第27話
翌朝、フィリップはここ数日で最もすっきりした目覚めを迎えていた。
それは何も、長年使い慣れた枕だからという理由だけではない。
この一週間、ずっと胸に刺さっていた棘が抜け、早朝に特有の開放感と爽快感を存分に味わうことが出来る。
「あぁ、フィリップ君。おはようございます」
などと挨拶してくる、食堂で優雅に紅茶を傾けるナイ神父がいなければ、最高だったのだが。
「……おはようございます、ナイ神父」
適当に挨拶を返し、厨房へ向かう。
まだ客のいない時間帯だが、ナイ神父と一緒に食事というのは勘弁してほしいところだ。
「おはようフィリップ。ここで飯か?」
「おはようお兄ちゃん。別にいいでしょ?」
オーガストが肩を竦め、予備の椅子を持ってきてくれた。
「今日はどうする? 何もやることが無いなら──」
「ごめん、今日はちょっと手伝えないかな」
「お、おう。そうか」
食い気味の否定にしょんぼりしつつ、オーガストは仕事に戻る。
さて、と。
フィリップは王都のものより質の悪い、しかし馴染み深いパンを咀嚼しながら考える。
腕輪の容量的に、あと一日か二日くらいしたら王都に戻っておきたい。別に即座に壊れるような気配があるわけではないが、念のためだ。
明後日の時点では馬車の旅に備えて体力を温存しておきたい。ということは、今日中にマザーの狙いくらいは掴んでおかなければ間に合わない。
この手の推理は仮説を立て、それを棄却していくのがセオリーだ。
フィリップは以前に何かで読んだそんな定石に従い、仮説を立てていくことにする。
仮説1。マザーが課したテスト。黒山羊の殲滅か、そこまで行かずとも対処させることが目的。
仮説2。マザーの悪戯。フィリップをビビらせればそれでOK。
仮説3。マザーではなくナイ神父の差し金。フィリップの成長が目的。
仮説4。実は邪神絡みではなく、ただ自然発生した黒山羊。フィリップが過剰に反応しただけ。
現状ではまるで情報が無く、全ての仮説が棄却できない。
仮説4に関してはもう願望でしかないが、できればそれであってくれと思う。
逆に一番真実であってほしくないのは、仮説1だ。
クリア条件不明、かつ
右腕を一瞥し──とりあえず情報を集めようと、フィリップは森へ向かうことにした。
現在判明していることとして、森のある程度深部まで進むと、黒山羊の群れに囲まれるという情報がある。というか、それくらいしかない。
あとは彼らの攻撃性が低いということくらいで、正直手詰まりだ。だが幸い、情報を集める簡単な方法がある。
長袖に長ズボン。厚手の作業手袋に、例のマチェット。小ぶりなナイフと火打石。水筒と昼食のパン。万一に備え、薬草を煮詰めた軟膏と包帯も持っていくことにする。
「ちょっと森へ遊びに」という風情からはかけ離れた装いに、道ですれ違う人々はしかし、微笑ましいものを見るような目を向ける。冒険者に憧れる時分は誰にでもあるし、木の棒と鍋の蓋があれば誰だって英雄になれるのが子供時代だ。ごっこ遊びの延長か何かだと思われているのだろう。
誰にも呼び止められることは無く、これ幸いと森へ入る。今日は別に何をするつもりも無いのだが、一応、木々と森の恵みへ感謝を捧げておいた。
「さて……」
何も考えず奥を目指すか、黒山羊の痕跡を辿るかと考え、取り敢えず奥へ進むことにする。
そもそも黒山羊の痕跡を見つけ、追跡する方法など知らないので、あまり意味のない思考だった。
森林のような複雑な環境ほど動物や人の痕跡を見つけやすいと言うが、フィリップには難しかった。プロのいう「簡単」ほど当てにならないものは無いが、その知恵の全てを否定することも無い。
たとえば、樹皮の表面をマチェットで傷付けるくらいなら、ドライアドたちの怒りには触れないこと。
狩人たちが森を開拓するとき、迷わないようにする目印らしい。
ざく、と、手近な木を切りつけてみるが、なるほど。本当に樹皮の表面が傷付くくらいなら、ドライアドは罰を下さないようだ。
「黒山羊、黒山羊……」
たん、たん、と。目印をリズムよく刻みながら進む。
遠巻きに見てくる山猫、逃げていく毒の無い蛇に手を振り、蜂の羽音と蛇の威嚇音からは即座に遠ざかる。怪しげなキノコには触れず、薬草は摘まずに場所を覚えておく。
宿を手伝うようになる前から、薪拾いで歩いて来た森だ。慣れたものである。
「ふんふんふー……ふ?」
鼻歌交じりの行軍を続けること小一時間。少し開けた場所に見慣れない沼があった。
池でも泉でも川でもなく、沼だ。
雨が降って水が溜まったわけでもなく、地下水が湧き出たわけでもなく、どこかから水が流れて来たわけでもない。ただ今までは無かったはずの場所に、濁った泥だまりがある。
「……え、なにこれ。怪しすぎるでしょ」
何かが出そうという雰囲気ではないが、今まで無かったものがあるというのは十分に異常だ。
それに沼といえば嵌ったら不味い、底が無いという逸話に事欠かないが、本当に不味いのは沼の全容が掴めないことだ。泥の表層は地面によく擬態する。まだ大丈夫だと思って踏み出したら、そこはもう沼だった──ということが普通に起こる。
なるべく近付かないでおこう。
そう判断し、木に寄りかかり、根を踏むように進む。さすがにずっとという訳には行かないが、沼が見えなくなるまでは。
しばらく進み、そろそろいいかなと地に足を付ける。
「……ん?」
沼──ではない。
土の下に何か金属質なものがあるのか、ちゃり、と石とは違う音が鳴る。
拾い上げてみると、見慣れない紋様の書かれたコインだった。少なくとも王国の共通通貨ではない。
鑑識眼に自信があるわけではないが、軽さから金でないことは断言できる。そう高値が付くものではない。
しょうもな、と、普段であれば捨てるところだが、ここは森の中。ドライアドたちの監視下だ。拾ったものを戻す程度で怒られるのかは分からないが、不興を買う恐れのあることは止めた方がいい。ポケットに突っ込んでおく。
そのまましばらく探索を続けていると、不意に甲高い悲鳴が耳を刺した。
身体を強張らせ、その方角やその他の音──獣の唸り声や弓弦の音などを聞き取ろうと耳を澄ます。
「……」
何も、聞こえない。
虫たちが沈黙し、風も無く梢は凪ぎ、本格的に森が音を吸い始める。
正体不明の沼に、悲鳴。そして静まり返る森。
全く最高のシチュエーションだ。このタイミングで黒山羊が出てきたら漏らしても笑われないだろう。
そっと、足音を立てないように進んでいく。幸いにして、よく肥えた柔らかな土は音を吸ってくれた。おかげでフィリップにも何も聞こえないわけだが。
どのくらい進んだだろうか。数秒か、数分か。まさか数時間ということはないだろうが、喉の渇きと気疲れはそのくらいだ。
水筒を傾け、残りが少ないと舌を打つ。
その時、ふと耳に入ってくる雑音があった。不自然なほど静かな森の中で、人の話し声はよく通る。
その声の方角へと必死に足を進め──林冠を突く煙を目にする。
すわ森林火災かと身体が強張るが、それにしては煙が小さいし、熱も漂ってこない。
……キャンプか?
魔物や害獣の出現報告は少ない森だが、いないわけではない。街と街を隔てるような立地でもないし、わざわざ森に入る者もいないだろう。娯楽目的で野宿するような物好きが居るのなら話は別だが。
旅行者や道楽者の線を排除すると、残る可能性は。
「例の学院生かな?」
警戒しつつ、しかし足早に煙の方へ向かう。
やがて少し開けた場所に辿り着き──瞠目する。
「え……マザー……?」
切り株に腰掛けた女性がいた。
滑らかな銀髪を背中に流し、仕立ての良さそうな黒い服を纏っている。ぱっと分かる共通点は、あとは背中を向けていても分かるプロポーションのよい肢体くらいのものだ。
フィリップの動揺が雑音を生み、女性が振り返る。
顔立ちが露わになり、フィリップの認識が誤りであったことが判明する。
まず第一に、彼女はマザーでは無かった。
フィリップが見てきた人間の中で最も美しい女性であることは間違いない。見る者全てを魅了する、とか、絶世の、とか、そんな形容が何の誇張も無く似合う。だが、マザーやナイ神父のような見る者の正気を奪うような人外の美ではない。
次に、女性という表現。
かわいいではなく綺麗という形容が正しい風貌ではあるが、まだあどけなさの残る容姿は、女性ではなく少女という年齢であることを窺わせる。身に纏う制服からも、その表現が正しいことが分かるだろう。
魔術学院の生徒ということは、例の野外訓練に来た生徒か。アイリーンの言によれば一年生とのことなので、14、5歳だ。
「……ふぅ」
安堵の息を漏らす。
少し年上とはいえ、絶世の美少女を前にまずやることが溜息。しかも魅了ではなく安堵によるもの。失礼云々以前にどうしたお前と言われそうな行為だが、フィリップにも言い分はある。
異常に静かな森を、非武装単独で、しかも黒山羊に怯えながら歩いて来たのだ。
それでマザー──シュブ=ニグラスに出会ってみろ。失禁ものだ。まぁフィリップ以外なら発狂してもおかしくないが、それはさておき。
「……」
どう話しかけるのが一番怪しくないだろうか。
現状、少女の側からすれば、フィリップはこの怪しげな森を一人でふらふら歩いている怪しげな子供だ。これ以上の悪印象を与えると、黒山羊について訊けなくなる恐れもある。そんな無意味なことはしたくない。
とりあえず「こんにちは」と挨拶してみるが、怪訝そうな一瞥だけが返ってくる。
一歩近づくと、少女は警戒も露わに立ち上がり──顔を顰めて腰を下ろした。足を痛めているのだろうかと目を向けるが、革製のブーツの上からでは分からない。だが、膝の下ほどまでを覆う黒い革のブーツは、ヒールが5センチほど上げられている。ピンヒールではないが、森歩きに適しているとは言えない靴だ。推測に間違いは無さそうだ。
「足を痛めてるんですか? 軟膏ならありますけど……」
リュックを漁り、薬草を磨り潰して作った軟膏入りの小瓶を差し出す。錬金術製ではなく自家製の民間療法的な代物だが、効果のほどはフィリップの経験によって裏打ちされている。流石に骨折のような重傷に対しては痛み止めくらいにしかならないが、打撲や軽い捻挫くらいなら二日で治るだろう。
とはいえ。
少女視点、フィリップは怪しげな子供から、怪しげな小瓶を差し出す子供に格上げされた訳で。
「……それ以上近寄らないで」
と、魔術を照準されるのも自業自得である。
明確な敵意にしかし、フィリップが気に掛けたのは全く別のことだった。
少女からは完全に意識を外し、森の気配と世界の動きに細心の注意を払う。ほぼ確定で、この森はシュブ=ニグラスの──マザーの支配域だ。それに、表層に顕出していないとはいえ、フィリップは常にヨグ=ソトースの庇護下にある。
フィリップに向けられた敵意と攻撃の予備動作に、果たしてどういう反応をするのか。
一秒、二秒と経ち、何も起こらないことを確認する。
少女が無害であると──無価値であると判断してくれたらしい。
「ふぅ。ただの軟膏ですよ。何なら、僕が先に塗ってみましょうか?」
じわじわと精神を苛んでいた孤独と重圧から解放され、少しハイになっていたフィリップは「何なら舐めちゃう」と軟膏を付けた指先を口に含み──その苦みとエグさに強烈に顔を顰めた。
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