第18話
どういう状況だろうか。
なんとなく走り出し、なんとなく慣れた道を選び、教会の近くまで来て。折り返そうとしたらモニカがいて、そのまま教会に連れられて。
ドアを開けたらケンタウロスがいた。
「……え?」
ナイ神父とマザーと何かを話している──少なくとも戦っている様子は無かったが、彼らの仲間ではないはずだ。
フィリップに与えられた智慧は沈黙しており、それが外神にとっての敵や味方、或いは配下や落とし子といった「知っておくべきもの」に値しないと分かる。
だが、彼らの基準は大雑把だと、彼ら自身が言っていた。
どこからどこまでがフィリップにとって外敵となるのか、彼らは判断できない。少なくとも──いまフィリップに向けて猛然と走ってくるケンタウロスのように、明確に敵対行動を取るまでは。
それでは後手に回ってしまう。
フィリップ自身が危険を明確に察知していたとしてもだ。
故にこそ、自己防衛。魔術の修得が求められていた。……とはいえ。
フィリップの心中にあるのは困惑のみ。
上位悪魔の放つ気迫は同格以下の生命に対して恐怖を刻み、戦意を奪い、身体を硬直させる。強者の風格、明確な殺意、圧倒的な存在感。その全てに首を傾げる。
こんなものか、と。
槍は脅威だ。鋭く砥上げられた穂先、よくしなり強靭そうな柄。突く、斬る、叩く、色々な殺し方のできる優れた武器だ。
それを保持する腕が脅威だ。フィリップの胴ほどもある太さの筋肉は、人間のそれより遥かに強い力を秘めている。拳一つで地面を陥没させることもできるだろう。
筋骨隆々の身体を支える足が脅威だ。馬の体躯はしなやかで強靭で、一蹴りでフィリップの頭蓋を破裂させられる。
その全てが──無意味。
「人間を殺すことが出来る」。なるほど、それで? いや、むしろ──わざわざ殺そうとしないと、ヒト程度も殺せないのか?
眼前に迫っていた無価値なものがマザーの触手の翼に打ち据えられ、教会の内装を巻き込んで吹き飛ぶ。
それを無感動に見送り、さて、今のは何だと視線で説明を求める。
「夜はきちんと寝ないと駄目よ? 魔力の回復には食事と睡眠が大切、教えたでしょう?」
駄目か、と、フィリップは諦めを多分に含んだ溜息を零した。
マザーは今のケンタウロスを、フィリップにとっての危険だと認識していなかった。
もしフィリップを危機から救い出した自覚があるのなら、マザーの性格的にまず心配の言葉をかけるはずだ。いや、無事だという確証を得てなお「怖かったでしょう?」と抱擁してくるか。
そのどちらも無いということは──マザーはいま、ただフィリップの元に来るまでの道のりに虫がいたから払った。その程度の認識しかしていない。
「どうしたの? もしかして、私に会いたくなった?」
期待を滲ませ、本気で問いかけるマザー。
さてどう返すかと考え始めた矢先、背中にずしりと重みがかかる。
「え? ちょ、ちょっと、モニカ!? 大丈夫!?」
青白い顔でぐったりとはしているが、外傷や嘔吐の類は見受けられない。
攻撃されたり毒を受けたりしたわけではないようだがと思索を巡らせ、ふと思い当たる節があった。
マザーの触手。
フィリップはさも当然のように認識して、何ならケンタウロスの方に意識を割いていたが、普通はそうはいかない。
シュブ=ニグラス──延いては外神、いや邪神たちは、目視どころかその気配を感じるだけで発狂することもある。ヒトは殺そう、壊そうとするまでも無く、ただ同じ空間に在るだけで勝手に壊れて死んでいく。
存在の格が違う。ナイ神父の目、ヨグ=ソトースの拳、マザーの触手──身体のほんのごく一部を目にするだけで、知性あるものはその知性を呪って死ぬことになる。
遺伝子に刻まれた本能的恐怖──暗闇に光る一対の光源、蜂の羽音、蛇の威嚇音。そういった捕食者や外敵に感じるものとは違う、知的生命体ゆえの未知への恐怖。
無限を恐れ有限に安寧を感じる。そのくせ半端な既知を広げ未知を減らそうとする。その愚かしさの負債は、彼らの弱さゆえに未だ取り立てられていない。
もしも、未知の全てを踏破したら──行き着く先は、あの悍ましき宮殿だ。
「って、現実逃避してる場合じゃないだろ。マザー、モニカの狂気を……ッ」
言い淀む。
フィリップは一度狂気に堕ちたが、マザーによって泥の底から掬い上げられている。
それが必要な処置だったと知っているが、それが良いことだとは思えない。
狂気は、人間に残された最後の逃避場所だ。
恐怖や絶望、嫌悪や憎悪、怒り、悲しみ。人間は様々な感情によって自分自身を傷付ける。狂気はその最終到達点。この上無く平穏に凪いだ精神の死。
死が救済などと嘯くつもりは無い。だが、死ねずに苦しみ続けるより何倍もマシだ。
狂気に堕ちることもできず、全貌すら見えない宇宙的恐怖に苛まれ続けるのは辛いだろう。フィリップではもはや想像しかできないが、そんなことになったら殺してやった方がいい。
「奪う? それとも、記憶だけ改竄しましょうか?」
モニカを抱きかかえているフィリップを一瞥しての質問。
その二択であれば。
「後者を。モニカは──さっきのケンタウロスから僕を庇って気を失ったと」
「えぇ、いいわよ」
とん、と。軽く頭を小突いただけで作業が終わった。何の詠唱も魔術も無く、ただ自分の権能だけで記憶を改竄したか。
モニカに異常が表れないことを確認して、フィリップは長椅子の一つに少女の身体を横たえた。
一息ついて、今度は瓦礫の積み上がった壁際、瀕死のケンタウロスと話しているナイ神父の元へ向かう。
いや──瀕死の、ではない。
そのケンタウロスは完全に死んでいた。殴られた衝撃で身体の内容物が片側を突き破って飛び出している。馬車に轢かれた犬猫の何十倍もグロテスクな死に様に、さしものフィリップもドン引きだった。
これが殺意ある攻撃によって生まれた光景ではなく、ただ進路上にいたから払われた、その結果というのがもうダメ。人が払った羽虫の行く末に興味を抱かないように、マザーもそうだった。
しかも、だ。
仮にも聖職者の恰好を借りているナイ神父は、どう見ても外法と思しき魔術によって、ケンタウロスの魂を壊れ切った肉体に留まらせていた。つまり──ケンタウロスは死んだ身体で生きていた。
ケンタウロスが漏らすのは苦痛の声。
確実に即死しているであろう傷だが、魂が残留していることによって、その痛みを感じているのか。想像するだけで背筋が凍るような痛みに違いない。
マザーに抱いたそれより大きな拒否感を覚えるが、残念ながらフィリップの価値観もかなり歪んでいた。
この年の少年であれば、即座に止めるか逃げ出すか、或いは嘔吐の一つでもするだろう状況。だというのに、フィリップは丸めたダンゴムシを爪弾いて遊ぶ子供に対するような、「仕方ないか」という諦めと呆れ程度の拒否感──自分はやらないけど、別に叱りつけるまでもないか、程度のものしか抱かない。
ケンタウロスに正面から相対し、攻撃されてなお「無価値」と断じたフィリップだ。
ならば、この拒否感は。
(あぁ──そうか。これは“気持ち悪い”だけか)
無価値なものが無感動に殺され、その命を弄ばれ──何の感動も無い。
ただ、身体の内容物を片面から溢れさせ、血と内臓で床を汚し、あまつさえその状態で生き永らえ、痙攣し痛みに呻いている眼前のそれが。ただただ気色悪い。
馬車に轢かれた蛙が内臓をぶちまけ、痙攣している。
それに対して抱く感想から「気持ち悪い」以外の一切を取り払ったような、冷たく酷薄な感動。数分もすれば記憶からも消える、その程度のもの。
マザーとナイ神父の行いを、フィリップの感想も、どちらも命への冒涜だと、見た者がいれば全員がそう詰ることだろう。
そして、三人は笑う。この程度のことが冒涜とは、と。もしかしたらナイ神父は戯れに白痴の魔王を讃える言葉を唱え、これこそが冒涜だと示すかもしれないが──その場合、フィリップは真顔になる。
「ビフロンス……でしたか? 伯爵位らしいですが、貴方のボスはゴエティアの悪魔ですか? それとも、魔王でしょうか」
零れ落ちた内臓を椅子の残骸らしき木材で突っつく様子は、虫で遊ぶ子供のそれと大差がない。
質問などして尋問の真似事をしているが、苦痛が大きすぎて回答どころかまともな思考すら出来ていないように見える。
どうでもいいからモニカが起きる前に仕舞いにしてほしい、と。フィリップは溜息を吐いた。
◇
王都地下下水道、悪魔たちによって居住性を高められたその一角に、張り詰めた空気が漂っていた。
二つ並んだ玉座の右側には騎士の悪魔エリゴスが。左の玉座には竜の身体に人と犬と鷲の三頭をくっつけた異形の悪魔ブネが座る。
その足元に傅く数多くの中位・高位の悪魔たち。近衛騎士団を壊滅させられるほどの数がいたが、その全てが身体を縮め、震えていた。
原因は言わずもがな、玉座に坐する最高位悪魔二人の放つプレッシャーだ。
「ビフロンスもやられた、か」
そう呟いたのはブネだ。エリゴスが黙したまま頷きを返し、二人は同時に溜息をついた。
「これ以上、魔王様をお待たせするわけにはいかん」
「左様。……最早、我らが動くほかあるまいて」
言うと、ブネは三つの頭にある全ての目を閉じる。
エリゴスもそれに倣い、昂った心を落ち着けるため深呼吸を繰り返した。
数秒の沈黙を経て、今度はエリゴスから口を開く。
「あの神父の仕業だろうな。生憎、“目”は教会に入れなかったが……封殺する手は見つけた」
エリゴスに脳裏に浮かぶのは、ビフロンスが死ぬ直前に教会へ入っていた少年だ。
ビフロンスは彼が表れた瞬間に、それまでの遊びが嘘のように一瞬で殺された。まるで──彼を守るように。
「ワタシがそれを用意する。ブネ、君はその間、神父を抑えておいてくれるか?」
「構わん。だが、いいのか? 神父など捨て置き、計画を実行すべきではないのか?」
いや、と、エリゴスは険しい顔で首を振る。
「あの神父は無視できない。どうせ敵対することになるのなら、対抗策を持ったうえでこちらから仕掛けるべきだ」
そこまでの相手かと驚きつつ、ブネはしっかりと頷いた。
エリゴスが立ち上がり、足元に傅く悪魔たちを睥睨する。
「半数はワタシと来い。残りはブネ、お前が使え。明日の正午、行動を開始する」
斯くして──悪魔たちは破滅へと転がり始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます