第10話
悪魔を殴り飛ばしたジェイコブは、その両拳を焼かれる痛みと魔力欠乏から来る虚脱感で膝を折った。
武器に炎属性を付与し、一時的に魔法武器にする《エンチャント・フレイム》は、確かに悪魔に有効なダメージを与えた。肉を打つ感覚、骨を砕く感覚は確かにあった。しかし、悪魔は顔を砕かれたからといって引き下がるような魔物ではないし、その背後にいる使役者も、その程度で退かせはしないだろう。
むしろ今度こそジェイコブを殺そうとしてくるだろう。今度はこそは、油断も慢心もなく。
「ギハ、ギハハハ! 貴様、ヨクモ……!」
案の定、悪魔は激高しながら立ち上がる。
未だ立ち上がれないジェイコブの元まで来ると、その喉元に槍を突き付けた。
眼前に立った悪魔は嘲笑を向けてはいるが、顔の左半分には深い火傷を負っており、その目には怒りが宿っていた。
どう嬲って殺せば、この屈辱が晴らせるだろうか。そんなことを考えている目だった。
「はは……」
槍を掴むと、悪魔は驚いたように一歩後退る。
いや──怯えたように、か?
「は、ははは……」
ジェイコブの口から笑いが漏れる。
どう考えても押されているのはジェイコブなのに、だ。
「はははははは!」
もう一歩、悪魔が下がろうとして、ジェイコブが槍を掴んでいるが故に失敗する。
その抵抗で自分が怯えていることに気付いたのか、悪魔が奇声を上げた。
「ナニガ可笑シイ!?」
「その──ッ!」
片手を槍から離し、固く握って振りかぶる。
最早魔力は尽きているが、魔術は何も魔力だけをリソースとして使うものではない。
効率は悪く、威力は落ち、何より継戦能力を落とすため、実戦においてはまず使われないもう一つのリソース。
生命力を代用し、再詠唱する。
「──無様がッ! 《エンチャント・フレイム》ッ!!」
炎が拳を包む。
もはや痛みすら感じない。神経までも焼かれたか。
「好都合!」
再度、同じ位置に拳がめり込み、ジェイコブが固く握っていた槍を手放して悪魔が吹き飛ぶ。
悪魔が手放し、ジェイコブの武器となった槍の穂先にも《エンチャント・フレイム》の炎が宿る。
利き手の右にはもはや感覚が無い。仕方なく左で槍を構え、投擲の姿勢を取る。
この距離ならば問題ないだろう。
「ヤ、ヤメ──」
自分の槍で頭部を吹き飛ばされ、悪魔は塵となって消えた。
それを見送ることなく、ジェイコブは今度こそ倒れ込んだ。
やはり、適性のない魔術行使は甚大なダメージを負う。満足感と疲労感、そして戻ってきた両手の痛みを味わいながら、ジェイコブは不思議な足音と二つの金属質な足音の二種類を聞き取っていた。
「ジェイコブ! 大丈夫か!」
遠く、応援に来てくれた衛士たちの声が聞こえる。
しかし、もっと近くに不思議な足音と禍々しい気配が生じ、彼らの接近が止まった。
(なんだ……一体……)
顔を上げると、すぐ側に立つ影がある。
足は異様に細く、四本の指には鋭い爪が生えている。腰から上には羽毛が生えそろっており、黒いコートを着たようなシルエットになっていた。頭部はカラスのそれだが、瞳だけが金色だった。ヒトのような腕には羽毛が無く、背中からは翼が生えている。
人間大に、各部のバランスを無視して無理矢理引き延ばした金眼のカラス。簡単に言えばそんな感じの怪物。
聞き覚えがあった。
金色の瞳を持つのは、魔物ではない本物の悪魔。
しかも、こいつは伝承にも残され、軍学校や魔術学院で必ず習うほどの大物──
「72柱の悪魔──!?」
驚愕の声を漏らすと、それは見下すようにジェイコブを一瞥した。
「左様。七十二柱が一。総裁位を戴くハーゲンティである」
口──正確には嘴だが──を開かずに何処から声を出しているのか不思議だが、それも悪魔の特性の一つ。
こいつらは別格だ。
魔物ではない本物の悪魔。100年前に勇者によって倒された魔王サタン直属の配下であり、世に混沌を齎すもの。中にはドラゴンと同等の力を持つ者までいる、正真正銘の怪物だ。
その言葉には支配の力があり、その瞳には嘘を見抜く力がある。
人間によって支配されることなどなく、気紛れに災厄を齎す忌まわしきもの。
いくら王都衛士団が精強とはいえ、巡回用装備では分が悪い。
「そいつにやられたのか!?」
衛士たちが抜剣する。
一人が前に、もう一人が少し下がる簡易戦闘隊形を取るが、ハーゲンティはそれを不愉快そうに見るだけだった。
「ふむ? 些か、数が足りないのではないか? 貴公らは確かに強いが、その武器、その数では無駄死にだろう」
その分析は正しい。
来てくれた衛士は二人とも前衛物理型だ。ジェイコブの《エンチャント・フレイム》のような隠し玉、切り札の一つ二つあるかもしれないが、それで72柱の悪魔を倒せるとは考えにくい。
せめて防衛戦時に使う本気の装備か、きちんとした付与魔術や攻撃魔術を扱える魔術型の衛士でもいれば違ったのだが。
或いは──
「聖職者でもいれば、意外となんとかなるかもしれませんよ?」
衛士たちとは反対側から、ハーゲンティを挟み込むように。
まるで図っていたかのような、完璧なタイミングで。
カソックに映える金の十字架を胸元で揺らしながら、悠々と現れた。
「ナイ神父……!?」
「ふむ、神父か」
ぱか、と、今まで閉じていた嘴が開かれる。
あれは不味い。悪魔が種族的に持つ特性。その言霊には強力な支配の力がある。
「耳を──」
声が出ない。もうそれだけの力も残っていなかった。
もう、間に合わない。
「『自ら死ね』。その教義に捧げた人生、最期に無駄にすると良い」
たった一句。それだけで人を容易く殺せる。
本物の悪魔とはそういうもの、そのレベルの怪物なのだ。
たった一言で──あの素晴らしい神父様が殺されてしまった。自分が助けなど求めなければ、そんなことは無かったのに。あの素晴らしい御仁は、きっと多くの人を救っただろうに。
ジェイコブは悔恨に固く目を閉じ──驚愕の声で再び目を開けた。
驚愕の声を上げたのは、たったいま神父を殺したはずのハーゲンティだった。
「馬鹿な、何故効かない!?」
「伝説によれば、悪魔の言葉には弱きものを惑わす力があるそうですね。なるほど、完全無詠唱の支配魔術は、確かに格下相手には有効でしょう」
神父はにっこりと、その甘いマスクを際立たせる魅力的な笑顔を浮かべる。
しかし、正面から相対したハーゲンティには、その目の奥に宿る明らかな嘲りが見て取れた。
「なるほど、そこらの木っ端ではないな。たかが神父、たかが人間と侮ったか」
ハーゲンティは努めて冷静に、自分に言い聞かせるようにそう呟く。
だが悪魔にとって、その声は単なる特性に過ぎない。眼前の神父は防御魔術か何かでレジストしたようだが、魔術型ならば肉体的に弱いのが道理。脆く、そして短命な人の身では、物理と魔術の双方を同時に修めようとすれば、どちらも中途半端なものになるからだ。
最上位である72柱の悪魔の言霊を弾くほどの使い手であれば、その人生の全てを魔術に費やしたことだろう。若く、才能もあるようだが、それ故に驕っている。
「だが、姿を晒したのは失策であるな」
高く跳躍し、その鉤爪を振るう。
人の肉どころか金属製の鎧でも容易く切り裂く爪と、その外見の細さからは考えられないほどの剛力を秘めた蹴り。たとえ勇者が相手であっても回避を選択させられるという自信を持つ攻撃だ。
それを。
「蹴りとは。まるで人間のような攻撃ですね」
いとも容易く、何の変哲もないカソックに包まれた右手で受け止めた。
骨が砕ける感触も、肉を割く感触も、飛び散る血の匂いもない。鋼を──いや、鋼であっても切り裂く自信はある。まるで、あの勇者の鎧──アダマンタイトを蹴り付けたような感触だった。
「防ぐか」
侮りは捨てたはずだった。だが、まだ甘かった。
「貴様、勇者にも比肩するな」
「ははは、悪魔というのは、どれも貴方のように近眼なのですか? 勇者と私が比肩など、物が見えていないにも限度があります」
それは単なる謙遜という訳では無かった。
明朗な笑顔の裏には深い嘲笑が潜み、そして僅かな不快感も隠している。
まさか、自分の方が勇者より上だとでもいうつもりか。魔王サタンを下した勇者よりも。
「戯けが!」
ハーゲンティは翼を広げ、その羽を弾幕のように射出する。
着弾と同時に魔力が爆発する特性を持つ羽の弾丸は、面となって神父を覆い隠した。直後、爆発する。
「これも避けるか!」
「当たってくださいと懇願したら、一考くらいはしてあげましょう」
背後にジェイコブを庇うように立ち、ハーゲンティを挑発する。いや──嘲笑する。
何の戦術的な意図もなく、ただ矮小なるものを卑下し、嘲笑う。およそ神職にあるまじき心根だが、それだけに不気味だった。
「貴様からは徳を感じない。神の庇護、寵愛、赦し、そして神への崇敬と祈り。神父ならば当たり前に持ち合わせているものが何一つ感じられない……。貴様、何者だ?」
「──伏せろッ!!」
後ろに庇ったジェイコブのさらに背後からの指示。
神父の姿が掻き消えると同時、4つの影が迫る。
「衛士の増援か。退き時だな」
二人の衛士の挟み込む斬撃と、その頭上から飛来する火球。
もう二人の増援──今度は魔術型だ。衛士は練度だけを見るのなら、ハーゲンティにとっても十分に脅威となり得る。魔法武器や魔術無しでは物理的に傷つかないからこその余裕だったが、些か遊び過ぎた。
「では、このくらいは置いて行って貰いましょう」
衛士たちの攻撃を跳躍して回避し──背後で猛烈な殺気が膨れ上がる。
不味い。これは、本当に、不味い──!!
「ガ、ァッ!?」
顔面を殴り飛ばされて派手に吹き飛び、倉庫の一つにぶち込まれた。その飛翔中にさえ、その気配はぴったりと這い寄ってくる。
自身を埋める瓦礫を吹き飛ばして起き上がると、神父はやはり正面に立っていた。
その右手に握られている、拳より二回りほども大きい拍動するアメジスト。見覚えなど無いが、知識としてハーゲンティはそれを知っていた。
「ふむ。やはり、隷属術式が刻まれていますね。……ボスは誰です?」
「……命程度で、契約を違えるわけが無かろう」
神父が握っているのは、ハーゲンティの心臓だった。
拳より大きな宝石、しかも魔術的な力を多く含む悪魔の心臓を破壊するのは容易いことでは無い。しかし、もしあれが破壊されれば、ハーゲンティの身体は速やかに死を迎え消滅する。
だが、それがどうしたというのか。悪魔は魂が破壊されない限り、無限に転生することができる。
ここで殺されたところで魂は地獄へと戻り、肉体はまた再構成され、召喚の時を待つことになるだけだ。
悪魔の魂のような強力な存在を破壊するには、契約を破らせるか、より上位の存在による攻撃しかない。たかだか神父、それも徳の低いこの男に、そんな攻撃手段があるとは思えない。
だいたい、72柱に列席するということは、すなわち全悪魔の中で最高位であることを示す。
「私を真に殺したいのであれば、最低でも座天使の加護を受けてから──は?」
書き換わった。
ハーゲンティの魂に刻まれ、身体を縛る隷属術式。そこに刻まれた契約内容が、ハーゲンティの同意なく一方的に書き換えられた。
そんなことは不可能だ。そんなことが可能なら、契約に意味など無くなってしまう。故に、術者も、悪魔も、契約魔術には一つの穴も開けていない。内部から書き換えること、外部からの干渉、術式そのものへの介入、あらゆる手段への対抗策が幾重にも張り巡らされている。
「ふむ、なるほど。まぁ、本物の悪魔が中位悪魔などと行動を共にしている時点で、とうに察しは付いていましたが」
まさか、と、ハーゲンティは喉を鳴らした。
術式そのものを完全に解析し、改竄した? 馬鹿な。ハーゲンティに隷属を課したのは、彼より上位の──
「もう結構ですよ。お疲れ様でした」
ぴし、と。神父が拳に込めた力に耐え切れず、アメジストの心臓にヒビが入る。
耐え難い痛みと不快感がハーゲンティに襲い掛かるが、そんなものに構っている暇は無かった。
無くなる。自分が、存在が、記憶が、魂が。
「や、やめ──」
「おっと」
軋む。
数千年を生きるハーゲンティをして味わったことのない、魂に鎖が絡みつく感覚。
「命乞いは契約違反ですよ。それから──死ぬことも」
「クッ!」
詰んでいた。
まさか、これほどの術者が人間から生まれるとは。
「その魔術。かのソロモン王にも匹敵する。……見事」
ハーゲンティはそう讃え、瞑目した。
長く生きたものほど生に執着するようになるとよく言われるが、それは人間の尺度だ。
100年、200年では、死が殊更に恐ろしくなる。500年も生きれば死への恐怖が薄れ始め、1000年も生きれば今度は死を想い始める。そして数千と年を重ね──高位の悪魔たちは、死に無頓着になっていた。
この世の堕落の全てを貪り、究極の悪性と成り果てて、その結果がこの様か。
ハーゲンティはそう自嘲し、長い一生を終えた。
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