第14話

 結局、フィリップは少しでも日常にしがみつくことにした。


 朝起きて宿の仕事をこなし、昼から夕方にかけて教会で魔術を教わり、夜にはまた宿の仕事。

 ハードスケジュールにはなるが、体力的に問題はない。むしろ、宿の仕事で人間と交流するのは、精神の安定にも大きく貢献してくれることだろう。


 もうナチュラルに「人間との交流」なんていう思考が出てくるようになってしまったフィリップだが、自覚は薄い。それが滑稽で、かつ魔術を教えるという当初の目的は達成できるので、ナイ神父はそれを快諾した。


 今日はその初日──


 教会を訪れたフィリップは感情の読めない微笑を浮かべたナイ神父と、歓迎を満面の笑みと抱擁で表したマザーに仏頂面を向けていた。


 「それで、どういう目的があるんですか? 手元に置いておくのが狙いでは無さそうですけど」


 フィリップを守るために手元に置くというのであれば、むしろ朝と夜の就寝中を重視するはずだ。

 そう言うと、ナイ神父は嘲りも露わに肩を竦めた。


 「言ったでしょう? 魔術を教えるためですよ」


 ちらりとマザーの表情を伺うが、嘘を教えられている感じではない。

 ならば本当に魔術を習うことになるのだろうが、正直意味が分からなかった。


 たかだか人間の使える魔術が、邪神に通じるワケがないからだ。


 たとえば、フィリップでも知っている基礎魔術の《ファイアー・ボール》。火球を生成し射出する火属性で最もポピュラーな魔術だ。

 これの火力──攻撃力は、込める魔力の量に依存する。1の魔力では1の威力、10の魔力では10の威力になる。その威力から攻撃対象の魔法防御力を引いた値がおおよそのダメージになる。


 では眼前のナイアーラトテップの魔法防御力は如何ほどかと言えば、当然ながら人間の比ではない。

 フィリップが50人同時に全力で《ファイアー・ボール》を撃ち込んだところで、汗の一滴もかかないだろう。そもそもフィリップは魔術を習ってもいないので、意味のない仮定ではあるが。


 「何の意味があるんですか? まさか、僕に戦えと?」


 自慢ではないが、フィリップは弱い。

 幼少期から仕事を手伝っていたから体力はあるが、それも同年代に比べてという低い指標での話だ。邪神から見て吹けば飛ぶ塵芥なのは人間すべてが当てはまるが、たとえば衛士たちからしても、フィリップはキック一発で殺せるかもしれない程度の存在だ。


 「まさか。そこまで君を評価していませんよ」


 ナイ神父が嘲りも混ぜずに淡々と評する。

 現実を知っているフィリップが無感動に肩を竦め、マザーが少しむっとした顔を向ける。


 「ですから、君には召喚魔術を教えます。……あぁ、安心してください、魔物を使役するようなちゃちなモノではありませんから」


 言われて、フィリップは納得に手を打った。

 確かに召喚魔術であれば、フィリップ自身の脆弱さは問題にならない。聞きかじりだが、高位の召喚魔術であれば天使や悪魔を使役できるという。まさか、そのレベルか。


 最高位に位置するミカエル・ガブリエル・ウリエル・ラファエルの四大天使は流石に無理だとしても、六枚羽の熾天使や、四枚羽の智天使は人間では仰ぎ見ることしかできない魔術を使うという。

 悪魔には72柱という他の悪魔とは比べ物にならない化け物であることを示す称号がある。王位や君主、公爵は無理だとしても、伯爵位でも十分に強いだろう。


 そして、天使の手を借り悪魔を従えた王様の出てくる御伽噺は、故郷に居た頃のフィリップの愛読書だった。


 心が一度壊れているとはいえ、フィリップも少年だ。

 天使遣い。悪魔遣い。かっこいいじゃないか。いいじゃないか! そんな興奮を抱きつつあったのだが


 「では手始めに、クトゥグアを召喚してみましょうか」


 ナイ神父のその言葉で、一気に冷めた。


 というか。


 「生きた炎ですか? あれ……という代名詞が正しいのかは分かりませんが、あれは旧支配者では?」


 フィリップが受けたのは外なる神の加護だ。

 対して、クトゥグアは異なる陣営である旧支配者。


 与えられた知識から疑問を呈すると、ナイ神父は嘲笑交じりに拍手を贈った。


 「そこに気付くとは、教え甲斐のありそうな生徒で嬉しいですよ」

 「えぇ。きちんと知識は身についているようね」


 マザーは純粋に褒めているようだが、頭を撫でるのは止めて欲しい。

 ナイ神父のように肌でも知識でも不快感と拒絶感を覚えるのではなく、マザーには知識でしか嫌悪感を覚えないのだ。むしろ本能や感覚は深い安堵や懐かしさに包まれ、その抱擁に身を委ねたくなってしまう。それでも頭はきちんと悍ましいと理解しているので、そのギャップが苦しい。


 頭に載った手を払ったときに聞こえた残念そうな声は無視して、フィリップは答えを待った。


 「旧支配者と我々外神、どちらが強いと思いますか?」

 「外神」


 即答だった。

 もちろん、外神から無作為に選んだ一柱と旧支配者から同じく選んだ一柱が戦えば、相性や条件の絡んだ勝負になる可能性もある。場合によっては旧支配者が勝つかもしれない。


 だが、外神にはアザトースとヨグ=ソトースという規格外が存在する。

 ヨグ=ソトースは万物の原型、窮極の雛型。あらゆる外神、そしてあらゆる旧支配者もまた、彼なのだ。

 そしてアザトース。この世の全てを夢見るもの。


 「えぇ。無知蒙昧なる父王と、門番気取りの引き篭もり副王。あの二柱だけで、旧支配者全員を相手取れることでしょうね」

 「だからこそ──私たちの庇護を受ける貴方に、誰も手出しできないのよ」

 「……虎の威を借りよう、と」


 狐というか、トラにくっついたダニが近いか。冗談みたいな存在の格差だ。

 

 期待を裏切られたのは腹立たしいが、クトゥグアを呼べるというのはいい。なんせ、あれの配下である炎の精は太古の昔、ナイアーラトテップの棲みかを焼き払い、追い出している。

 対抗手段としてはその上位であるクトゥグアは素晴らしいカードだ。万が一、召喚に失敗しても、出てくるヤマンソは外神。つまりフィリップを焼き払うことは無い。


 内心に反骨の炎を灯し、フィリップは決意の笑みを浮かべた。


 「分かりました、やります」


 だがフィリップは知らない。


 ナイアーラトテップは移動しただけだということを。

 たかが炎の精の上位存在、恒星が意志を持った程度の熱量でナイアーラトテップを殺し切ることなど出来はしないということを。


 勿論、化身の10や100は一度に焼き殺せる。

 だが、ナイアーラトテップは無数の化身を持つ。無限から10を引こうが1000を引こうが、大した意味はない。


 懸命に対抗手段を会得しようと意気込んでいるフィリップにそれをバラすのは、いったいどのタイミングが最も面白いだろうか。やはり、呪文を習得し達成感に浸っている時か。そこが一番効果的だ。


 その時どんな表情をするだろうか。


 落胆? いや、激昂か? 真偽を確かめようとダメもとでクトゥグアを召喚するだろうか。ならばそのとき、眼前で彼奴を屠ってやろう。

 希望を眼前で完膚なきまでに叩きのめし、ついでに個人的な恨みも晴らしてしまおうじゃあないか。


 絶望するだろうか。それはいい。絶対に壊れないようになっている人間に壊れるほどの絶望を与えたらどうなるのか、ここで一つ実験と行こう──


 「あ、そうそう。アレにクトゥグアは通用しないわよ」 

 「……え?」

 「……は?」


 アレ、と、ナイ神父を指して言うマザーに、二人の放心の声が重なった。


 「マザー? 何を言って──」


 実験計画を立てた傍から破り捨てられ、震え声でナイ神父が怒り混じりに疑問を投げる。

 しかし、マザーの怒りはもっと大きかった。


 無言でナイ神父を睨み付ける。しかし、銀色だった瞳は形容しがたい色に輝いており、神威に加えてもっと悍ましい何かも漏れ出している。


 「そ、そうなんですか……?」


 マザーはしょんぼりした顔のフィリップの頭を撫でて慰める。

 今度は手を払われなかった。


 タイミングがとこんなものか、と落胆の表情を浮かべたナイ神父が、とてつもなく重いものに衝突したような挙動で吹き飛んで壁にめり込んだ。


 轟音と暴風にドン引きしてはいるが、フィリップがマザーの手を払う様子はない。

 調子に乗ったマザーが抱き締めようと両手を広げるが、流石にフィリップも我に返って軽く避ける。


 マザーはまた残念そうな声を上げるが、フィリップにそれを気にしている余裕はなかった。


 「今のは……?」


 何も見えなかった。

 マザーの触手かと思ったが、違う。マザーはいま完全にナイ神父のことを無視して、フィリップを愛玩していた。


 魔術による圧縮空気弾? 違う。そんなものではナイアーラトテップに効果を及ぼせない。

 空間による攻撃? 違う。空間などではなく、もっと高次のものが動いていたし、何も動いていなかった。


 いまナイ神父を殴りつけたのは──強いていうのなら、世界?


 「まさか……ッ!?」


 よろよろと瓦礫の中から姿を見せたナイ神父は──いや、それは最早ナイ神父では無かった。

 かろうじて人の似姿ではあるが、それはとても人には見えない。足が3本に増え、体長は3メートルほどまで伸びている。二本の腕には鋭い鍵爪が鈍く輝き、ぽっかりと開いた空虚な顔の頭部には、3つの目が燃え上がっている。


 「やれやれ、手より先に口を出して欲しいのですが?」


 存在しない口から恨み節をこぼしつつ、よろよろと歩いてくる。

 本来の姿──という表現は不適切か。脆弱な人の肉体を捨て、邪神の肉体となってなお甚大なダメージがあるようだ。


 「副王よ。貴方が──」


 ナイアーラトテップが何かを言おうとして、それより早く世界に潰されて消滅した。


 唐突に過ぎる出来事にフィリップが呆然としていると、ギィ、と微かな軋みを上げて教会の扉が開いた。

 まぁあれだけの爆音で壁に衝突して、壁が半壊したのだ。近隣住民が様子を見に来るのは当たり前だろう。しかし、理由の説明は面倒だ。


 フィリップが現実逃避ぎみに扉を見遣ると


 「貴方が介入するほどの事でも無いでしょう。ちょっとした実験、しかも未遂ですよ」


 微笑しつつ文句を垂れるナイ神父が入ってきた。


 「次にこの子で実験しようとしたら、貴方にはこの任を外れて貰うわよ」

 「……分かりました。父王の命を遂行できなくなるのは困りますからね」


 やれやれ過保護ですね、とでも言いたげに肩を竦めるナイ神父。

 化身が幾万といるのは知っていたが、こうして直に見ると本当に冗談じみている。


 もう一回くらい殺しておこうかしら、と凄惨な笑みを浮かべるマザーを宥めつつ、フィリップは先ほどの攻撃を思い返していた。


 (副王……ヨグ=ソトース。見られているんだろうとは思っていたけど、まさか直接介入されても分からないなんて)


 殴ったのか蹴ったのか投げたのか、或いはもっと別な方法かは知らないが、さっきナイ神父を吹き飛ばしたのはヨグ=ソトースで間違いない。

 だが、ナイ神父やマザーが見せた神威や存在感といったものを全く感じなかった。


 隠して顕現とか抑えて顕現していたわけではないだろう。100%抑え込めるならともかく、1%でも漏れればそれは暴圧となってフィリップに襲い掛かる。気付かないはずがない。


 あれは──偏在だ。


 ヨグ=ソトースは世界そのもの。

 故にあの時、ナイ神父を殴り飛ばしただった。そこにいたのではなく、そこが彼だった。


 まさに規格外。それが──フィリップを庇護する外神だ。


 「魔術を学ぶ意味、ある……?」


 フィリップは呆然とそう呟いた。



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