勝負マスク

 甘いものが欲しいと思って時計を見ると大体いつも四時過ぎで、その日もそうだった。

 ダイエット中ということもあって、甘いものはできるだけ控えている。ただ、集中して資料を作っていたりしていると、どうしても食べたくなる。これは身体ではなく脳が糖分を欲しているせいなのだと自分に言い聞かせるのだが、最終的に糖分はお腹周りに蓄積されているような気がして、やり切れない。

 やりきれない気持ちを共有しながらおやつに付き合ってくれそうなイエット仲間を探そうとしたが、デスクの周りに他の女性社員の姿がなかった。お昼の後に業務を始めたときには、みんな自分の席に座っていたから、これはおそらくそういうことなのだろうと、引き出しからマグカップを取り出して給湯室に足を運ぶと、思った通り井戸端会議の真っ最中だった。

 世間ではコロナ感染の拡大もあって、在宅勤務が推奨されている会社が多い。うちの会社もそうだ。在宅勤務のメリットが大きいことは疑う余地がなく、制度が開始された当初は利用率もかなり高く、出社率が30%くらいのこともあった。

 ただそれが、ここにきて女性社員を中心に出社組が勢力を回復してきている。そして、その中心的な役割を果たしているのが給湯室だ。最近はお茶汲みの廃止やコーヒーマシーンの普及で、給湯室がないオフィスも多いらしいが、うちの事務所では健在で、昔ながらの女性社員憩いの井戸端会議場となっている。

 以前にまさにこの給湯室で在宅勤務がテーマになった時、給湯室のボスである総務課の裕子さんは、

「たしかに、ビデオ会議でもみんなで集まって世間話だってできるんだけど、やっぱりこうやって直接顔を見ながらじゃないと伝わらないニュアンスとか成立しないコミュニケーションってあると思うんだよね」と、発言し、給湯室は同意の声であふれ返った。

 私も本当にその通りだなと思った。ただその次の瞬間、二か月前に会社が実施したアンケートの、「在宅勤務することで、業務上のコミュニケーションに支障はありますか?」の問いに、「はい」と答えた人は2%しかいなかったという公表された結果のことを思い出し、井戸端会議のコミュニケーションに求める精度を業務にも求めるべきなのではないだろうかと少し心配にもなった。

 などと会社の行く末を憂いてはみたものの、いつも以上に盛り上げっている井戸端会議に、私の胸は高鳴った。

「なに、なに、不倫?新作スイーツ?それとも人事異動?」

「違う違う、顔パンツ」

「顔パンツゥ?」

 集団の一番後ろに、同期の由紀恵がいたので肩を叩いて尋ねると、耳慣れない言葉が返ってきた。私がよほど変な顔をしたのだろう、由紀恵が笑いながら説明してくれた。

「私も知らなかったんだけどね。マスクのことを最近、顔パンツって言うんだって」

「なんで、わざわざ衣類を衣類で呼び替えるの?」

「そこはあれよ、マスクに本来のマスク以外の機能って言うか、意味合いが加えられたっていうことよ。ほら、コロナが始まってもう3年以上たつじゃない。つまり、もう3年以上、人前に出るときはマスクをつけてるわけよ。そしたらさ、最初はマスクがかっこ悪いみたいに思ってたのがすっかりそれに慣れちゃって、今になってはマスク無しで人前に出るのが恥ずかしいと、」

「それで、顔パンツ?」

「そう、それで顔パンツ」

「穿かないで人前に出ると恥ずかしいから?」

「そうよ」

「パンツ穿いてなくても、スカート穿いてたら恥ずかしくなくない?」

「・・・まあ、それは良いじゃない」

 私たちがそんなくだらない話をしている間も、議論は井戸端会議という枠を超えて白熱して進んでいた。

「それで、顔パンツのなにで、こんなに盛り上がってるの?」

 あまりのテンションの高さに、自ら輪の中に飛び込んで確認する勇気がなく、再び由紀恵にヘルプを求めた。

「それがさ、最初はコロナの区分がこの春に五類に変わって、マストじゃなくなってもマスクの着用を続けるかどうかって言う話だったのよ。いつかは日常生活を取り戻すべきだから、象徴的な意味でも外すべきだ、とか。いや、分類が変わってもコロナがなくなったわけじゃない。社会や会社には身体が弱かったり、ケアを必要とするご家族がいらっしゃる方もいるわけだから、マスクの着用は続けるべきだ、とか」

 なるほど、旬なテーマだなとは思った。でも、テーマと井戸端会議のノリに違和感を感じた。平たく言ってしまえば、女子が集まってこんなに盛り上がるにはネタが堅すぎた。あと、由紀恵の一言が気になった。

「最初は、って言った?」

「うん、言った。最初はそういう大して面白くない話だったんだけどさ、誰かがさっきの顔パンツの話を持ち出したのよ。そしたら、営業の千夏さんが、マスクを顔パンツって呼ぶんだったら、勝負マスクだってあるはずだって言い出して。それに裕子さんが、じゃあ私はTマスクだって反応して。みんながTマスクじゃマスクの意味がないとか、そもそも男性陣はTなんかより清潔な感じの白いマスクの方がそそられるはずだとか、じゃあ小学生時代のデカ白パンツならぬデカ白マスクだとか、ほんと大盛り上がり」

 まさかの、下ネタ大喜利大会だった。

 ばかばかしいと思った。ばかばかしいとは思ったが、みんなの回答を聞いていると、お腹が痛くなるくらいに面白くて、気が付けば夢中になっていた。そのせいだ。私はいつの間にか、自分が最後尾でなくなっていることに気が付いていなかった。

「いいよなあ、女は。家でも会社でもくっちゃべてりゃあ、飯が食えるんだから」

 私の耳にも届くか届かないか、それくらいの呟きだった。

 それなのに、まるで大きなホールの主電源スイッチをぱちりと切ったように、ほんと一瞬であれほど盛り上がっていた給湯室がしんとした沈黙に包まれた。振り返るのが怖くて誰も振り返らなかった。でもみんなが、それが営業の下田部長だと分かっていた。

 下田部長は、突出した営業成績でエリート街道を突っ走る、ここ高井戸支店の実質のドンだ。とにかく頭が切れ、仕事もできるが、時代錯誤なくらいの、部下への不条理な当たりの強さや、あからさまな女性蔑視から、高井戸国の人望なき王、あるいは下キングと呼ばれている。

 コンプライアンスの厳しいこのご時世だから、そんなやり方をしていたら、すぐに手が後ろに回りそうなものだが、本人にも自覚があることと、何せ頭が良いものだから、しっぽを出すようなことはせず、うまくレッドラインをかいくぐって今日に至っている。

「どうせ戦力にならないんだから、せめて在宅勤務してくれたら、まじめに仕事してる俺たちの邪魔にはならないし、程度の低いやつらがくいつきそうな働き方改革ってやつも推進されるのになあ。あ、これ独り言だけど」

 このときもそうだった。

 明らかにこの発言には、コンプライアンス通報レベルの問題があった。だが、そもそもこの発言を招いた私たち側に非があることも、また事実だった。脛に傷がある私たちは強く出ることができない。それが分かっていて、下キングはこんな暴言を吐き散らかしたのだ。

とは言え、さすがにひどすぎる。私たち全員がそう思った。

 特に、普段から職場でも被害を受けている千夏さんは、プルプルと身を震わせて怒りをあらわにしていた。私は、千夏さんが下キングに食って掛かるんじゃないかと心配になった。そんなことになったら、挑発してもっと私たちをいたぶってやろうという、向こうの思うつぼだ。部下である千夏さんは、それだけじゃすまないかもしれない。どうしよう・・・。

 そのときだ、

「申し訳ございません。休憩中とはいえ、少し羽目を外しすぎました。みんなすぐに業務に戻ります」

 裕子さんが、輪の中心からぐいと下田部長の前に出て頭を下げた。こういう姉貴肌なところが、みんなが裕子さんを慕う理由だ。

 裕子さんが自ら収めたことで、千夏さんや私たちの間に高まった怒りのボルテージは下がり、その場に張り詰めた緊張感も一気に解消された。

「おう・・・、さっさと戻れ」

 下キングも、拍子抜けしたように、裕子さんの言葉を受け入れた。

 ただ、きっと不満だったのだ。本当はもっと、私たちをいたぶりたかったのだ。それぞれ口もつけていない飲み物を手にデスクに戻っていく私たちの中に千夏さんを見つけると、下キングはいかにも馬鹿にしたように、声を投げつけた。

「おい、渡邊幹事長、今日の大総会の議案は何だ⁉」

「顔パンツです!」

 千夏さんの言葉が給湯室に響き渡った。それは、千夏さん的にはかなり抑えたつもりなのだろうけど、控えめに言っても吐き捨てるような言い方だった。

 すぐに怒号が飛んでくるとみんなが身構えた。ところが、私たちが覚悟したような事態は起きなかった。

 みんなが恐る恐る下キングの表情をうかがった。思った通り、下キングは顔を真っ赤にしていた。だけど、それは怒り心頭とは、どこか違って見えた。これは一体、どういうことなのか、みんながそのことについて考察を働かせようとした。でも、そんな時間はなかった。

「あ、あれは、新入社員の時の忘年会で、先輩社員に余興で、む、無理やりかぶらされたんだ!昔はそういう、不条理がまかり通ってたんだよ!!」

 下キングはそう叫ぶと、給湯室から走り去っていった。

 暴君の敗走シーン。映画なら民衆の歓声が沸き上がったはずだ。だが、下高井戸支店の給湯室では何も起きなかった。顔を見合わせることもなく、そのまま、みんな静かにデスクに戻り、業務を再開した。

 武士の情け。そんな言葉が思い浮かんだ。

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