第15話

 フィリップの疑問は尤もなものに思える。

 絶対者であるヨグ=ソトース、そして外神最強の一角であるナイアーラトテップとシュブ=ニグラスが傍に付いているフィリップを害せるものなど、この世に存在するのか?


 まずいないだろう。ならば、フィリップが魔術を学ぶ意味などないではないか。


 しかし、それはフィリップの──小さな視座と大いなる知識を持つ者からの意見だ。


 「フィリップ君。君は──」

 

 ナイ神父の言葉を遮るように、扉の軋む音がする。

 見れば、数人の心配そうな顔が並んでいた。フィリップにも見覚えがある、近所の人だ。


 「あの、大丈夫ですか……?」

 「すごい音でしたし、なんか壁も崩れてますけど……」

 「悪魔にやられたんですか……?」


 ナイ神父はにこやかな笑顔を浮かべると、「お騒がせして申し訳ない」と会釈しつつ入口へ歩いていく。


 「フィリップ君、あとで──いえ、マザーから説明を受けておいてください」


 これは面倒になっただけだな。フィリップはジト目を向けるが、無意味なことだと悟ってすぐにやめた。

 マザーに向き直ると、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。


 「どうして魔術を学ぶのか、よね。私たちの無能を説明するのは恥ずかしいのだけど──」


 彼女は謙遜をしない。

 誰かを相手に遜る必要が無いし、そもそも彼女より上位にはそれこそアザトースくらいしかいない。


 ならばその言葉は紛れもなく彼女の真意なのだろうが、それでも冗談じみている。


 彼女もナイ神父も、ヨグ=ソトースだって、決して全能ではないと、フィリップは知っている。だが、その権能は人間とは比べ物にならないほど強大なものだ。

 彼女が無能なら、フィリップはどうなる?


 その格差は思い知っているが、フィリップはその言葉に言い知れない不快感を覚えた。言語化できなかったので黙っていたが、マザーは目敏くそれを感じ取っていた。


 「あ、ごめんなさい。貴方を馬鹿にしたつもりはないのよ? えーっと……そうね。私たちに出来ないことを説明するのはって、言い直すわ」


 慌てた様子さえ見せるマザーに、フィリップは自虐的な笑みを浮かべた。

 まさか、人間風情にここまで気を遣うなんて。酔狂な邪神もいたものだ。その考えを理解しようなどとは思わないが。


 「それで、ね? 私たちは、貴方をあらゆる危険から守るつもりよ。でも──その、どの程度なら危険なのか、私たちには分からないの」

 「えっと……?」


 フィリップが疑問を感じていると見るや、マザーはすぐさま言葉を重ねた。


 「えっと、そうね。たとえば、クトゥルフやハスターは、貴方にとって明確な脅威でしょう?」

 「え? えぇ、それは勿論」

 「じゃあ、ノーデンスやヒュプノスは? ゼウスやシヴァはどうかしら? 私たちにしてみれば羽虫との区別が付くくらいだけど、貴方たちはこれをすら“神”と呼ぶのでしょう?」

 「……あぁ、そういうことですか」


 要は、彼らとフィリップの存在の格差が問題なのだ。


 フィリップは──いや、人間は弱い。

 邪神が出るまでもなく、ティンダロスの猟犬やショゴスにだって簡単に負ける。神話生物に限った話ではない。ドラゴン、悪魔、精霊、もっと低俗なオークやゴブリンといった魔物にだって、簡単に命を奪われる。いや、悪意を持たない、毒蛇や蜂といった普通の生物にだって。


 弱い。弱すぎる。だが弱いからこそ、脅威の度合いを測ることができるのだ。


 対して、彼女たち外神は強い。

 脅威の度合いを測る必要が無いほどに。吹けば飛ぶような矮小な存在か、多少本気を出せばどうとでもなる敵か。その程度の認識なのだ。


 フィリップがドラゴンの前に立っていたとして、彼女たちがドラゴンを脅威と判断できるかどうか。

 1ミリと1メートルは大きな差だが、一光年を測り取る定規では1ミリと1メートルは判別できない。そういう話だ。


 つまり、フィリップが最低限自衛できるようになればいい、と。


 「あまり関係のない話ですが、地球の神々の話は、この国──いえ、この大陸ではしない方がいいですよ」

 「えぇ、分かっているわ、ありがとう。一神教は唯一神のみを信仰しているからよね? ……共通認識に寄生する虫を信仰するなんて、ヒトって本当に不思議よね?」

 「はははは……」


 出てこない言葉の代わりに乾いた笑いをこぼしていると、近隣住民への説明を終えたらしいナイ神父が戻ってきた。


 「何やら楽しそうですね?」

 「ははは……ところで、さっきの人たち、悪魔がどうとかって言っていませんでしたか?」


 適当に話題を変えると、二人もそれに乗ってきた。


 「ここ最近、王都の教会が悪魔の襲撃を受けているんですよ。ここはまだですが……この分なら、そう遠くないうちに襲われるはずです」

 「へぇ、教会が。……え? じゃあ、宿の方が安全じゃないですか?」


 なんでわざわざ襲われる可能性のある場所に長時間滞在させるのか。当初の予定では泊まり込みだったし、ほぼ確実に襲撃を受けることになる。

 悪魔程度が彼らの守護を抜けるかと言われれば勿論ノーだが、最も確実な防御は危険から守ることではなく、危険に近付けないことだ。


 「敵と危険度が明確な方が、訓練にも身が入るでしょう?」


 言って、ナイ神父はにっこりと笑う。

 マザーが怒る気配も無ければ、世界に殴られもしない。邪神たちは思ったよりスパルタだった。


 「な、なるほど……?」


 フィリップ自身、その理屈に納得してしまっていた。

 確かに、何をするにしても目標の設定は大事だ。「悪魔を撃退する」という目的……に、対してクトゥグアの召喚は些か以上に過剰だが、まぁ、うん。そこには目を瞑ろう。


 「では、早速理論から教えます。現在の大陸で浸透している魔術体系は、太古に唯一神が人に授けたものとされていますが──」


 思ったより本格的な講義の予感に目を白黒させていたフィリップだが、数日後には魔術理論にも慣れ、現代魔術との大きな差異に頭を抱えるまでになっていた。



 ◇



 現代魔術:遥か昔に唯一神が人間に与えたと言われる魔術、その体系全般を指す。魔術の習得には『起動詞』の暗記と『魔術式』の理解、発動に必要な『魔力』の確保が必須である。

 数学で言えば、起動詞は公式の名前、魔術式は公式、魔力は変数に当たる。

 起動詞を詠唱することで魔術式が展開され、威力や持続時間といった欲しい「解」に応じた変数、つまり魔力が消費される。


  例)《ファイアー・ボール》(起動式)

    『威力』=『消費魔力』*1(魔術式)


             神が与えた云々は後付けのストーリーであるため、無視してよい。


 起動詞:詠唱文、詠唱句、その他いろいろな呼び方がある。呪文と言えば伝わる。起動詞と魔術式に直接的な関係性はないはずだが、起動詞が違うと魔術式が展開されない。

 魔術式:魔術の発動に関わる根幹の部分。魔術によって変数の数や係数は様々で、効果が高いほど難解な傾向にある。

 魔力:魔術発動に際して消費される精神力。生きる意志とも言われる。消費量は魔術式が導き出す解に依存する。


 クルーシュチャ方程式:ナイ神父オリジナルの魔術式。解いてみろと言われたが、難解過ぎて分からなかった。あとヨグ=ソトースとマザーに殴られていたので、きっとろくな魔術じゃない。


  いちおう、魔術式を書き残しておく。


      『塗り潰された跡』


        マザーに聞いた。やっぱり碌なものじゃなかったし、解かなくて良かった。





 領域外魔術:現代魔術とは全く違う、外神や旧支配者由来の魔術。習得には呪文の暗記と、呪文やゆかりのある対象への理解が求められる。

 つまり僕は呪文の暗記だけでいいということか。ラッキー。


 違った。

 魔術の発動には魔力が必須。場合によっては正気度も必要らしいが、こちらはマザーの加護で減らないので問題ない。

 これからは魔力を成長させる訓練をすることになるだろう。


 あと、こちらの魔術は一定確率で失敗するし、召喚や交信、接続系の魔術は相手や経路の都合で大惨事になる可能性もある。どうせ練習するなら現代魔術の方がよかった。



                    ──フィリップの魔術ノート vol.1



 ◇




 邪神たちによる講義開始から1週間ほどで、フィリップは魔術を実践する段階に至った。

 その成長速度はナイ神父にとっては意外で、マザーにとっては非常に喜ばしいことだったのだが、フィリップは理解を積めば積むほどにやる気がなくなっていた。


 というのも──


 「領域外魔術が使い辛いことこの上なくて笑えますね。なんですかこの汎用性の無さは」


 たとえば、現代魔術における火属性攻撃魔術。

 火球を射出する《ファイアー・ボール》。それより貫通力に長けた《ファイアー・ランス》。炎の壁を作り出す《ファイアー・ウォール》。武器に火属性を付与する《エンチャント・フレイム》。火に耐性を与える《プロテクション・ファイア》。

 ぱっと思いつく初級魔術だけでこれだけある。


 対して領域外魔術、特に召喚術はといえば。


 「炎の精の召喚、フサッグァの召喚。その次はアフーム=ザー? その次がクトゥグアで、その次はヤマンソ? 何ですかこの10か100か1000みたいな。冗談は存在だけにしてくださいね」


 大は小を兼ねると言うが、ことこの分野に関してはそうはいかない。

 現代魔術に与えられた選択肢が弱火から強火だとしたら、領域外魔術にある選択肢は『家を焼く』『街を焼く』『国を焼く』『大陸を焼く』『星を焼く』なのだ。


 フィリップがぷりぷりしているのを愛おしそうに見つめながら、マザーがぽつりと呟く。


 「憑依顕現を使えば、制御も効くんじゃないかしら?」

 「本当ですか!?」


 目の前に釣られた餌に飛びつくフィリップ。

 が、飛びついた直後、その苦々しい字面に気付いた。


 「ん? 憑依……?」


 語感からしてもう嫌な予感しかしないが、いちおう聞いておこうじゃないか。


 「えぇ。貴方の肉体に外神を降ろすの。そうしたら、きっと自分の手足のようにその権能を使えるわよ? やってみる?」

 「あ、いえ、結構です」


 フィリップは自分の精神が健全な人間であるなどと嘯くつもりはないが、人間を辞めたとまで言うつもりも、今後辞める予定も無い。 

 邪神たちの知識や視座を得たフィリップがまだ辛うじて人間にしがみついていられるのは、肉体的に脆弱だからだ。弱いものとして、人間としての価値観を持ち続けるのに、この脆弱な身体は必須だった。


 ただでさえフィリップは「ヒトは矮小で脆弱である」ということを理解しているのだ。自分がそこから外れてしまったらどうなるか、フィリップ自身にすら想像が付かない。


 「では、きちんと召喚対象を使役できるようになりましょう。目標はクトゥグアですよ。さぁ」


 ナイ神父に促され、フィリップは魔力を集中する。

 

 「ふぅ……」


 召喚に必要なのは、呼び出す相手に対する理解だ。

 こと外神に関しては理解など無くとも問題ないが、旧支配者となれば話は別。きちんとした理解、きちんとした詠唱が不可欠だ。特に、暴走すれば町一つを簡単に焼き払える相手を呼び出す時は。


 「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ふぉまるはうと うがあ ぐああ なふるたぐん」


 フィリップの詠唱に合わせ、自動的に魔力が消費される。続けてフィリップの正面、召喚の魔法陣が描かれている場所が燃え上がる。


 いける、と。フィリップはそう直感した。


 詠唱は最後に召喚対象を称えて締めくくられる。このまま一気に──!!


 「いあ くとぅぐあ!」


 

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