第17話

 教会全てを吹き飛ばすつもりで攻撃した男だったが、壁や聖女像を舐めた炎は逆再生のように収束していく。

 蝋燭の火のようなサイズまで収束された炎を握り消し、眼前の神父は嘲りも露わな笑顔を浮かべた。


 「攻撃というのは、範囲が広ければいいというものではありません」


 攻撃魔術──それも建造物を一撃で倒壊させるほどの威力のそれを、こうも容易く制圧するか。


 「……見事だ。貴様がハーゲンティを殺したという神父で相違ないな?」


 めきめきと不快な音を立てながら、男の姿形が変わる。

 後頭部からもう一つ顔がせり出し、下半身は馬のような四足歩行に。体長もそれに応じて肥大し、長身のナイ神父をすら見下すほどだ。


 「我こそはビフロンス。魔王サタン様の親衛隊たるゴエティアにて、伯爵位を戴く者である」


 そう名乗りを上げ、片手に持った槍を床に打ち付ける双頭のケンタウロス。

 嘲笑を消さないナイ神父もそうだが、我関せずと虚空を見つめている──より正確には使い魔の視界を使ってフィリップを見つめているのだが、そんなことはビフロンスには分からない──マザーにも苛立ちを覚える。


 72柱の悪魔、ゴエティアといえば、魔王軍最強の四天王にも並ぶ精鋭だ。

 その名を聞いてなお、嘲り、無視するだと?


 不遜! 傲慢!


 「畏れ、怯えよ!」


 ビフロンスの怒りを込めた豪速の突きが神父の喉元を目掛けて繰り出される。

 避けることもできない神父の首に命中し──鋼を突いたような痺れに握っていた槍を取り落としそうになった。


 「防御魔術か、いつの間に!?」


 槍を両手で握り直し、ナイ神父を睨み付ける。

 詠唱の素振りをビフロンスに悟らせない戦闘技量。悪魔の膂力に耐えうる防御魔術の強度。まだ年若い人間が身に着けるにしては高度に過ぎるものだ。


 ハーゲンティを殺したというのも納得の才覚。称賛に値する。


 「中々に強いな。では、先に──」


 槍を振り、穂先をマザーに突き付ける。

 この期に及んでなお柔らかな微笑を浮かべて虚空を見つめている女は不気味だが、魔術の気配は感じない。


 「貴様から殺すとしよう!」


 喪服のヴェールもろとも首を断ち、虎落笛のような音を立てながら吹き上がる血を見せれば、神父の薄ら笑いも歪むことだろう。

 そんな思考は、何の変哲もないレースの編み込まれた喪服に鋼の穂先が弾かれた時点で掻き消えた。


 「ば、馬鹿な!?」


 二度、三度と斬り付けてなお、何の痛痒も感じていないかのように無視を続ける女に恐怖すら覚える。


 いや、痛痒どころか──気付いてもいない?


 「せめて防御魔術くらい使ってはどうです?」


 神父の呆れ声も聞こえていないようだが、そんなことも気にならないほどの衝撃がビフロンスを打ち据えていた。


 何の──何の対策もなく、槍の一撃を受けた?

 馬鹿な、在り得ない。ビフロンスがどうこうではなく、たとえ子供が戯れに斬り付けただけでも簡単に首が落ちるだけの鋭さの槍を?


 服? そうか。魔術師の纏うローブには強い魔力が込められ、防御魔術やエンチャント無しでもある程度の防御力を持つ。

 い、いや、だが、この女の喪服には何も感じない。魔力は残滓すら感じ取れず、見れば見るほど精緻で繊細な薄布という印象を抱く。


 ビフロンスは己の持つ全ての知識を動員し──万事を知るという悪魔の叡智を以てしてなお、分からない。


 未知は、怖い。

 何も知らないことは怖い。中途半端な知識は怖い。ほぼ完全な中の、ほんの少しの欠落が怖い。


 では。全知の存在が直面した未知は、一体どれほどの恐怖なのだろうか。


 「ば、馬鹿な!? あ、あり、在り得るかッ!! そんな……私の、私たち悪魔の知らないことなどッ……!」


 喚く。囀る。

 ゴエティア、72柱の悪魔に数えられ、中でも伯爵位を戴くほどの高位悪魔が。

 啼き恐れるほどの未知。知らず後退するほどの恐怖。


 なまじ高度な知性と深い智慧があるだけに、眼前の女と背後の男の異常性を理解できてしまった。


 悪魔は全てを知っている。全知全能たる唯一神に造られた、かつての天使は。

 知っている。唯一神が創り給うたこの世の全てを知っている。──その気になっていたことを、いま知った。


 フィリップなら、全知など在り得ないと呆れるだろうか。或いは智慧の深さに同情し、憐れむだろうか。

 いや、きっと──フィリップは笑う。「それは知らないままでいいことなのに」と。


 視界が揺らぎ、音が遠退く。


 神父の嘲笑は変わらず神経を逆撫でし、女の無関心が怖気を催す。


 「おっと」


 愉快そうな声。

 神父の上げたそれに続いて、古びた金属の上げる軋みが耳に届いた。


 「……え?」


 蝶番の音。

 そう理解したときには視線は扉に向いており、女と神父、そして自分を順繰りに見る金髪の子供が目に入った。


 少年が呆然と漏らした声は、異形なるこの身に対する驚きと怯えか。 


 「フィリップ君、いらっしゃい。こんな夜中にどうしたの?」


 今まで何の反応もしなかった女が、気付けば立ち上がって満面の笑みを浮かべている。

 その表情と雰囲気の差に呑まれそうになりながらも、ビフロンスの頭脳は現状を正確に理解していた。


 未知の強者二人と、価値の高いらしい少年。


 理解のできない二人から逃れるように馬の体躯を活用し、凄まじい速度で動く。

 この現状を打破するための解決策。人質を手中に収めるために。



 ◇



 フィリップが魔術を習いに教会に通い始めてから、約一週間。

 上手くいっていないのは、毎日疲れた顔で落ち込んで帰ってくるフィリップを見れば簡単に分かった。

 

 魔術の才能が無いモニカでは、フィリップの苦悩を解決してあげることはできない。

 せめて何か出来ることはないかと考え、少しばかりの夜更かしをしていたら、窓の下を走っていくフィリップの背中が見えた。


 慌ててその背中を追いかけると、フィリップはどうやら教会に向かっているようだった。

 今から訓練に行く、という訳ではないのは、体力を気にした様子もない全力疾走ですぐに分かった。大方、ストレス発散に走り出して、身体が勝手に行き慣れた道を選んでいるのだろう。


 「はぁ……はぁ……」


 意外にもフィリップは健脚で、そう足が遅いわけでもないモニカを突き放して走る。行き先が分っていなければ見失っていたかもしれない。

 しばらく走って教会へはもう少しという所まで来ると、フィリップも息切れを起こして立ち止まり、膝に手を付いていた。


 モニカは何となく見つかってはいけないような気分になっていたが、壁に身体を隠しても荒い息を整えるのに苦心していては意味が無い。


 「ふぅ……モニカ、何してるの?」


 まさか見つかると思っていなかったモニカが飛び上がるのを見て、フィリップが呆れたような笑みをこぼす。

 ぱたぱた足音を立てて後ろを付いて走り、荒い息を押し殺しもせず零していては見つけるなという方が難しい。


 「僕を追いかけてきたの?」

 「……そうよ。こんな時間に一人で外に出ちゃ駄目じゃない。お母さんに怒られるわよ」


 ぷりぷり怒って見せてはいるが、もしアガタに見つかれば怒られるのは二人とも同じだ。

 何も考えずにフィリップを追ってきたことを少しばかり後悔しながら、モニカはフィリップの手を取る。


 そのまま先導するように手を引くが、フィリップは反対側に進もうとして不思議そうに立ち止まった。


 「帰らないの?」


 フィリップの言葉に、モニカは快活に──というには下心を滲ませて笑った。


 「折角ここまで来たんだもの。神父さまに送ってもらいましょ」

 「えぇ……まぁ、うん、いいよ。行こう」


 何が嫌なのかは分からないが、フィリップは少し逡巡してついてきた。

 教会に着くころには、歩幅の大きいフィリップが先を歩くかたちになっていた。古いながら手入れのされている扉は、心地よい軋みを上げてゆっくりと開く。


 「……え?」


 そんな素っ頓狂な声を上げたフィリップの身体を避け、何があるのかと教会の中を覗く。

 意外そうな顔の神父が真っ先に目に入るが、それ以上に無視出来ないものが即座に視線を奪い取った。


 どこか焦ったような、怯えたような顔で猛然と走ってくるケンタウロス。

 その豪脚は小さな教会の回廊を一瞬で駆け抜け、フィリップを捕まえようと右手が伸びる。


 守らなくちゃ。

 そう意識しているのに、身体はピクリとも動かない。


 あの地下牢で相対したカルトの教主。破綻者の男も怖かったが、眼前の異形はその比ではない。人間と悪魔の間にある隔絶した生命体としての格差。

 自分より強い生物の放つ気迫が、モニカの身体を凍り付かせていた。


 頭は回る。だが空転だ。現状を打破する名案は思い付かない。

 姉貴分としてフィリップを──弟分を守らなければ。ほんの少し身体を引っ張るだけで、教会の外に出られる。扉を閉じて、あの怪物から逃げ出して、衛士を呼んで。それまで逃げられる? 分からない。まずはフィリップを助けて、一緒に逃げて、神父さまとマザーは? えっと。えっと。


 一瞬の思考。

 その一瞬はケンタウロスがフィリップを捉えるのに十分な時間のはず。だが──


 「──ァ」


 断末魔。

 大きな手のようなものに横殴りにされ、ケンタウロスが吹き飛んでいく。


 並んだ長椅子は緩衝材にもならず、軌道上にあった全てを木片に変えて諸共に壁に激突し、ぐったりと横たわった。


 一体、何が。

 ケンタウロスを殴り飛ばした巨大な手は──いや、それは手ではない。


 黒光りする、粘液にまみれた気味の悪い触手。それが何本も絡み合って織り上げられた、見るも悍ましい吐き気を催す翼。

 鳥、竜、天使、悪魔。翼ある生物は数多いが、そのどれとも似付かない。およそ地上に在ってはならない醜悪な形のそれを辿ると、満面の笑みを浮かべるマザーの背中に辿り着いた。


 彼女は聞くだけで吐きそうな音を立てながら、体躯の何十倍もありそうな翼を収納していく。

 あのケンタウロスから感じた威圧感のようなものは一切感じられない。だというのに、モニカは一歩も動けなかった。


 フィリップの服の裾を掴んだ手が震える。

 足も、歯も、恐怖を反映する器官の全てが一斉に恐れを叫んでいる。だが逃げられない。事ここに至り、フィリップを庇うという意識は頭から吹っ飛んでいた。


 軽快に近付いて来たマザーは、呆然とするフィリップの頭を小突いて片目を閉じた。


 「夜はきちんと寝ないと駄目よ? 魔力の回復には食事と睡眠が大切、教えたでしょう?」


 フィリップの呆れたような溜息を最後に聞いて、モニカはその意識を手放した。

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