など、魔術戦に特化したいわゆる「魔術師」以外にも、広義の意味での魔術師は多い。


 フィリップは幸い召喚術師に適性があるようだし、難易度の高い攻撃魔術や防御魔術といった直接戦闘系の魔術に傾倒する必要は無さそうだ。


 それにマザーの薫陶を受け、ナイ神父に教導されたというフィリップは、意外にも魔術理論についての知識がある。現役の学院生ほどではないが、在学期間で最も簡単と言われる一学年前学期の中間試験程度であればパスできる知識量があり、理解の深さもかなりのものだ。


 「これなら、有用な魔術式を幾つか暗記して、変数を代入した時の演算速度を磨いた方が良さそうね」


 楽しそうなルキアとは対照的に、フィリップの表情は真剣そのものだった。

 なんせ、最強の魔術師から直々に魔術を教わるのだ。気合も入る。それもワンミスで世界が滅びるかもしれない領域外魔術とは違う、健全な気合の入り方だ。


 「よろしくお願いします」

 「えぇ、よろしくね。早速だけど、教科書を出して?」


 学院長も編纂に関わったという魔術理論の教科書。指三本ほどの太さがある大判の本には、魔術理論の基本事項が全て詰まっていると言われている。

 フィリップも荷物の中にこれを見つけた時にさらっと読んでみたが、流石に難解だった。一人で取り組もうとすればすぐに限界が来るだろうと推察できたが、先生がいるとなれば話は別だ。


 「まず始めに──」



 詳細は省くが、ルキアは意外と厳しい先生だった。



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