第29話

 淡々と、戦意の一片も感じられない詠唱が齎したのは、天から突き刺さる一条の光だった。


 フィリップたちを取り囲む黒山羊の群れに合わせて円を描き、雷のように轟音を伴わず、木々を焼くこともない。

 何の破壊力も無い、ただ眩しいだけの光だ。だが無力かと言えば、決してそんなことは無い。


 光・聖属性のほぼ最高位魔術『粛清の光』は、実のところ攻撃魔術ではない。どちらかといえば通信魔術に近いそれは、唯一神に仇為す邪悪なるもの全てへの神罰を齎す。


 木々を、神聖なるドライアドたちの護る森を傷付けることなく、唯一神へ祈らない黒山羊たちを塩の柱に変える。一切の回避・防御を無効化し、唯一神より格の劣る全ての魔性を罰する裁定の光だ。


 「わぁ……流石はサークリス様! あれだけの魔物を一撃で!」


 生徒たちが口々に褒め称えるが、ルキアは無関心に座っているだけだ。

 その傲慢なまでの無関心に、フィリップは勝手ながら理解を示す。


 あれだけの力があるのなら、世界はさぞかし脆く、つまらないだろう。世界が脆いと知ってしまったら、後に残るのは絶望や諦観だけだ。


 しこたま塩を積み上げたわけだが、森の木々は大丈夫なのだろうか。

 そんなどうでもいいことを考えているから、フィリップは背筋を刺す気配が消えていないことに気付けない。


 「あ、まだ一匹いますよ!」

 「あれくらいは私が!」

 「いや、俺が!」


 ひときわ体格のよい黒山羊が、あの魔術をも無効化して生き残っていた。

 生徒たちが最早死に体と勘違いして魔術を撃ち込み──ぱぁん! と、水袋の破裂するような音が森に木霊する。


 「……へ?」


 隣にいた女生徒だったものを頭から被り、どろどろに濡れた男子生徒が呆けた声を上げる。


 「ア゛ア゛」と。無理に文字化するのならそんな感じの、喉を絞るような唸りが聞こえる。それが黒山羊の鳴き声だと、フィリップだけが理解していた。


 最悪だと、フィリップは舌打ちを漏らす。

 黒山羊の群れは確かに低俗な三世代程薄まった神話生物だった。だが、その大本──本物のシュブ=ニグラスの落とし子は、まだこの森にいて、この群れに混じっていたのだ。


 「ア゛ア゛ア゛」と、黒山羊が鳴く。いや、鳴き声ではなく──嗤い声か。

 眼前の矮小なる人間を、愛しき母の匂いを付けた人間を見て、哄笑している。


 「ひ」


 血に濡れた少年が悲鳴を上げようとして、その前に失神して倒れた。

 彼と、先に死んだ少女はとても幸せだ。その山羊の、最も悍ましい姿を見ることなく、神を冒涜する邪悪なるものを目にすることなく死ねるのだから。


 ぱかり、と、山羊の首元が開く。拳ほどもある乱杭歯が並び、粘度の高い涎を垂らす大口だ。

 ぎょろり、と、頭蓋だけでなく体全体に無数の目が現れる。その全てが揃いなく動き、この場の全員を睥睨していた。

 体中から生えた太い触手が地面を叩き、木々を揺らす。


 「見ちゃだめだ!」


 フィリップが叫び、最も近くにいたルキアの正面に出て視界を遮る。

 それがギリギリ間に合っていたことは、背後から聞こえる「ちょっと!?」という怒りの声が証明してくれた。


 間に合っていなかったらどうなるかは、それを直視してしまった他の生徒たちが端的に示していた。


 「う、うわぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 「いやぁぁぁッ!?」


 一人死亡、一人失神、一人をフィリップが庇ったので、残りは三人。うち二人が金切り声を上げながらバラバラに逃げ出す。残る一人は──


 「もぐ。もぐもぐ……」


 土を食っていた。


 「もぐ……ん? もぐもぐ」


 土を掌一杯に掬い、口へ運び、咀嚼する。硬い石などは口から取り出して捨て、柔らかな土を嚥下する。


 「何を……何が起こっているの……?」


 角度やフィリップの体格的に、ルキアから黒山羊を隠すのが限界のようだ。黒山羊は見えずとも、狂気に陥った班員や逃げ出した友人のことは把握しているだろう。

 追って走られても困るが、幸いにも、ルキアは片足を痛めている。一人での移動すら困難だろう。


 「もぐもぐ……ァ」

 「ひッ……」


 どす、と、蹲って土を食べていた少年が触手の下敷きになる。

 それは見えたのか、ルキアが悲鳴を呑み込んだのが分かった。


 呻くような哄笑と無数の視線がフィリップに向く。


 ヨグ=ソトースは動かない。

 落とし子程度の存在を脅威として認識できないのか、或いは別の理由があるのか。だが少なくとも、テストは続行ということだろう。


 「ごめん、我慢して!」

 「痛っ!? ちょっと!」


 足を痛めている側の肩を担ぎ、ルキアを強引に歩かせる、体格的にも体力的にも、抱いたり背負ったりするのは不可能だった。

 背を向けて逃げ出す二人を追うこともせず、背後では黒山羊の食事が始まっていた。




 ◇




 最悪だった。

 フィリップは自分を──大いなる智慧を与えられ、狂気を奪われ、自分が変わっていくのを正気のまま受け入れなければならない現状を、決して幸せだとは思っていない。

 そんな状態に道連れなど必要ないし、フィリップ以外のあらゆる人間が、こんな異常を目にすることなく生きていけたらいいと思っている。半面、愚かで脆弱な人間がその蒙を啓かれることは、心の底から祝福するのだが。


 さておき、フィリップのテストに巻き込まれた彼らには本当に謝罪の念に堪えない。

 既に死体となったモノはともかく、今も恐怖に駆られて逃げ惑っている二人と、恐怖と困惑に耐えてフィリップを見つめるルキアには。


 「手荒を謝罪させてください、サークリス様。ですが、必要な行為でした」


 おそらく、足首の捻挫は悪化しただろう。

 走り辛い森を全力で走ったのだ。フィリップ自身が正気かと笑う暴挙だが、こうしなければ今頃は落とし子に美味しく頂かれていた。


 それを分かっているのか、ルキアは静かに頷く。


 「すみません。もう一度、足を診せて貰えますか?」

 「……えぇ」


 ルキアが片足を差し出す。

 少し瞠目して、フィリップは靴紐を解き、足を締め付けるようなロングブーツを脱がせる。


 やはり腫れが悪化しており、自家製の軟膏程度では完治しない域かもしれない。


 「森を出たら神官に見せてください。軟膏はもう痛み止め程度にしかならないと思うので……」

 「……分かったわ」


 日も暮れてきた。こうなると、下手に動けば黒山羊たちに察知され、先ほどのように取り囲まれてしまう。それに、ルキアの足はこれ以上の酷使に耐えられないはずだ。

 幸い、大樹の根元にうろがある。姿を隠し、休むことはできそうだ。


 半ば詰んでいるが、外神からの干渉は無い。

 いや、違う。まだ詰みには遠いのか。ルキアも森も町も、フィリップが自ら課した枷だ。この腕輪と同じ、外そうと思えば外れる、何の意味も無い拘束。だが外してしまえば、罰が下る。


 腕輪を外せば、法の裁きが。

 ここで全てを見捨てれば、待っているのは人間性の破綻だ。親を見捨て、故郷を見捨て、助けられる者を、自分が巻き込んだ者を見捨て、フィリップがフィリップであり続けられる保証は無い。

 

 それが嫌だから、フィリップはテストに際し、自らにハンデを課した。

 それを捨てれば簡単にクリアできるから、試練は未だ続いているのだろう。副王はその無様な足掻きを冷笑し、マザーは愛玩して、そしてフィリップの成長を確かめるのだ。


 「……」


 足の調子を確かめているルキアを見遣り、森のどこかを彷徨い逃げている二人を思い返す。


 最悪のタイミングで野外訓練に来てしまった──いや、フィリップが、最悪のタイミングで故郷に帰ってきてしまったのか。哀れにも巻き込まれた被害者たちを、何としても生還させる。

 そう決意した矢先、男の悲鳴が森に木霊する。


 弾かれたように立ち上がるが、ルキアは最早走れず、フィリップの体力も限界に近い。逃げることも出来そうになかった。


 「……大丈夫よ」


 木のうろに座り込んだまま、ルキアが囁く。

 恐怖の中にも確固たる決意の窺える瞳が、フィリップの諦観に塗れた目を射抜いた。


 「平民を守るのは貴族の務め。私が貴方を守るから」


 赤い瞳に射止められ、呆けたように口を開くフィリップの態度を勘違いしたのか、彼女は片目を閉じて微笑みかける。


 「さっきは無様を見せたけど、これでも聖痕者なのよ?」


 閉じていない側の瞳に、幾何学的な紋章が見える。


 聖痕者。神が認めた各属性最高最強の魔術師だ。

 自然六属性から一人ずつ、最も強い力を持つと認められ、唯一神より聖なる刻印を与えられた者たち。


 道理で、名前に聞き覚えがあったはずだ。


 『明けの明星』の二つ名を持つ、光属性の聖痕者、ルキア・フォン・サークリス。

 魔術関連の書籍を読めば必ず出てくる名前だ。指の一弾きで敵対者に雷を降らせ、邪悪なるものを塩の柱に変えてしまう、稀代の魔術師。


 『粛清の光』などという、フィリップでは聞いたことも無いような高位魔術を易々と扱う辺り、只者では無いと思っていたが。


 なるほど、と、フィリップは妙な既視感の理由に納得し、その決意の美しさを称える。


 そして──無価値だと、破綻しつつある価値観が切り捨てた。



 聖痕者? 神が認めた属性最強?

 なるほど。では、その神の強さは、一体誰が認めたのだ?



 共同幻想の認める最強とは、確かに全てのヒトの中で最強なのだろう。そして、全人類程度が母集団の時点で、そんなものに価値はない。


 「……それは凄い」


 だから、そんな感情の籠らない返答が出たのも仕方ないだろう。


 嘲笑うとまでは行かずとも、大人が幼子に向けるような冷笑が混じったのは否定できない。

 瞠目され、観察するような視線を向けられて、フィリップは演技の練習の必要性を強く認識した。


 「……これ、よかったら」


 誤魔化すように、持ってきたパンを取り出す。昼食ではなく夕食になってしまったが、日持ちするものだ。大丈夫だろう。

 半分に分けたそれを齧りながら、上手く誤魔化せたかと視線を向け──視線が合い、すぐに逸らす。全然誤魔化せていなかった。


 「あの、えっと……」


 何を言えばいいのか。フィリップが迷っているうちに、ルキアの興味はフィリップから逸れてくれた。


 「さっきの魔物……あれは何? いえ、そもそもあれは魔物なの?」


 黒山羊の親玉、シュブ=ニグラスの落とし子。

 人類最高の魔術程度であれば難なく抵抗し、人を嗤いながら喰らう悪性の個体。あれが今回のテストの試験官役なら、とてものだが。


 「……僕にも詳しいことは分かりません」


 首を振ったフィリップの嘘を敏感に嗅ぎ分け、眉根が寄せられる。

 だがフィリップも意地悪で隠しているわけではなく、彼女の精神を守るために情報を秘匿しているのだ。彼女がこれを知ることで抵抗できるようになるというのであれば一考するが、そうでない以上、発狂リスクを背負うのは無意味だ。


 「……僕が信用できないのは分かります。でも、森を出るまでは同行させてください」


 フィリップが巻き込んだのだ。名前も知らない、顔も声ももう覚えていない学生が4人殺され、一人は恐怖に駆られて逃げ惑っている。

 全てフィリップのせいだ。最悪のタイミングで帰省して、最悪のタイミングで森を訪れ、彼らから情報を得ようとしたフィリップのせいだ。


 ならばせめて、フィリップが残る二人を助けなくてはならない。

 それは贖罪ではなく、大前提だ。


 「僕が、貴女を守ります」


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