ホットプディングスープ

 白球を見失ってしまうほど、吐く息は濃く白かった。金属バットの打球音は心なしかいつもより一オクターブ高く、それが耳たぶに突き刺さって、ひどく痛かった。

 その日俺が参加していたのは、現六年生が退団する毎年この時期に、新六年生のお父さんコーチを対象に実施される、少年野球の審判講習だった。審判講習を受けることはお父さんコーチの義務だと納得していたし、審判に興味もあった。ただ、それがニュースの天気予報で十年に一度と紹介される寒波にぶつかったのは想定外だった。

 全国的に大雪の可能性も指摘されていた。実際、普段それほど雪が降ることのない京都の市街地でも雪が積もり、電車のダイヤに大きな影響が出ているらしかった。雪が降ってくれれば、さすがに講習会も中止になったはずだった。ところが、空には灰色の雲が垂れ込め、冷え込むだけ冷え込んでおいて、絶妙に雪は降らなかった。

「あいにくのお天気となりましたが、子供たちの元気に負けず、私たちも元気いっぱい声を出して今日一日頑張りましょう!」

 開会のあいさつで壇上に上がった、地区の少年野球連盟の会長は、そう大きく声を張り上げた。ユニフォームにシャカシャカと呼ばれる薄手のウインドブレーカーだけという服装は、見ているこちらの体温まで下げそうなくらいに、寒そうだった。

 その服装は、決意の表れだったのだろう。大きく声を張り上げたのも、気合を入れるために違いない。だが、その一方で、正直を言えば、会長にはこの場面を歓迎している部分があるように俺には感じられた。自分に酔っているというのではないのだけれど気分が高揚している、そんな感じだった。

 別に会長個人のことを揶揄しているわけじゃない。ただ、六十代前半の元野球小僧には、とかく、逆境に陥った自分を楽しむ(しかもそれを人にも強要する)、癖というか傾向があるということを、少年野球のお父さんコーチをするようになって、俺は思い知らされていた。

「しかし、寒いですね」

 ボールが外野の間を抜けたときの、内野塁審のフォーメーション練習の順番を待っていると、同じチームの竹田さんに声をかけられた。

「これは地獄ですね。あとどれくらいあるんでしたっけ?」

「2班に分かれてて、うちらB班が今塁審の講習中で、A班は主審の講習中。お昼休みを挟んで、入れ替わりですから、午後一杯かかるんじゃないですか」

「うわぁ、お昼休みとかいいから、早く終わらせて欲しいな」

「早く終わっても、反省会があるみたいですよ。さっき代表から佐藤さんに電話が入って、いつもの中華居酒屋予約するように、指示が出てましたから」

「反省会?反省会って、なにの?」

 俺の質問に竹田さんは言葉では答えず、分かってるでしょという表情を浮かべた。

 そう、もちろん俺はその答えを知っていた。

 俺が、六十代前半の元野球小僧について学んだもう一つのこと、それはとにかく元気で酒が好きということだ。チームが試合に勝てば「祝勝会」。試合に負ければ「畜生会」、雨で練習が流れれば「ミーティング」、とにかく理由の如何・有無に関わらず、飲み会は開催された。

 しかも何時に開始しようと、閉店時間まで。二日酔いで通勤しながら、日本の高度成長期を支えた人たちのパワーを恨めしく思い知らされるというのが、俺の月曜日の朝の定番になっていた。

「俺、明日の朝、早いんですよね。きついなあ。でも、こう寒いと、まだマラソン反省会の方がましな気もしてきましたよ」

「少なくとも店内は暖房は効いてますからね」

「そうそう、暖房は効いている。代表のありがたいお話は聞いているふりをする」

「代表のお説教すら我慢できるくらい寒いということですか。私の地元だと、猿団子ができるくらいの寒さですからね」

 いとも当たり前のように竹田さんが口にしたその言葉が気になった。

「猿団子の猿って、あの動物の、モンキーのことですか?」

「ええ、そうですけど」

 猿団子という言葉を俺は聞いたことがなかった。俺にとって、団子と言えば、まず思いつくのはみたらし団子だった。もちろん肉団子だってあるわけだから、必ずしも甘いやつだけではないということは分かっていたが、それでもさすがに猿団子とは・・・。

「それは、猿の形をした団子とか、あ、方言で何か別のもののことを猿って呼ぶとかそういうことですか?」

「いやいや、正真正銘の猿ですよ」

 いつも通り、穏やかな口調で答える竹田さんに俺はドン引きした。いや、正確には慄いた。

「あ、井口さん勘違いしてますね」

 竹田さんがにやにや笑いを浮かべながら言った。

「猿団子って言っても、猿が入った団子のことじゃないですよ。猿団子って言うのは、寒い時に猿が暖を取るために、身体を寄せ合って固まっている様子のことを、うちの地方では猿団子って言うんですよ」

「なんだ、そういうことなんですね。いや、食用の方の猿団子かと思って、ビビりましたよ。っていうか、竹田さん、わざと俺が勘違いするような言い方しませんでした?」

「ははは、すみません。昔から何回かこういうことがあったので、井口さんも、絶対勘違いされるだろうなと思って」

「勘弁してくださいよ。結構リアルに、想像しちゃいましたよ」

 そのとき、ボールを追いかけていたお父さんコーチの一人が転んで、グランドから笑い声が上がった。

「ところで、身体を寄せ合ってって、何匹くらいですか?5匹くらい?」

「全然もっと。何十匹です。いや、多い時には百匹近くになるんじゃないかな」

「百匹!?百匹の猿が身を寄せ合って、一塊になってるんですか?」

「ええ、ぎゅっと一塊に。子ザルなんて、大人の猿の間にすっぽり収まって隠れてて、でもしっぽとかがちらりと見えたりするんですよね。ほんと、可愛いですよ」

 懐かしそうに笑みを浮かべる竹田さんの斜め上辺りに、食用ではない猿団子のイメージが思い浮かんだ。

 百匹の猿が密集している。隙間もないほどぎっしりと。それは毛皮に覆われた巨大な球体だ。茶色い表面。だが、そのところどころには、赤ら顔や赤いお尻がプリントアウトされた模様みたいに浮かび上がっている。そして目を凝らせば、助けを求める声なき叫びのように、小さく猿団子から突き出した子ザルの手、足。しかも、なぜか俺の想像の中で、猿団子は地上一メートルあたりに浮いていた。

 きっと実物の猿団子は微笑ましく、そして可愛いのだろう。地元の人たちにも愛されている。そのことについては一片の疑いもなかった。ただ、実物を見たことがない俺に思い浮かんだ、竹田さんの故郷の冬の風物詩のイメージは、もちろん食用猿団子とは比べものにならなかったが、それでも十分にホラーだった。

 そんなこと竹田さんに言えるわけがなかった。

「そうですか、それは・・・、ぜひ一度見てみたいですね」

「井口さん、いままた気持ち悪いって、」

 竹田さんがこのときも俺の胸の内を完全に見透かしていたのは間違いなかった。だが、竹田さんがその言葉を最後まで口にすることはなかった。

「竹田さん、井口さん。グッドニュース、グッドニュース!」 

 もう一人のお父さんコーチの佐藤さんが声をかけながら、走り寄ってきた。

「どうしたんですか?」

 竹田さんの話がそらせると、俺は内心で感謝しながら佐藤さんに尋ねた。

「事務局のテントで聞いたんだけどさ、さすがに寒すぎるだろうって、急遽ママお当番さんたちが、お昼に温かい汁物を準備してくれることになったらしいよ」

「汁物って、お雑煮とかそんな奴ですか?」

「いや、団子汁」

 満面の笑みを浮かべて佐藤さんは答えた。

「団子汁・・・」

 竹田さんからなんとも微妙な呟き声が漏れた。

 そしてその次の瞬間、俺のほっぺたを何か冷たい感触がそっと触り、周囲のお父さんコーチたちから歓声が上がった。その歓声ににつられるように空を見上げると、灰色の雲から無数の雪がゆっくりと舞い降りてきた。

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