第26話

 森に入った者を取り囲む黒山羊の群れ。

 嫌な予感という言葉が可愛らしく思えるほどの悪寒を催すワードだった。


 「どうした? 顔色悪いぞ?」


 そう言って覗き込んでくるオーガストを大丈夫だからと押し遣って、フィリップは家を飛び出した。


 クトゥグアを呼ぶつもりでヤマンソを召喚してしまったときに匹敵する──いや、高揚状態だったあの時よりも余程、動揺は大きい。


 悪意のない、純粋な愛玩と冷笑で構成された微笑を浮かべるマザーの顔が脳裏に浮かぶ。

 何を企んでいるのかは分からないが、フィリップにとって害となるものではないだろう。ただし、それは本当に「フィリップにとって」だ。他の人間のことは一切考慮されていない。


 場合によっては、このマチェットより物騒なモノを使うことになるかもしれない、と、右腕に嵌った腕輪を一瞥する。


 そんな覚悟を決めて森に入ったのだが、森の中は拍子抜けするほどに普段通り、静かに懐かしい相手を受け入れてくれた。

 懐かしいと言っても、フィリップが最後に森を訪れたのは一月ほど前だ。森の木々と同じ時を生きるドライアドたちにしてみれば、ほんの数舜でしかない。風も無く揺れる梢と優しい風が、姿を見せない彼女たちの歓迎の表れだ。


 手近な木に手を当て、森の恵みに感謝を捧げる。

 思えば、超自然的な存在に向けて感謝を示すのは久し振りのことだった。食事前の神への祈りすら、ここ最近は疎かにしていた。唯一神などという共同幻想に祈ることの滑稽さを知ってしまったのが、主な原因だろうが。


 食事前の祈りを欠いたくらいでは眉を顰めない寛大なる唯一神とは違い、森の守護者であるドライアドたちは厳格で陰険だった。

 森への感謝を忘れ、いたずらに木々を傷付け、環境を乱すと、彼女たちは毒性植物や獣を使って罰を下す。半面、礼を尽くせば、豊かな恵みを与えてくれるのだ。


 「さて、と」


 適当に目に付いた枝を拾い、背負い籠へ入れていく。

 ここ最近は雨が無かったのか、枝はどれも都合よく乾いている。もう夕刻だが、干す必要は無さそうだ。


 「……」


 木の皮や茂みに目を凝らし、動物のフンを凝視し。狩人の真似事をしてみたものの、知識のないフィリップでは何も分からない。第一、熊や狼といった即座に逃げなければならない相手の痕跡以外の見分け方など知らない。完全に真似事の域を出ていなかった。


 「もっと奥に行かないとダメなのかな?」


 マチェットを一瞥する。

 狼相手にも熊相手にも心許ない武器だ。魔物相手なら投げて気を引くくらいにしか使えないだろう。というか、そもそも藪払いに使う道具だ、武器じゃない。

 鞘から抜いてみると、叩き切るために砥がれた鈍い刃が妖しく光る。何の変哲もない、鉄製の鉈だ。黒山羊が想像通りの存在なら、心許ないどころの話ではない。


 半袖に薄手の長ズボンは、森歩きに適した服装とはいえない。いまこれ以上進むのは愚策だ。とはいえ、マザーの悪戯だとしたら、無視するのも怖い。

 もしもフィリップ以外にとって害になるのなら、それは阻止しなければならない。


 「装備を整えて、明日もう一回来ようっと」


 フィリップは居るのかも分からないマザーに聞こえるように口にして、足早に森を立ち去った。




 普段の数倍は気を張っていた久し振りの森歩き。しかも、半日近く乗合馬車に揺られた後の、だ。

 疲れ切って帰ってきたフィリップを出迎えたのは、頭痛すら催す光景だった。


 「あぁ、お帰りなさい。フィリップ君」


 軽快に手など振って見せるナイ神父。その装いは、漆黒のカソックから宿に備え付けの水色の部屋着──浴衣へと変わっていた。

 人の気も知らないで何をやっているのかと頬が痙攣するが、ナイ神父のことだ、フィリップの神経を逆撫でするためだけにやっていると言われても納得できる。何ならその可能性が高い。


 「御母堂と兄君には、私の方から事情を説明しておきましたよ」

 「……それは、どうも」


 にこやかなナイ神父とは違い、フィリップの反応は硬い。


 二等地の一角を焼き払った挙句、奉公契約を半ば勝手に解消してきたのだ。当然のことながら怒られるだろう。アイリーンは仕事中だろうが、今夜にでも行われるであろう説教を思うと気が重かった。

 

 「例の黒山羊の調査、何か進展はありましたか?」


 フィリップの気を紛らわせようとしたわけではないだろうが、ナイ神父が話題を変える。

 他人事のような聞き方に眉根を寄せるが、事実、他人事なのだろう。マザーがフィリップに直接的な害を及ぼすとは考えにくいし、保護者であるナイ神父の出番はないということか。まさに、親子か姉弟の戯れを見守るだけという立ち位置である。


 「何も。マザーも存外、子供っぽいところがあるんですね」


 フィリップが肩を竦めると、ナイ神父は微笑を浮かべた。

 その表情に珍しく嘲笑が混じっていないことに──正確には、嘲笑を巧妙に隠していることに、フィリップは気付けなかった。


 「まぁ、現時点ではタイムリミットはありません。ゆっくり調べていいですよ。……ここの大浴場は中々ですから」

 「……なるべく早く終わらせて、王都へ帰ります」


 これ以上生家にナイ神父を泊まらせたくないし、あまり時間をかけすぎるとマザーが拗ねるかもしれない。というのは、そういう意味だろう。




 ◇




 その日の夜、できるだけ怒られたくないと早めに部屋に戻ったフィリップは、オーガストの裏切りによって話し合いの席に着いていた。

 対面にアイリーン、隣にナイ神父が座った構図に既視感を覚える。


 手を組んでフィリップを見つめるアイリーン、両手を膝に置いて俯いているフィリップ、仮面のような微笑のナイ神父を順繰りに見て、「じゃ、俺は寝るから」と部屋に戻っていったオーガストが恨めしい。


 「フィル。神父様から聞いたわ。王都で何があったのか」


 びくりと身体が震えたのを自覚する。

 やっぱりその話かという諦めが半分、怒られることを怖がっている自分への安堵が半分、内心を占めていた。


 思えば、誰かに叱られるのは久し振りだ。

 丁稚奉公に出る時には仕事でミスもしなくなっていたし、ここ最近はマザーとナイ神父と一緒にいることが多かった。彼らはフィリップを愛玩し、冷笑し、嘲笑うが、叱りつけることはしない。


 それはフィリップに──いや、あらゆる人間に一切の期待を抱いていないからだろう。だから失望しない。ヒトは脆弱で無価値なモノだと知っているから、それ以上のことを望まない。

 怒られないというのはつまりそう言うことなのだが、かといって怒られることに幸福を感じられるほど、フィリップは大人では無かった。


 いやだなぁ。あぁ、でも、まだ「母親に怒られたくない」とは思えるんだなぁ、と、現実逃避気味に考える。


 「……おめでとう、フィル」

 「…………え?」


 思いもよらない言葉に顔を上げると、穏やかな微笑を浮かべたアイリーンと目が合う。


 「魔術学院は王国最高の学校よ。三年間、きちんと勉強してきなさい」

 「う、うん。……あ、あの、お母さん。怒ってないの?」


 フィリップが尋ねると、アイリーンは微笑をより深め、にっこりと笑顔を浮かべた。

 あ、だめだこれ。めちゃめちゃ怒ってる。


 「怒ってるわよ? ねぇ、フィル……」


 ごくり、唾を呑む。

 魔術学院への入学。奉公契約の解消。二等地の一部の焼却。衛士団による拘留。

 心当たりがあり過ぎて、どれから怒られるのかすら想像が付かなかった。


 「そういう大事なことは、ちゃんと自分の口から言いなさい」

 「……うん」

 

 神妙に返事をしたフィリップに「よろしい」と頷いて、アイリーンは席を立った。

 予想の何倍も簡潔で短い説教だ。ナイ神父──部外者が居るからと手を緩めるような性格でもないし、どういうことだろうか。


 「え、あの、それだけ?」


 別に怒られたいわけではないが、こうもあっさりしていると拍子抜けだ。

 呼び止めると、アイリーンは不思議そうに振り返る。


 「まだ何かあるの?」

 「え、いや……無い、けど」


 歯切れ悪く返したフィリップを見て少し考え、アイリーンはぽんと手を打った。


 「もしかして、丁稚奉公を辞めたのを気にしてるの?」

 「まぁ……うん。あと、二等地を吹っ飛ばしちゃったこと…… いろんな人に迷惑かけちゃったし……」


 常日頃から他人に迷惑を掛けぬようにと二人を躾けてきたアイリーンだ。流石に少しも怒っていないということは無いだろう。

 悪魔を倒した功によって二等地を吹き飛ばした罪を相殺すると、衛士団長は言った。だが、あれは衛士団の無能を詫びる意味もあったのだろう。本来、功罪を比べてゼロにするのなら、その功の全容と罪の全容が完全に判明し、一致していなければならない。


 ボソボソと告解すると、アイリーンは立ったままフィリップに向き直る。

 

 「ねぇフィル、あんたは宿屋をやりたかったの?」


 穏やかで単純な問いに、フィリップは即答できない。

 10歳の時分に明確な将来設計を立てている者の方が珍しいだろう。フィリップも同じで、なんとなく言われたから丁稚奉公に行っただけだった。


 YesともNoとも答えられず、黙って俯いたフィリップに、アイリーンは呆れ笑いを向ける。


 「魔術学院に行くのは嫌?」


 フィリップは首を振って否定する。

 理由はともかく、王国で豊かな暮らしを送るのなら、学院卒業は最高の近道だ。加えて言えば、邪神たちから距離を取ることもできる。


 「なら、丁稚奉公なんてどうでもいいじゃない? 勿論、あんたが勝手に辞めて帰ってきたっていうなら大問題だけどね」


 私人間の契約を他人が解消することはできない。無意味な仮定を冗談として挙げて、フィリップの反応を待たず、アイリーンは続ける。

 

 「それにね、フィル。誰かに迷惑をかけないように、誰かを見殺しにするのは、それは自分が怒られたくないだけの最低な人間よ?」


 あんたがそうじゃなくて良かったわ、と。アイリーンは穏やかに笑った。


 それはその通りだ。そもそも誰かを助けるということは、その敵対者を助けないということだ。誰かの命に、意思に、優劣を付け、それを基準に切り捨てる傲慢な行為。

 それもまた人間らしいと言えば人間らしいのだが、生憎と、或いは幸運にも、フィリップはそこまで人間を卑下していなかった。というより、衛士たちの輝きに中てられた熱が残っていた。


 とはいえ、気分と価値観は別物だ。

 フィリップの中には確かに、その傲慢を嘲笑う何かが潜んでいる。


 納得いかないようなフィリップの表情を見て、アイリーンはさらに付け加える。


 「フィルの未熟が誰かに迷惑をかけたのなら、成長しなさい。停滞は謝罪にはならないわよ?」

 「………………分かった」


 成長しろ、と。その言葉が胸に突き刺さる。


 瞠目し、瞑目し、顔を覆い、天井を見上げ、表情を覆い隠し。声を繕い、了解を示す。

 その仕草は傍から見れば、感極まって泣いているようにも見えた。


 深く頷いて、アイリーンは立ちあがる。


 「魔術学院できちんと勉強するのよ? いいわね?」

 「うん。分かったよ、お母さん」



 アイリーンが立ち去った後、表情を隠したままのフィリップを一瞥し、ナイ神父が嘲るように言う。


 「勘の鋭い方でなくて助かりましたね」

 「うるさいですよ、神父」


 両手で覆った顔の下──吊り上がった口角のままに、吐き捨てる。


 「は、ははは……」


 笑いが零れる。

 

 別に説教が楽しかったわけでも、面白かったわけでもない。

 ただ、フィリップは猛烈にすっきりした、開放感にも近い爽快さを味わっているのだ。


 この一週間ほど、二等地を吹き飛ばして以来、ずっと心に突き刺さっていた棘は、罪悪感などでは無かった。


 あれはだ。


 盲目白痴の最大神格の寵愛を受け、千の仔孕みし森の黒山羊に智慧を受け、千なる無貌に教えを受け、それでもこの様かと。自分自身に深く失望していたのだ。自分の能力を過大評価し、期待し、自分でそれを裏切り、勝手に失望していた。


 そして今、その霧は払われた。


 無能であった。ならば成長すればいい。そう、その通りだ。


 「はははは……」


 ズレている。そう自覚する。

 二等地を一部とはいえ吹き飛ばし、多くの人の家財を失わせた。衛士団や国が生活を保障してくれるだろうが、もしかしたら路頭に迷う人もいるかもしれない。


 その罪を自覚していながら、フィリップはただ自分の力不足を嘆いていた。

 謝罪も贖罪も、その思考の片隅にすら浮かばなかった。


 ズレている。おそらく、もう手遅れなほどに。


 それを不味いと思うだけの理性は、辛うじて残っていた。



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