第16話

 フィリップ・カーターの朝は早い。


 カーテンの隙間から差し込む朝日で目覚めると、窓を開け朝の清涼な空気を吸い、昇ったばかりの陽光を浴びて一日の始まりを実感する。

 向かいの家の屋根に止まったカラスが深々と頭を下げる。一瞬だけその輪郭が揺らぎ、その身体を編んでいた漆黒の触手が蠢いた。


 見慣れた光景に溜息をこぼし、洗面台へ向かう。

 顔を洗って気持ちを仕事モードにセットしたら、次は厨房だ。


 顔を合わせた料理人や従業員たちと挨拶を交わしつつ、既に用意されている朝食を摂る。皿洗いは料理人見習いたちの仕事だ。フィリップはごちそうさまと告げるだけでいい、というか、それ以上のことは仕事を奪うことになり、フィリップが怒られてしまう。


 故郷との文化の違いにも慣れたことを自覚しつつ、全員の名前と割り当てられた仕事が書いてあるボードを見る。

 今朝は空き部屋1つのセッティング。既に掃除は終わっているようなので、担当者はフィリップ一人だ。


 作業の音で起こすのは不味いため、宿泊客の大半が起き出し、食堂へ向う時間帯を待つ。

 その間は自分で書き留めたノートを使い、邪神たちの魔術講義を復習する。ちょっとした魔導書になりつつあるそれを万が一にも覗き見られないよう、細心の注意を払わなければならない。


 朝分の作業を終えたら、大通りの出店なども開き始めるいい時間帯だ。教会へ向かう旨をボードへ書き込み、帰宅時間は暫定で夕食前としておく。


 教会に向かう道すがら、フィリップは訓練の進捗を思い返し──深いため息を吐いた。


 クトゥグアの召喚と使役。

 難易度はそう高くない魔術だが、フィリップはこの一週間の訓練で試行した100回以上、一度も成功していない。


 一番初めの一回。

 クトゥグアの召喚そのものには成功したのだが──


 拍子抜けするフィリップと我が子の成長を喜ぶように拍手するマザーを他所に、召喚された極小の恒星は、顔を引き攣らせたナイ神父を灰も残さず焼き払った。そのまま呆然とするフィリップを完全に無視して、追放も帰還も命じていないのに勝手に帰った。


 その後の全ての試行において、ナイ神父が近くにいなければ召喚を拒否し、ナイ神父がいれば彼を焼き殺して満足して帰っていくだけ。

 何もできないと言っても過言では無かった。


 フィリップに実害が出ていないからか、外神たちが完全に傍観しているのが救いだった。

 これで外神対旧支配者の戦争にでもなっていれば本当に笑えない。まぁ彼らの目的はあくまでフィリップの保護で、それは忠誠心や愛情に拠るものではないし、この反応も当然だが。


 「おはようございます」

 「フィリップ君、おはよう」


 教会に入ると、ナイ神父はおらず、マザーがふわりと微笑んで挨拶を返した。

 今日はまた失敗を重ねる日かと落胆する。どうせならクトゥグアに焼き払われるナイ神父を見る方がストレス解消になるのだが。召喚に成功する感触を体で覚えるのは効果的だろうし。


 殺しても殺しても無限の残機で帰ってくるナイ神父だ。逃げたのではなく今日は無しでの召喚の練習をしろということだろう。


 「今日は一日餌無しだけど、頑張ってね」

 「はい、マザー」


 答えると、マザーが教会の壁や天井に沿って防御魔術を展開する。万が一クトゥグアやヤマンソが暴走した場合に備えたものだ。



 その日は一度も成功しなかった。


 ステンドグラスから差し込む夕日で帰り時を察する。消費した魔力は倦怠感を齎し、それが何の成果も挙げていないという事実が負担を倍以上に錯覚させる。

 頭を撫でたり抱擁したりして励まそうとするマザーを適当に躱し、店の閉じ始めた大通りを歩く。


 俯いた視線の先には数歩先の地面しかなく、沈み切った思考はオートパイロットで宿までの道のりを歩かせる。


 一週間連続の失敗は、フィリップのプライドを酷く傷つけていた。

 今でこそ自分を含む人間という種族そのものを見限ったように振る舞えるが、その前──あの地下祭祀場で絶望する前は、フィリップはそれなりに自信を持っていた。


 実家の手伝いで大きなミスをしたことは一度もない。新しい仕事を任された時も、先輩の仕事ぶりを見て、それを拙いながら模倣することが出来た。

 フィリップは天才ではない。だが決して無能では無かったし、努力すれば確実に結果を残すだけの才を備えていた。


 仕事はそれを顕著に自覚させ、フィリップは自信を持って仕事に取組み、それがさらなる結果を挙げる。自己昇華の螺旋が綺麗に成立していたのだ。


 だが──ここに来て、フィリップは自分の無能を見せつけられた気分になった。


 そもそも人間風情がクトゥグアを召喚し使役しようとするのが分を弁えない傲慢で、アザトースの加護がなければそれこそ100回死んでいる。100回以上の試行を重ね、未だ健在であるというだけで喜び咽び泣くのが普通だ。

 その幸運の上に立ち。フィリップは──自らの弱さを唾棄する。


 何度でも試行できる土台を用意されて、何故、未だに成功しないのか。

 決まっている。フィリップが脆弱で、矮小で、存在の格が劣るからだ。


 何もできない。本来ならクトゥグアを視認しただけで発狂死する人間風情が、何をやれる気になっていたのか。


 クトゥグアを使役して神父への対抗手段にする? お笑い種だ。

 所詮は人間。共通認識に寄生する蛆虫を神と崇めるような種族だ。本物の神──偉大で強大なるものどもに抗おうなど、分を弁えないにも限度がある。身の程を知るべきだ。


 「あー、駄目だ。弱気になってる」


 敢えて口に出し、ベッドを抜け出す。

 気持ちを切り替えようと、フィリップは夜の街をランニングすることにした。


 その背中を触手で編まれたカラスが追ってくるが、フィリップは気付かない。さらにその後ろ、フィリップを見失うギリギリの距離を走って追いかける、少女にも。




 ◇ 




 フィリップ出奔と同時刻、投石教会。


 マザーは使い魔の触手カラス越しにフィリップを見ており、ナイ神父は梯子を使って聖女像に登り、石の表面に微小な文字を刻んでいた。この作業はこの教会に住み着いて以降ずっと続けているが、触手も権能も使わず、針のような彫刻刀を扱っているので、まだ頭部の半分にも刻み終えていなかった。


 フィリップはそもそも作業を知らず、マザーは興味が無いので誰も「何をしているのか」と尋ねていない。だからナイ神父が刻んでいる文句の内容は彼しか知らないが、極小の邪悪言語で刻まれているのはアザトースを讃える言葉の数々だ。

 この作業ペースでいけば、1年程度で聖女像の全身に文字が刻まれる。この教会を訪れた信徒たちは、アザトースを讃える言葉が全身に刻まれた聖女像に跪き、祈ることになるだろう。


 アザトースは信仰に依って力を左右される小さな存在ではないし、そもそも信仰されていると知覚するだけの知性がない。


 完全にナイ神父の趣味であった。


 「あの子の後ろを走ってるヒトがいるわ。殺す?」


 フィリップを見守っているマザーが言うと、ナイ神父は作業の手を止めて振り返り、明確な嘲笑と呆れを向けた。


 「金髪の少女でしょう? 彼の姉貴分です。殺しても構いませんが、あとで確実に怒られますよ」

 「じゃあやめておくわ」

 「そろそろ人間の顔と個体間の関係を覚えてはいかがです? まだ彼しか認識できないでしょう?」


 作業に飽きたのか、ナイ神父は梯子から飛び降りると、持っていた工具を片付け始めた。


 「ちょっと、馬鹿にしないで頂戴。ヒトの個体差くらい、ちゃんと見れば分かりますー」

 「きちんと個体を識別して、それを記憶しましょうと言っているんですよ」


 マザーの言う個体差の認識は、ヒトが虫に抱くそれと変わらない。

 女王アリと働きアリは体格差で判別が付くが、働きアリAと働きアリBの区別は難しい。数百匹の暮らす蟻の巣から働きアリAを見つけ出せと言われたら不可能。その程度だ。


 強固にマーキングされ、注視しているフィリップは判別できる。だがそれ以外は。


 「それは無理よ。この街にだって何十万ってヒトがいるのよ? もっと整理して欲しいわ」


 ナイ神父が「ダメだこりゃ」と言いたげに肩を竦めるが、使い魔の視界越しにフィリップを愛玩しているマザーはそれを完全に無視した。


 ナイ神父が工具を片付け終えて信徒用の椅子に座ると、ちょうどそのタイミングで教会の扉が控えめな軋みを上げて開いた。

 嫌なタイミングでの来客にもかかわらず、いつも通りの微笑を浮かべ、ナイ神父が対応のため歩いていく。


 「こんばんは。夜分遅くにどうされましたか?」


 入ってきたのは帽子を被った背の高い男だった。

 几帳面に扉を閉め、帽子を取って一礼する。


 「こんばんは、神父さま。こんな時間に申し訳ありません」


 平服姿ではあるが、服そのものの仕立ては良く、素材も悪くない。立地ゆえ当然ではあるが、二等地の住民らしい。


 「実は明日、急用ができてしまって。ミサに行けない代わりに、せめて今からお祈りをと思いまして」

 「そうですか。その真摯な祈りは、きっと主もお認めになることでしょう」


 礼を告げて、男は最奥の聖女像の前に跪いた。


 「それにしても、意外ですね」

 「何がです?」


 神父の呟きに祈りを邪魔されても気を悪くした様子もなく、跪いた姿勢のまま話に応じる。


 「高位悪魔ともなると、ミサの代わりに自主礼拝をするのだな、と」


 男の顔から表情の一切が抜け落ち──ナイ神父もマザーも、穏やかな表情の聖女像も纏めて爆炎に呑み込まれた。




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