第30話

 ルキア・フォン・サークリスが聖痕を発現させたのは、彼女がまだ5歳の頃だった。

 朝起きて、侍女が持ってきた洗面具で顔を洗い、別の侍女が捧げ持った鏡を見て──左目の奥に刻まれた、聖なる証を見た。


 元来、サークリス公爵家は光属性に高い適性を持つ者を輩出する血統だった。先々代当主も光属性の聖痕者だったというし、ルキアが選ばれたこと自体は、望外のことという訳でもない。しかし、彼女があまりに若く、また次期当主の座からは遠い次女だったのは問題だった。


 その血統を採り入れようとする者は、なにも政略結婚を申し入れてくる王国や他国の王侯貴族だけではない。


 拉致し、解体し、分析し、その血統を解明すればいいと考える者がいた。

 あるいは拉致し、強姦し、子供を産ませてしまえばいいと考える者もいた。


 この10年間、ルキアはそんな悪意に晒され続け──その全てを、神より最強と認められた力でねじ伏せて来た。


 今では敵対者を塩の柱に変える粛清の魔女『明けの明星』なんて呼ばれ方をしている。


 ルキアは強い。間違いなく、人類で十指に入るほどに。

 そして、その強さは魔術的なものだけでは無かった。


 彼女は生まれついての貴種だ。

 傲慢であれ。気品を忘れず、優雅であれ。半端に群れるのであれば、孤高であれ。公爵令嬢として相応しく在れと、周囲も自分も求め、応えて来た。

 ゴシック、と。そう呼ばれる、この世で最も美しい生き様を体現していた。


 魔術学院への入学も、最も適性の高い者たちが在籍するAクラスに割り振られることも、彼女にとっては予定調和だった。

 一つ問題だったのは、彼女と肩を並べるクラスメイトたちが、思った以上の俗物揃いだったことか。


 同調と擦り寄り。サークリス公爵家の名と聖痕者『明けの明星』の名、どちらか片方でも大きいものが二つも並んでいるので仕方ないとは思うが、しょうもないとも思う。


 一学期中盤、学院側が企画した野外訓練は、そんな俗物と一週間も行動を共にしなければならない、面倒極まりないものだった。せめてルキアの糧になることがあればいいのだが、彼女が苦戦するような敵はすなわち、人類が総力を結集しなければならない敵だということ。田舎町の森にそんな怪物が居るはずもない。


 だから、足首を痛めたのは想定外で、ある意味望んでいた試練でもあった。些か以上にしょうもない教訓だが、今度から森に来るときはブーツは止めよう。


 背後から声を掛けられたのは、そう自嘲している時だった。


 「マザー?」と。愕然と、自分ではない誰かに向けられた畏怖と驚愕が届く。

 振り返ると、10歳くらいの少年が目を瞠っていた。


 ルキアは自分の美しさを自覚しているし、美しく在ろうとしている。容姿だけでなく、その在り方も含めてだ。

 だから憧れの視線を向けられるのには慣れていたし、不躾な視線を投げられるのも、不快だが慣れてはいる。そんなルキアに、少年は安堵の息を吐いたのだ。


 少し癪だったが、それ以上に怪しかった。

 田舎の森だが、害獣や魔物も出る。子供が一人でフラフラしていい領域ではないし、そんなところにいる子供は、少なくとも単なる平民の子供ではないだろう。


 擬態型の魔物だとまでは思わないが、無条件に味方だと信じるのは愚かな行為だ。

 こんにちは、と挨拶などされても、何の判断材料にもならないのだが。


 一歩、少年が踏み出す。

 ルキアのキルレンジは視界。そういう意味では近寄ろうが遠ざかろうが関係ないが、牽制の意味を兼ねて立ち上がり──右足に走った痛みに顔を顰める。


 弱みを見せたのは失態だが、それはルキアの性格的に、優雅ではないし美しくも無いから許せないというだけだ。別に立てなかろうが走れなかろうが、子供一人を塩の柱に変えることなど造作もない。


 心配の言葉と共に、少年が怪しげな小瓶を差し出す。

 軟膏だと言ってはいるが、それを即座に信用できない程度には、内容物は毒々しい緑色だった。


 それ以上近付くなと魔術を──流石に悪意が無いことくらいは分かるので、待機させているのは殺傷性の低い閃光魔術だ──照準する。


 攻撃の意志と、世界最強の魔術師が放つ魔力はかなりのプレッシャーのはずだが、少年は気付きもせず、何故か森や空をきょろきょろと見回して──警戒している。

 なんだこいつ。ルキアの内心を端的に表すのなら、そんな感じだった。敵意よりマシだが信用には至らない、呆れが多分に含まれた関心。


 それは少年が見るからに不味そうな軟膏を舐め、案の定顔を激しく顰めたことで強固になった。



 軟膏は受け取ることにしたが、生憎と、応急処置の心得など無い。

 怪我をしたことが無いとまでは言わないが、両手の指で数えられるはずだ。その全部が屋敷の中か、庭でのこと。すぐに侍女や主治医が駆け付け、処置してくれた。捻挫など、たぶん生まれて初めてだった。


 包帯の巻き方すら分からず呆然としていると、例の少年が代わりにやってくれた。

 足を触られるのに多少の抵抗はあるが、ルキアに対して何の感情も抱いていないような少年相手だ。頑なに拒否するのはルキアだけが意識しているようで癪だった。かといって、わざとスカートを翻したりとか、はしたない挑発はしないが。


 処置が終わり、思った以上の手際に感心する。

 礼を言って──さて。怪しげな少年は怪しげな小瓶を差し出す少年を経て、年齢以上の治療技術を持つ謎の少年になったわけだが。殺したら不味いだろうか。


 衛士団と騎士団総出で追い回されても撃退できる、盤面を返せる強者に特有の──敵を殺し慣れた者に特有の思考が鎌首をもたげる。

 数秒の迷いを経て、それはゴシックではない──美しくないという結論を下す。


 ルキアの視線をどう勘違いしたのか、少年は唐突に自己紹介を始めた。礼儀として名乗りを返すと、少年は驚いたように姿勢を正す。

 まぁ、そうだろう。容姿はそこまで広まっていないが、『明けの明星』ルキア・フォン・サークリスの名は大陸全土に轟いている。左目を注視すれば、世界最強の証が輝いていることだろう。


 そんな予想はしかし、フィリップの一礼によって覆される。


 「貴族様でしたか。そうとは知らず、ご無礼をお許しください」


 整った礼儀だ。流石に社交界レベルとまでは行かないが、王都の店でも十分に通用する域だろう。だからこそ、その知識の浅さが噛み合わない。

 先代の死去以来、唯一神が後継を認めていない闇属性以外の聖痕者5名の名前は、少し本を読めば出てくるはずだ。魔力制限の腕輪は見習い魔術師の証だし、全くの素人ということもあるまい。


 モグリか? 立ち消えたはずの不信感が再燃する。

 

 跳んでくる質問に適当に返しつつ、観察する。


 武器らしい武器といえば、リュックに結われたマチェットくらいのもの。刃物の射程は投擲しても魔術に大きく劣る。脅威にはならない。

 低級の魔力制限器が壊れていないあたり、魔術の腕も察しが付く。召喚術師の場合は召喚物によって脅威度が大きく変わるが、Aクラス召喚物である天使や悪魔もルキアの敵ではない。前者は唯一神に愛されるルキアに攻撃することは無く、後者は唯一神に敵対するものだ。腕の一振りで塩の柱に変えてしまえる。

 

 その結論に達した時点で、ルキアの心中からフィリップへの興味は完全に消えていた。



 ◇



 怖い、と。そう感じたのはいつぶりだっただろう。


 腕の一振りで敵対者に雷を降らせ、指の一弾きで悪しき者を塩の柱に変える粛清の魔女。そう呼ばれる頃には、ルキアに天敵などいなかった。王国最強の魔術師である第二王女、ルキアと同じ聖痕者である彼女ですら、ルキアが──最も神に近い魔術を扱うルキアが本気を出せば、拮抗すれど最後には勝てる。そう信じていたし、それが事実だった。


 字面通りの意味で、ルキア・フォン・サークリスという魔術師は無敵のはずだった。


 悍ましい、うめき声にも似た哄笑が耳に障る。

 精神の根幹を揺さぶるような気配が気に障る。

 少年が体で隠してくれたその姿を見れば、きっと気が触れる。


 駄目だ、と。本能的にそう思ったのは、生まれて初めてのことだ。殺そうとして殺せない相手など、今まで一人もいなかったというのに。


 クラスメイトが死んでいく。俗物がどうなろうと知ったことでは無いと思っていたが、目の前で狂死されると流石に慄いてしまう。


 乱雑に手を引かれ、ただ逃げるために走るのは屈辱でしかなかった。

 優雅でも無ければ美しくも無い。強く在れと定めた生き方に、何も沿えていない。


 命と精神の危機に瀕してすら生き様に固執できるのは、彼女の強さの証明だろう。だがそれを自覚し、誇れるほど、彼女は大人では無かった。


 何とか逃げ延びて、木のうろに縮こまる。

 火を焚くこともできず、服を土で汚し、息を荒げ、恐怖に震えて。何という無様か。


 自分一人なら、自嘲の笑いでも零すところだ。

 だが、ここには平民が──貴種として守るべき者がいる。これ以上の無様は晒せない。


 自分を鼓舞する意味も込めて、使命を再確認する。


 「平民を守るのは貴族の務め。私が貴方を守るから」


 少年が困惑も露わに見つめ返してくる。

 恐怖はある。気負いも、責任感も、僅かながら絶望だってある。だが、ルキア・フォン・サークリスは最強だ。


 「さっきは無様を見せたけど、これでも聖痕者なのよ?」


 並ぶ者無き強者、聖痕者として、この無垢な少年くらいは助けなければ。


 自身が世界最強であることの告白。流石に少年の態度も変わるかもしれないと、微かな危惧を抱いて。



 「それは凄い」と、明確な冷笑を突き付けられた。



 意味が分からなかった。

 視線は合っていたし、左目に輝く聖痕が見えなかった訳ではないだろう。聖痕者を知らないという風情でも無かった。誤魔化そうとしているあたり、間違いない。少年は確実に「聖痕者が何たるか」を知っていながら、それを冷笑した。聖痕者に向ける冷笑はつまり、唯一神に向ける冷笑だ。


 不愉快だと、そう少年を切り捨てることは簡単なことのように思える。事実、何の魔術的素養もないフィリップは、ルキアにしてみれば赤子のようなものだ。


 ならば、その冷笑の原因は、やはり先程の無様に起因するものか。あの黒山羊の首領、あれに相対したときに見せた無様ゆえ、侮られている?

 そう思ったが、少年の目にあるのは侮りというより、正確な現状認識に基づく諦めに見える。


 となると。


 「さっきの魔物……あれは何? いえ、そもそもあれは魔物なの?」


 あれが本当にルキアでは太刀打ちできない、正真正銘の怪物だという可能性。

 尋ねてみるが、少年は知らないと言う。それが嘘であると、悪意に慣れ真実と虚偽を見分ける眼を得たルキアにはすぐに分かった。


 眉根を寄せ、嘘に気付いたことをアピールする。


 少年はその露骨な仕草には気付いたようだが、本心を語ることはしなかった。

 何故か。力の片鱗は見せ、最強であることも明かした。それでもなおルキアよりも怪物の強さを信じるだけの、明確な根拠があるということか。


 だが、少年の目に絶望は無い。


 挙句世界最強に向かって「貴女を守る」などと宣言する始末。何者で、どういうつもりなのか。

 消えた筈の興味が再燃する。もはや、不信感などは消え失せていた。

 


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