第20話

 大前提として、フィリップは弱い。

 邪神や神話生物が手を出すまでも無く、地球現生の魔物や毒性生物、肉食獣などに簡単に殺される10歳の少年でしかない。


 その自覚があるだけに、召喚術の評価は妥当なものだと思える。しかし、それは10歳の少年にしては余りに夢のない、達観したものだった。

 まさかフィリップがとは思っていないジェイコブが慌てて言葉を続ける。


 「あ、いや、もちろん、召喚魔術は普通の魔術にはできないようなこともできるし、一長一短だけどね」


 フィリップがモチベーションを失くさないように、しかし嘘を吐かないようにと必死に励ますジェイコブの背中、金属鎧に覆われた広いそこで、バン、と小気味のいい音が鳴る。

 いつの間にかすぐ近くに来ていたジェイコブの相棒、ヨハンが呆れ顔でその背中を叩いていた。


 「口下手か」

 「お、お前が言うのか……」


 意気消沈したジェイコブに代わり、ヨハンが片膝をついてフィリップと視線を合わせる。

 ぎこちない笑みは子供との会話に慣れていないことを窺わせるが、その瞳と声色には確かな誠意が籠っていた。


 「例の神父様とご婦人に師事しているらしいな。彼らは素晴らしい実力の持ち主だ。彼らが教える価値ありと判断したんだ。きっと君には才能があるんだろう」

 「あ、あぁ。それは間違いない! ……そうだ、もしよかったら、少し見学させて貰えないかな? ちょうど色々と──フィリップ君?」


 内心がそのまま表情に反映されてしまうフィリップの顔には、はっきりと「不味い」と書かれていた。


 人間二人が紛れ込んだところで、マザーは意に介さないだろう。ナイ神父はその結果どうなるかは分かっていても、その結果を積極的に変えようとはしないはずだ。

 齎される結果は大別して二つ。


 フィリップの魔術が失敗し、二人は詠唱に含まれる悍ましい名前によって多少の精神的ダメージを負う。

 そしてフィリップの魔術が成功した場合、二人は発狂するか、クトゥグアによって焼き殺される。


 フィリップは今や、人が持っているべき道徳心や信仰心の類をほとんど持たない人でなしだ。大いなる智慧はヒトを超越した価値観を与え、最早人類が滅びようと「まぁ、そうだろうな」程度の関心しか抱かないことだろう。


 だが──人格にこびりついた善性と人倫の残滓が、この善良な衛士たちを殺したくないと叫んでいる。


 「えっと、そう……ですね……」


 頭を回す。

 なんとか断る方法はないか。教会の魔術は部外秘と言うか? いや、ならばフィリップに教えているのがおかしい。辻褄が合わない。 危険だと言うか? いや、たかだか1週間そこらの訓練しか積んでいない者の魔術など、歴戦の衛士たちには蜂の一刺しにも劣るだろう。 


 さてどうするかと悩んだまま口ごもると、ヨハンがジェイコブを小突いてこそこそと囁く。


 「いや、普通に考えて、そういうのは教える側に頼むべきだろう。フィリップ君だって困ってるじゃないか」

 「だ、だよな。俺も言ってて思った……。フィリップ君、これから教会だよね? 一緒に行かないか?」


 さっと思索を巡らせ、その程度であればと頷く。

 衛士たちはほっとしたように笑うと、フィリップの不意を突くような言葉を投げかけた。


 「ありがとう。ついでに、道中で昨夜の事を色々と聞かせて貰えるかな?」

 「昨夜ですか? あはは……」


 なんで寝坊の事を知っているのかと一瞬不思議そうな顔になり、続いてばつの悪そうな顔になる。30分近くも説教されていれば目にも留まるだろう。

 そんな納得に至ったフィリップだが、とりあえず浮かべた愛想笑いは二人の不思議そうな顔を見て同じものに変わった。


 「あー……何か可笑しなことがあったのかい?」

 「え? えーっと……?」


 なんかおかしい。

 そもそもなんで宿屋の丁稚が寝坊した話を聞きたがるのかと考え、そもそもなんで寝坊したのだったかと回想し。思い当たるものがあった。


 「あっ……モニカから聞いたんですか?」


 具体的に何を、とは言わない辺り、フィリップの警戒が見て取れる。

 なんか不思議な反応だな、と思いつつも、衛士たちは素直に首肯する。


 「あぁ。昨日、フィリップ君とベッドを抜け出して教会に遊びに行って──そこで、悪魔に襲われたんだってね」


 笑いの衝動が込み上げてくる。

 そう。そうだった。昨日──僕はモニカと一緒に、悪魔に襲われたじゃないか。


 何が寝坊だ。それは悪魔に襲われるよりも大きな、衛士が話を聞きに来るほどの事件なのか? 何を馬鹿なことを考えているんだ。全く──価値観が歪むとこういうところが不便だ。これではマザーのことをどうこう言えないではないか。


 だが、聞いてくれ。弁解させてくれ。

 無価値な羽虫が叩き潰されたのを──ましてや、他人が叩き潰したのを、一晩寝ても覚えている方が珍しくないか。


 俯き、肩を震わせて失笑を懸命に堪える。

 その様子は恐怖に震える様子によく似ていて、衛士たちは肩を叩き、頭を撫でてフィリップを励ました。


 なんとか笑いの衝動を鎮めて顔を上げると、頬は赤く、目は涙に潤んでおり、健気にも恐怖に抗い切った少年といった風情だった。

 我慢できずにちょっと漏れた笑いは、都合よく嗚咽と間違われ、また励ましを受けた。


 何度か深呼吸を繰り返し、フィリップはようやく二人に頷くことが出来た。


 「はい。僕の覚えていることであれば、何でもお話します。ですが、ナイ神父がすぐに対処されたので、あまり詳しいことは……」

 「あぁ、大丈夫だよ。歩きながら、大まかなことだけでもいいんだ」


 三人で並んで歩き、教会へ向かいながら、フィリップは懸命に「悪魔が怖くて、ナイ神父が強くて、結局何も分からないからナイ神父に聞いてくれ」と、要約すればそうなるであろう内容を長々と語る。

 衛士たちも要領を得ない、しかし悪魔に襲われた子供らしい話に相槌を打ち、時に励ましたり慰めたりしながら、ナイ神父に尋ねるしかないかと意識を切り替える。


 フィリップは丸投げするつもりで実際に殺したマザーではなくナイ神父を槍玉に挙げているが、この判断はかなり危うい。


 マザーよりは人間の利用価値を知っているナイ神父だが、価値を知っていることと、価値を感じることとは全くの別物だ。口裏を合わせることで生じるメリットは、彼らを殺すメリットを超えられるだろうか。彼らを殺した時、フィリップが機嫌を損ねるから。マザーであれば、そんな理由で天秤を傾けるだろう。


 いや──フィリップは彼らが殺されたとして、本当に機嫌を損ねるだろうか。


 もしかしたら──


 「え? 殺しちゃったんですか? もう、しょうがないな……ちゃんと後始末はしてくださいよ」


 ──と。盆から零れた水を見るような目で死体を眺め、軽い諦めだけが感傷として残るのではないか?


 それを人でなしだと感じる人間性はある。

 だが、彼らの死を悲しめる自信は無かった。


 フィリップが感じるであろう全ての想いは未来のもの。つまり未知だ。


 未知は怖い。怖いから──確かめてしまいたくなる。


 本能が囁く。この精神を苛む未知への恐怖を、実験という最も簡単で確実な方法で晴らしてしまおうと。

 朽ちかけの良心はそれを一蹴できない。、死んだところで何の問題も無いではないか。人は死ぬ。傷で、病で、寿命で、狂気で。刺され、噛まれ、斬られ、撃たれ、焼かれ、縊られ、轢かれ。簡単に死ぬ生き物だ。無為に、死ぬ生き物だ。


 ならば──フィリップの役に立て。その未知を、せめて払ってから死んでくれ。


 フィリップの心中で何かが牙を剥く。唸り声を上げる、屈強な四肢に鋭い鉤爪を持ったそれは、利己心だけを集めて煮詰めたような醜悪な瞳の獣だ。


 しかし、フィリップにとって、そして衛士たちにとって幸運なことに、それと良心がせめぎ合っている間に第三者が声を掛けてきた。


 「待ちたまえ、フィリップ・カーター君」


 脇道から現れたのは、長い黒髪に端正な顔立ちの青年だった。

 衛士たちのものとは違う甲冑を纏っており、騎士か何かだと推察できる。しかし、衛士二人の反応はフィリップの予想とは違うものだった。


 「武装状態での王都内の移動は禁止されている。冒険者であれば認識票と依頼カードを、旅人であれば入口で発行された許可証を見せて貰おう」


 ヨハンが前に出ると同時、ジェイコブがフィリップを庇うようにして下がらせる。

 王国騎士団や近衛騎士の鎧がどんなものか知らないが、どうやら眼前の男はそれらに属するものではないようだ。


 「悪いが、君たち木っ端の巡視に構っている暇はない。カーター君、緊急の用件がある。一緒に来て貰おう」


 何をいきなり、と、ジェイコブは苦い表情を浮かべる。

 しかし、ヨハンが取った行動はもっと苛烈だった。


 ヨハンは抜剣と同じ動作で青年の首元を目掛けて剣を振り抜く。居合と呼ばれる攻撃法だが、直剣ではその攻撃が持つポテンシャルを最大限に発揮することは出来ない。

 それが原因ではないだろうが、青年は軽くのけぞることで致命の一撃を易々と躱した。


 「ジェイコブ!」

 「応!」


 ジェイコブが空に向けて魔法の光弾を打ち上げる。昼前の空にも映える爆発を伴うそれは、いつぞやに見た信号弾だ。


 「フィリップ君、下がって! 離れ過ぎないように!」


 有無を言わせない圧力を持ったジェイコブの声は、並の少年であれば身体を硬直させてしまうだけの戦意が籠っていた。

 二人は甲冑姿の青年を鋭く睨み付ける。ヨハンはジェイコブとフィリップに聞こえるように、いや、辺りの店や民家に危険を知らせるために、大声で敵の正体を叫んだ。


 「襲撃だ! 敵は高位悪魔、目視1!」


 青年から、ほう、と感心の息が漏れる。


 「そのカテゴライズには物申したいが、何故分かった?」


 確かに、フィリップの目からは人間にしか見えない。擬態の気配も無いし、きっとそれが本来の姿なのだろう。

 ヨハンはどうやって見破ったのか。答え合わせをされて、フィリップはなるほどと手を打つことになる。


 「馬鹿が。口を動かさずに喋るのは高位悪魔の特徴だ」


 盲点だったというように笑い、青年──悪魔は腰に佩いた曲刀を抜き放った。


 「いかにも。ワタシは七十二柱の悪魔が一、ゴエティアにて公爵位を賜るエリゴスである。そこの──カーター少年を差し出せば、いま君たちを殺すことは無いと約束しよう」


 フィリップを指して言うエリゴスに、ヨハンとジェイコブは揃って中指を立てた。


 「いまは、だろう? よしんば未来永劫殺されないとしても、子供を差し出して生き永らえるのは御免だな」

 「全くだ」


 本当に可笑しいと、エリゴスは肩を震わせる。

 曲刀を地面に突き立て、即座の攻撃の意志は無いと示し、口を開かずに言葉を続ける。


 「二人でワタシを相手取る気か? それは自信過剰だぞ。今は退き、仲間を集めてから奪還作戦なり、討伐作戦なりを組むべきだろう」


 その言葉はきっと真実だ。

 衛士二人は剣を構えているが、フィリップに逃げろとは言わない。それはフィリップに人質としての価値を感じているから──ではなく、眼前の悪魔を、フィリップが逃げおおせるだけの時間、抑えておけると言う確固たる根拠が無いからだろう。


 遠ざけて守り切れないのなら、手元で守り切るしかない。その負担がどれだけ大きなものであれ。


 「クク……では、その覚悟に免じて、あと40秒──増援が来るまで待ってやろう。あぁ、準備時間も必要か?」


 嘲るような声色から、その申し出が敬意や善意に拠るものではないと分かる。

 悪魔は嘘を口にしない。そう言ったからには、増援が来るまで攻撃してこないはずだ。それはつまり、二人殺すも増援ごと殺すも同じだということ。


 その自信を、それを齎す力を。衛士たちの決死の覚悟を目の当たりにして──フィリップは首を傾げる。


 眼前の悪魔。フィリップが目的だと明言したそれに、何の価値も見出せない。

 衛士たちは死ぬだろう。悲しめるだろうか。悲しめたとしても、きっとマザーに蘇生を頼むことは無いだろう。適当に悲しんで、適当に冥福を祈って、それで終わりだ。


 悪魔はどうなるだろう。

 ナイ神父が殺すか? マザーが殺すか? それともヨグ=ソトースが殺すか?


 どうだっていい。


 泡沫のようなこの世界で、誰がどう死のうが知ったことじゃない。


 「ジェイコブ! ヨハン!」

 「来てくれたか!」

 「あぁ。もうしばらくで団長と、本気装備が何人か来る! それまで持ち堪えるぞ!」


 路傍の石を見るようなフィリップの目には誰も気付かないまま、状況が変化する。


 衛士たちの増援が到着し、2対1だった戦局は10対1にまで差を広げた。格闘戦は3倍差で絶対有利だというが、それは一人一人が互角の力を持っている場合だ。

 その人数差を前にして、エリゴスは哄笑する。


 「準備はいいか?」


 地面に突き立てていた曲刀は抜き放たれ、禍々しい刃には地獄の黒炎が宿る。


 衛士たちが魔術の詠唱を開始し、剣を構えて陣形を築く。


 「さぁ、祈り給え──!!」


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