第38話

 ルキアの言に「そうですよね!」と、全面的に同意することは出来ない。

 いや、フィリップ個人としては共感するところなのだが、問題は何故ルキアがその思考に至ったのかだ。まさかフィリップのように大いなる智慧を授けられたわけではないだろうが、啓蒙を──「気付き」とでもいうべき、真理へと至る道標を得たのかもしれない。


 「えーっと……その、サークリス様は、信仰をお捨てになられたのですか?」


 万が一にも声が漏れないように、最大限抑えて問い掛ける。


 この大陸で一神教を信仰しないということは、つまり、あらゆる人権が認められないことに等しい。

 破門宣告を受けた者はたとえ国王であっても生死問わずの重罪人扱いだし、カルトに属すると判明した者はその場で切り捨てても罪に問われないどころか、褒章が出ることもある。

 逆に唯一神に認められた聖人たちや、神に仕える神官たちは大きな権力を持つ。


 信仰が力になる唯一神が定めたシステムなのか、ただ単に人間の利権が絡んだ結果なのかは定かではないが、とにかく、そういうシステムになっている。


 中でもルキアは二つの聖痕を持つ稀有な人間であり、公爵家次女という高い地位にもある。

 棄教したなどと、万が一にも知られるわけには行かないだろう。


 「いいえ? ただ、正しき神を知っただけよ」


 ルキアの穏やかな微笑とは裏腹に、フィリップの背中には冷や汗が滝のように流れる。

 もう嫌な予感どころの話じゃないワードだが、一応聞いておこうか。


 「その神とは?」

 「勿論、シュブ=ニグラス様よ」


 ぐっと呑み込んだ溜息の理由は、フィリップ自身にすら判断が付かない。


 フィリップたちがヴィーラムの町を発つまでの数日、やけに熱心にマザーに絡んでいたルキアを知っている。何より、彼女はあの森でマザーに「貴女が神か」と問いかけた。極めつけはマザーを意識したと思しき黒ゴス。

 だから勝手に、彼女はマザーを神と崇めているのだと思っていたのだが。


 「マザーではなく?」

 「神官様のことよね? 信仰とは違うけれど、同じ神を崇める同道者であり先達として尊敬しているわ」


 マザーの正体や、その悍ましき本性については気付いていないのか。


 ならば、ルキアの逸脱は軽微なものだ。少なくとも、この世界が「何」かまでは知らない。フィリップのように絶望と諦観に彩られた余生を過ごすことは無いだろう。


 同道者の不在は悲しむことではなく、むしろ祝福すべきことだ。


 こんなクソみたいな世界を誰かに見せる必要などない。モニカもアイリーンもオーガストも、ジェイコブやその他のあらゆる善良な人々が、何も知らず、自分が無知であることにすら気付かず死ねればいいと願う。


 だが──素晴らしい。何とも素晴らしい!


 森で唱えた賛美の一節を紐解き、解釈し、その悍ましき名を神の名と理解して、その存在が唯一神を遥かに超えるものと理解して、己の無知を理解した。

 蒙は啓かれた。啓蒙は果たされたのだ。


 その開眼を祝福しよう。ようこそ、智慧ある者よ。


 まだ誤謬も多く、その歩みはフィリップから見ても小さな一歩だ。外神から見れば蝸牛の歩み、赤子の智慧にも等しい。

 だが確実な一歩だ。只人とは一線を画する確かな一歩、常道の外、人道の外への記念すべき第一歩目だ。


 「──ふぅ」


 内心の興奮を抑えるため、数回の深呼吸を繰り返す。


 「サークリス様、他人の前でその名前を口にしないでくださいね」


 かつてマザーにされた注意をしておく。その名前が精神を汚染するからと、フィリップは確かにそう言われていたし、知ってもいた。

 

 そして今、その名を耳にした者の辿る結末を知った。

 深い実感の籠った言葉だからか、ルキアは素直に頷いた。


 「えぇ、分かったわ。──見えてきたわよ」


 ルキアの示した窓の先、魔術学院の校舎が見える。


 「おぉ……」


 区画一つが高い塀によって仕切られ、広大な敷地には白亜の校舎だけでなく、闘技場のような体育館や、砦のように頑強な魔術実験棟が聳える。

 一等地で最も高い宿よりなお大きな学生寮や、千人近い生徒を収容する校舎の窓には錬金術製と思しき薄く精緻なガラスも嵌っており、王城にも並ぶ絢爛さだ。


 思わず感嘆の声を上げたフィリップに暖かい視線を向けて、ルキアはくすりと微笑んだ。

 

 「珍しい?」

 「えぇ、それはもう」


 一般市民のフィリップが、この手の絢爛な建物を目にすることは無かった。王都の中心部に聳える王城も三等地からでは掌に乗るような大きさだし、一等地の貴族の別邸などは見たこともない。唯一これまでに見たことのある宮殿といえば、地下祭祀場で交信魔術が繋いだ、あの悍ましき──あれはノーカウントでいいだろう。


 スピードを落とした馬車の窓から敷地を眺めていると、一つの建物の前で停止する。

 先んじてルキアが降り、エスコートするように片手を差し出した。


 「ここが寮よ。まずは荷物を置きましょう」


 手を借りてタラップを降り、手を繋いだまま寮の中へと案内される。寮の内装も見事なもので、調度品の類も少なくない。これは掃除や維持が大変そうだと苦笑いを浮かべるが、すぐにその必要が無いことに気付いて顔を綻ばせる。


 掃除は担当の清掃員が、維持は専門技能を持つ業者が行う。フィリップがここで何かをする必要は無く、ただ寝て、食事をして、漫然と過ごせばいい。ふらりと邪神がやってくることのない場所ということもあって最高だ。


 「お帰りなさい、サークリスさん。……そちらの子は?」


 廊下の奥から現れた女性に声をかけられ、ルキアの顔に浮かんでいた柔らかな微笑が消える。

 

 「今日から入寮するフィリップ・カーター君よ。部屋の鍵を頂けるかしら?」


 まるで出会った頃のように冷たい空気を纏うルキアに驚くが、台詞の内容は知人に向けたものだ。寮監か何かだと察せられるが、喧嘩でもしているのだろうか。


 「あぁ、この子が。寮長のアグネスよ。よろしく」

 「よろしくお願いします」


 握手を交わし、鍵を受け取る。

 特に変わったところのない金属製の鍵にはネームプレートが付いており、[502 カーター]と彫られている。502号室ということは、五階? フィリップの実家もタベールナも二階建てで、それより高い建物に入ったことはない。気分も上がると言うものだ。


 「男子寮に入るのは初めてだから、少しワクワクするわ」


 フィリップの興奮に同調するようにそう言って、ルキアはフィリップを先導して歩き出した。手を握ったまま歩く様子に迷いは無く、女子寮も同じような造りなのだと分かる。

 少し長い階段を昇り、三つの階を素通りする。どうやら本当に五階らしい。


 「ここね。さぁ、どうぞ」


 鍵を持って目を輝かせていたフィリップにドアの前を譲り、にこにこと微笑ましそうに笑う。

 そんなルキアには気付かず、鍵を開けて扉をくぐる。


 まず目に入ってくるのは、校庭──運動場という意味ではなく、芝が敷かれ、木々が植わり、テラスが設置された庭だ──が一望できる、大きな窓。朝日も夕日も、白亜の校舎を照らすその暖かな光を存分に取り入れることが出来る。少し校舎が被ってはいるが、荘厳な王城も見える。


 次に目に付くのは、大きなベッドだ。

 フィリップが3人寝転がってもなお余る、キングサイズだ。今まで使っていたものの倍くらいの幅がある。スプリングの反発は少し強めだが、すぐに慣れるだろう。とりあえず寝る前に飛び跳ねてみよう。


 「床も壁も厚いけれど、飛び跳ねちゃ駄目よ? 危ないから」

 「……しませんよそんなこと」


 輝かせていた目を逸らし──その先にあったドアを開ける。

 木製の籠と足元に敷かれたマット、そしてもう一つのドアから推察するに、ここは脱衣所、奥は風呂か。


 「お風呂まであるんですね」

 「えぇ。いいお部屋でしょう?」


 いい部屋だ。というか、いい部屋過ぎる。

 宿で働いていただけあって、部屋の規模や間取りなどから等級を推測することはできる。尤も王都の中でも一等地はとりわけ高級なので、単なるエコノミー・シングルグレードの部屋が田舎のスーペリア・クイーングレードに匹敵するなんてこともあるかもしれない。


 だが、このレベルの部屋は二等地でも見ないほど。グレードで言えばデラックスかラグジュアリーのキング。


 いち学生、しかも平民が泊まれるような部屋ではない。というより完全に貴族向けの部屋だ。


 「……ん?」


 寮の外観を思い出し、部屋のサイズと比較する。

 このレベルの部屋が並んでいるとしたら、どう考えても1000人規模──男子寮なのでまあ約半数の500人がいるとして、500部屋も入らない。


 「二人部屋ですか?」

 「一人部屋よ?」

 

 生徒は原則、寮に入らなければならない。一等地の中でも別荘街と呼ばれる貴族の邸宅が集まる区画からは遠い場所だし、毎朝馬車を出すのも手間だろう。平民は家が近いと言っても二等地だ。馬車など持っていないだろうし、持っていたとしてもかなりの時間がかかる。となるとやはり、大半の生徒は寮に入るはずだが。


 「いえ、正確には五階は一人部屋と言うべきね。四階は二人部屋、それより下は……どうだったかしら?」

 「あぁ……なるほど」


 大方、貴族用のいい部屋なのだろう。ルキアの口ぶりからすると彼女も五階の住人なので、公爵家の令嬢が泊まるようなグレードだ。

 ではどうしてフィリップがそんなところに泊まれるのか。実は大貴族の隠し子で……なんて裏事情に心当たりはない。母方のご先祖様はヴィーラムの町で宿屋を営んできた由緒のはっきりした家系だし、父方のご先祖様も、ずっとヴィーラムの町で狩人をしていたはず。


 となるとやはり、フィリップがここに来ることになった原因が絡んでいるのだろう。


 「大切な生徒を爆弾と一緒には出来ません、ってことですかね」


 右腕の腕輪を一瞥する。

 特に行動の制限もされていないので忘れがちだが、フィリップがここに来たのは継続的な拘束の代替措置だ。


 召喚物を制御できない召喚術師は爆弾と同じ。しかもフィリップのそれは物理的な影響だけでなく、精神的なダメージすら負わせる特級の爆弾だ。想定通りにクトゥグアが来るにしろ、ヤマンソが横入りしてくるにしろ。だからここで魔術を学び、制御できる爆弾になってこいと、そういうことだ。


 まぁ、現代魔術を学んだところで、彼らを制御できるようになるという保証は無いのだが。


 フィリップの自嘲を受け、ルキアは即座に首を振った。


 「いえ、それは違うわ。だってもしそうなら、私に案内を任せないでしょう?」


 ルキアは最高位貴族であり、神の認めた聖人だ。学院側がフィリップを危険視しているのなら、そんな超の付く重要人物を近付けたくは無いだろう。

 だがその理屈には穴がある。ルキアは最高位貴族で、聖人だが、人類最強の魔術師でもある。爆弾の処理を任せるなら、彼女以上に確実な人材はいないと言える。


 「うーん……どうでしょうね?」

 「不安なら、それも含めて学長に聞きましょう。学校を案内して、最後に会うことになっているから」


 安心させるような微笑に敵意や警戒は見られない。学院側の意向はともかくとして、少なくともルキアに隔意は無さそうだ。


 「……いえ、大丈夫です」


 誰に隔意を持たれようが、誰に警戒されようが、どうでもいいことだ。

 どうせ遍く全てが無価値なのだから。


 今後も王国で生活していくため、フィリップから爆弾というラベルが剥がれ、魔術学院卒業生という綺麗なものに貼り替えられればそれでいい。


 「そう? 不安なことがあったら、何でも相談して」

 「ありがとうございます。えっと、次は?」


 ルキアはさっと思索して、学院長室までの最適なルートを構築する。

 寮から学院長室までを結び、なるべく色々な場所を効率よく経由するとして、まず始めは。


 「図書館に行きましょうか」


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