第28話
フィリップの挺身──自爆とも言う──が功を奏したのか、少女はある程度心を開いてくれた。
足の手当は自分ですると言い張り、フィリップからは軟膏を受け取るだけだったのだが、「これ、添え木にしてください」と木の枝を差し出せば「添え木……?」と首を捻り、「包帯も差し上げますよ」と手渡しても巻き方が分からず途方に暮れ、結局、フィリップが応急処置をしていた。
昔から日常生活で起こるような怪我の治療はしていたし、最近では刀傷を負った衛士の応急処置を間近で見て、実践もした。捻挫の処置くらいならお手の物だ。
「よし、終わりです。痛みはあると思いますけど、二日もすれば治りますから」
「……ありがとう」
もともと足にぴったりと沿う形状のブーツを履いていたので、多少不格好にはなっているが、二重の固定だと思えば気にならない。少なくともフィリップからは、だが。
わざわざ森歩きにまでブーツを履いてくるくらいなのだ、おしゃれには五月蠅いかもしれない。
そう思って顔色をうかがうが、怒りや嫌悪といった感情は見られない。というか、未だに怪訝そうな顔のままだ。
「あー、えっと……フィリップ・カーターです。どうぞよろしく」
「……ルキア・フォン・サークリスよ」
コミュニケーションにはまず自己紹介から。そう思って名乗ってみると、意外にも彼女は名乗り返してくれた。
気位が高そうというのもあるが、怪しい者じゃありませんという弁解がまるで通じない状態だったのに、よく名乗る気になったものだと思う。フィリップなら偽名を名乗るところだ。
だが、名前にフォンと付くのは貴族の特徴だ。
まさか偽名に貴族の名を使うとは考えにくいし、本名だろう。
「貴族様でしたか。そうとは知らず、ご無礼をお許しください」
サークリス……聞き覚えのある名前だが、思い出せない。
思い出せないということは外神絡みではなく、その他の無価値なものということだが、人名を忘れるのは不味いと自嘲する。
会ったことは無いはずなので、世間話か何かの話題に上がっただけだろう。
「……構わないわ」
意外そうなのは、フィリップが年相応以上に礼儀を弁えた対応をしたからか。
まさか宿屋の丁稚風情でも知っているはずの有名人ということはあるまい。
「サークリス様は、魔術学院の生徒なんですか?」
「……えぇ」
「ということは、野外訓練の最中ですよね?」
「……そうよ」
会話をするつもりはないと、言葉にせずとも分かる態度だった。まぁフィリップが露骨に怪しいので、諦めも付くが。
「えっと、班の方は? お聞きしたいことがあるのですが……」
「……聞きたいこと?」
黒山羊について言及しようとすると、近くの茂みががさりと音を立てる。
フィリップが腕輪に手を掛けるより早く、ルキアが魔術を照準する。学生でも魔術師ということか、一般人並みの適性しかないフィリップでは考えられない速度だ。
「戻りました、サークリス様! 薬草をお持ちしましたよ……って、その子は?」
茂みを掻き分けて現れたのは、ルキアと同じ制服を着た金髪の少女だった。
フィリップへ向けられた視線には露骨に怪しむ色が浮かんでおり、平民の子供ではなく木の妖精だと言うべきだったかと真剣に悩む。
「フィリップ・カーターです。ちょうど軟膏を持っていたので、サークリス様の手当をさせて頂きました」
「エリー・フォン・アルマンよ。お礼は……このくらいでいいかしら?」
言って、エリーは片耳から宝石の付いたピアスを外すと、フィリップにその輝きを見せる。
木漏れ日を反射して深みのある緑色に煌めくのは、爪ほどの大きさのエメラルドだ。売ればさぞかし高値が付くことだろう。
「えっと……」
言い淀み、受け取ろうとしないフィリップに怪訝そうな視線が向けられる。
謝礼目的の俗人だと思われるということは、逆に言えば金という要素を通じた場合に限り、一定の信頼関係が築けるということでもある。これを蹴るのは惜しいが、いま重要なのは情報だ。
「まさか、足りないとでも? 言っておくけど、これは──」
「いえ、それより、お聞きしたいことがあるんですが……」
言葉を遮る無礼を咎め、エリーが眦を吊り上げる。
しかし、叱責の言葉より先に、また別の班員が帰ってきた。
「戻りました……。すみません、サークリス様。薬草見つかりませんでした……。あれ? アルマン様、その子は?」
どこかふわふわした雰囲気を纏う少女の帰還を皮切りに、ぞろぞろと班員らしき学生たちが帰ってくる。
皆が一様にルキアへ謝罪し、それからフィリップに怪訝そうな視線を向けるのは予定調和じみていて、正直面白いほどだった。
何人かは露骨な「なんだこいつ」という警戒を、残りは平民に対する侮蔑の視線を向ける。ルキアに至っては完全に関心を失っているようだ。警戒が解けたのは嬉しい限りだが。
「……それで、何が聞きたいのかしら?」
早くどっか行けよ、という内心の見え透いた態度で、エリーがそう問いかける。
「はい。えっと、皆様は3日ほどこの森で訓練されているんですよね?」
「……そうだが?」
聞いておいて即、興味を失ったらしいエリーに代わり、金髪の男子生徒が肯定してくれる。
ありがとうございますと一礼して、フィリップは本題を提示した。
「黒い山羊を見ませんでしたか? もし見たのなら、その場所を──」
大真面目に訊いたフィリップだが、言い切る前に、誰かが鼻で笑う。
目を向けると、二人居る男子生徒のうちのもう片方、茶髪の少年が横柄な態度でせせら笑っていた。
「貴様の目は節穴らしいな。……黒山羊だと? そんなもの、そこらじゅうにいるではないか」
少年が、ほれ、とフィリップの背後を指す。
振り向きざまに腕輪を外し、警戒姿勢を取るさまはまさに「弾かれたように」という形容が似合う。
曇り始めた空の下、暗がりの生まれた木々の合間に目を凝らし──何もいない? と首を傾げるフィリップに、背後から複数の嘲笑が突き刺さった。
「あははは! なに、その怖がり方? ぼく、山羊が怖いの?」
「うーん……草食動物だぞ? 確かに目は不気味だが」
少女を窘める空気を漂わせ、金髪の少年が鎮静を図る。
しかし、また別の少女に揶揄われ、口を閉じてしまった。
「庇うことないわよ、レオン。くすくす……それとも、貴方も怖いのかしら?」
生まれついての貴種が雑種に向ける、侮蔑と嘲笑。フィリップたち平民にとっては珍しくも無いことだ。
向けられた悪意を一顧だにせず、フィリップはただ安堵した。
このタイミングで背後に黒山羊が居たら普通にビビるし、何なら衝動的に効きもしないパンチが出るところだ。出るのは悲鳴か小便の可能性もあるが。
「なんだ、冗談ですか? あはは、勘弁してくださいよー」
同調の笑いを浮かべ、空気に混じる。
知らないなら知らないと言ってくれれば、早々に立ち去ると言うのに。時間を無駄にした。今日中に痕跡を見つけておきたかったのだが。
「お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした。僕はこれで失礼しますね」
「……待ちなさい」
無価値なものを見る目にならないように気を遣いながら、一礼してキャンプを去ろうとする。
しかし、最初から一貫して興味なさげだったルキアが待ったをかけた。生徒たちがぎょっとした目でルキアとフィリップを交互に見て、最終的にフィリップを睨むのは何故なのか。
「私たちが黒山羊を見たのは本当よ。……それは普通じゃないということ?」
「……はい。森のどのあたりでしたか?」
ルキアは少し考え、淡々と
「入り口付近以外。森のほぼ全域で」
と答えた。
◇
終わった。もうこの森は……いや、ヴィーラムの町も終わりかもしれない。
テストは不合格だ。やはりフィリップには何もできない。何の力も無く、授けられた智慧を上手く扱うことも出来ず、人間らしく大いなる存在の前に無為に散るのだ。いや、散りはしないが。
「なんだ? この町はそんなに獣害が酷いのか?」
膝を折ったフィリップに困惑し、茶髪の少年が心配そうに町の方角を見遣る。
意外と平民の暮らす街のことを気に掛けるのだなと感心するが、それも現実逃避にしかなっていない。
智慧はあるのだ。考えろ。智慧を活かせ。
森の黒山羊、シュブ=ニグラスの落とし子たち。マザーの眷属たる彼らの狙い、延いてはマザーの狙いはなんだ? フィリップを害するのであれば、こんな回りくどい事をする必要はない。となると、前回の悪魔騒動と同じ、フィリップの成長……ここまでは前提だろう。
もっと考えろ。
腕輪のことはマザーも知っているし、魔術の訓練ではないはず。では森歩きによる基礎体力の向上? いや、そんな小賢しいことを考えるのはナイ神父の方ではないか?
となると、テスト考案者はナイ神父か? それは不味い。マザーとは違い、ナイ神父はフィリップの機嫌などという何の価値も無いものには頓着しない。テストに失敗すれば、ヴィーラムの町が──フィリップの故郷が狂人と神話生物の跋扈するソドムのごとき魔境と化すかもしれない。というかソドムの方がマシまである。
考え、考え、考えてもなお、答えは出ない。
フィリップは未だ黒山羊に出会ってすらいない以上、情報が圧倒的に足りないのだ。それが本当に落とし子なのか、或いはただの黒山羊なのかすら、フィリップは判断できない。
ふと、ぱちりと焚火の燃える音が耳につく。頭を抱えたフィリップを訝しみ、嘲る生徒たちの笑い声が耳に障る。
──それ以外の、あらゆる音が消えているが故に。
ぞくりと、背中を刺す気配がある。
マザーに感じる複雑な感情から、嫌悪以外の全てを取り払ったような気配だ。
ごくりと唾を呑む音、高まっていく心臓の鼓動が耳に障る。急に様子の変わったフィリップを訝しむ声など、もはや耳に入らない。
最高位悪魔をすら無価値と斬って捨てた価値観が、今は全力の逃走か、この場での焼却を強く推奨してくる。
気付けばキャンプ地は黒山羊の群れに囲まれており、鳴きもせず、蹄の音すら立てない彼らに、生徒たちとフィリップはじっと見つめられていた。
「は、ははは……良かったな、黒山羊が自分から来てくれたじゃないか!」
誰かの揶揄が耳に障る。
これは──こいつらは駄目だ。
黒山羊の群れを無条件にマザーの眷属だと思い込んでいたが、誤りだった。こいつらはあまりに低俗で、それゆえにフィリップのことを理解していない。おそらく、落とし子のさらにその孫くらいの下級存在。マザーやナイ神父であれば、目に留めることも無いほどの。
保護者無しのテストに用意するなら、確かにちょうどいい塩梅だ。腕輪が無いならの話だが。
黒山羊の群れに混じり、統一されたローブ姿の魔術師の姿も見える。
「カルト?」という誰かの呟きが、フィリップの歯ぎしりに混じる。
黒山羊に感じた、知恵ある者全てが抱くであろう嫌悪感とは違う、フィリップ自身の価値観から生じる、フィリップ自身の嫌悪感。
フィリップがいま抱いている全ての恐怖、全ての絶望、全ての諦観の元凶がカルトだった。
彼らは例の時神なんたらとは何の関係も無い団体だろう。だが、蜂に刺された者は蜂全てを恐れ、蛇に噛まれた者は蛇全てを遠ざける。それと同じだ。カルトはカルト。一個人や一団体ではなく、カルトという記号によって括られる。
「どうなってるのよ!?」
カルトに囲まれ、女生徒の一人が魔術を放つ。
基礎的な氷の槍を撃ち出す魔術は、狙い過たずカルトの一人を木に縫い留めた。
タイミング的にフィリップがグルだと思われてもおかしくないが、フィリップの放つ殺気にも近い嫌悪感が、彼らにその推測が誤りであると教えていた。
また、カルトの魔術師は所詮はぐれ。国内最高の教育機関である魔術学院で教えを受ける彼らの敵では無いというのも、精神の安定を保っていた。
程なくしてカルトの半数ほどが殲滅され、半数が森の奥へと逃げていく。
しかし、それを追いかけるだけの余裕はなかった。
「くそ、山羊には効かない!?」
その叫びが、理由を端的に表している。
氷の槍が、炎の球が、迸る雷が、風の刃が、岩の弾丸が、悉く黒山羊の毛皮に弾かれている。腐っても神話生物の末裔ということか。
「さ、サークリス様っ!」
誰かが叫び、それまで立ち上がりすらしなかったルキアが片手を上げる。
生徒たちが目を庇ったのを見て。フィリップも直ちにそれに倣う。
「──《粛清の光》」
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