迷惑

 一日の仕事を終えてマンションンに帰ってきた。わびしいワンルームの部屋、だれが待っているわけでもない。待っているのは、出がけにドタバタしていて片づける時間のなかった、朝食の洗い物くらいだ。それでも、この場所に戻ってくるとホッとする。

 故郷の四国から東京に出てきて、来年で早十年。田舎にいたころには想像もつかなかったような大都会で、ここだけが私が気を張らずに好きなものを食べ短いお昼寝を堪能できる場所なのだ。

 洗い物はとりあえず後回しにして、半身浴しながら行く予定のない海外旅行の雑誌でも読もう。そう思いながら扉に手をかけると、鍵を回す前に玄関のドアノブがすとんと落ちた。鍵が開いていた。

 その朝、出かけるときに鍵を何度も確認したことをはっきりと覚えていた。ただそれでも、その瞬間は状況に頭がついていかず、不安というよりも、「あれ、なんでだろう」くらいの軽い気持ちでドアを開けた。

 見知らぬ男性が、少し離れたベランダの柵から半身を乗り出した態勢で私を振り返っていた。

 悲鳴をあげるか、そのまま逃げ去って安全な場所から警察に電話すれば良かった。ところが気が動転していた。

「だ、誰ですか!?」

 と訊ねて、「はい、誰々です」という回答がこのシチュエーションで帰ってくる確率はほぼゼロに近いだろう。簡単な方の選択肢をわざわざ選ばず、挙句選んだのが時間を埋めるためだけの愚問、インテリ気取りロジック馬鹿のうちの課長には絶対見られたくない場面だった。

「307号室の室田です!」

 ところが、答えは返ってきた。しかも、かなり具体的に。

「下の住人の方が、なんでそんなところに・・・」

 私の部屋は707号室。307号室といえば、ちょうど4階真下にあたる部屋だ。色んなことが重なり、私の混乱は頂点に達した。

「迷惑をかけたくないんです!」

 いや、頂点はまだ先だった。

「どういうこと・・・?」

「俺、ミュージシャンになるっていう夢があって、5年前に仲間と九州から東京に出てきたんです。バイトの毎日で生活は楽じゃなかったけど、俺たちのバンドってレベルが高くって、いつか誰かの目に留まるっていう自信もあったし、それに何より仲間がいてくれたから、だから俺、辛くはなかったんです」

 何の話をどんなシチュエーションで聞かされているんだろう、という気持ちはあった。あったけれど、田舎の両親に人の話は最後まで聞きなさい、と躾けられてきた私は、身の安全を確保しつつとりあえず相手の話を先に進めることにした。

「はぁ、で、ちなみにグループの名前は?」

「グループの名前!?・・・ナ、ナイン、ステーツ」

「あぁ、九州だけに」

 私がバンドを組むとしても絶対、「フォーカントリーズ」とはつけないだろうが、演奏を聞いたことがないグループをセンスのないネーミングだけで否定するのも違う気がした。

「それで?」

 私が話を続けるように促すと、男性はどこか安堵にも似た小さな微笑みを浮かべた。

 ちなみに、男性とは言っても年恰好は若々しく、上京してきたのが高校卒業のタイミングなら私の4つ5つ年下というのは妥当な感じだった。さらにちなみに、顔や髪形も清潔感があって、割と整っていて、私のタイプからそれほど遠く離れてもいなかった。

 というわけで、室田(容疑者風)・室田さん(ご近所さん風)・室田君(お姉さん目線風)の三つの候補の中から、いったんこの時点で男性のことを室田君と変換しようと私は決めた。

 そして室田君の話は続いた。

「実際、ライブハウスからのステージの依頼は結構あったし、いよいよ勝負かけようみたいな話を仲間たちとしてた時に、ちょうどバンドの全国大会の予選が始まって」

「なんていう名前の大会?有名な大会なの?」

「大会の名前!?・・・バンド、やろうぜ、オンっていう、一般の人たちは知らないかもしれないけど、バンドマンたちにとっては甲子園みたいな大会で」

 世界は私たちが知らない何々の甲子園的な大会で溢れかえっている。

「デモテープの予選を通って、準々決勝と、準決勝も突破して、それで俺たちついに野音のステージでの決勝戦に進んだんです」

「それで、それで結果はどうだったの?」

「優勝には届かなかったけど、審査賞みたいなのをもらって、レコード会社からメジャーデビューしないかってオファーをもらいました」

 そう言った、室田君の表情は誇らしく、そしてどこか切なかった。私は話がそこから良くない方向に進んでいきそうな嫌な気配を感じた。嫌な予感は当たる。良い予感は気が付くと忘れているだけなのに。

「ただ、デビューには条件がありました、俺をメンバーから外して代わりにレコード会社が目をつけてる他の奴をグループに入れるっていう」

「ひどい・・・。ほかの人たちは何って?」

「みんなはそんなオファー断ろうって言ってくれたんです。でも、チャンスは来た時に掴まないと掴めなくなるって、俺にも分かってるから。だから、だから俺、あいつらの迷惑にならんように、この世からおさらばしてやれって決めたとです!」

 話をしているうちに興奮してきたのだろう、室田君の言葉には少しずつ訛りが出てきていた。それでも、ようやく、室田君が柵の向こう側に身を投げ出そうとしている背景は理解できた。

 だが、もちろん納得できるわけはなかった。

「でも、どうして私の部屋のベランダから?」

「三階じゃ、確実に死ねるとは限らんとです!もし打ち所が悪くって、いや打ち所が良くって死に切らんで、でも肉体に大きなダメージは残るとです!それは確実に残るとです!そしたら、後遺症が残った俺の面倒やら、父ちゃんや母ちゃんに見させることになるとです!」

「いや、それはまあそうかもしれないけど」

「しかも、父ちゃんと母ちゃんの歳のこと考えたら、姉ちゃんまで俺の面倒を見ることになるとです!姉ちゃん、彼氏がおるのに俺のせいで結婚まで諦めないかんことになる。俺、俺、家族にそんな迷惑かけられないって・・・、だから、だから703号室のベランダから飛び降りようって決めたとです!!」

「ああ、それで・・・」

 この時、何かが私の中でことりと音を立てて外れた。

「・・・って、それ、私に迷惑なんよ!!」

 気が付けば大声をあげていた。感情の高ぶりと室田君のそれに釣られて、今では家族と電話で話をするときくらいにしか出なくなった故郷の方言が思わず口をついていた。

 東京に出てきてから十年、東京で暮らしていることが正解なのかどうか今でも分からない。四国に戻ろうかとぼんやり考えることもある。それでも、ただ惰性というだけではなく、私は確かにこの街で生きている。一生懸命に生きている。

 自分でも不思議だった。どうして頑張れるんだろうと。よりにもよって室田君の言葉がその答えを私の目の前に突き付けてくれた。田舎町の村社会で生まれ育った私に刷り込まれた、「他人様に迷惑をかけない」ことこそが、自分自身のプライドであり心の拠り所の一つになっていたのだと。

 私の心のよりどころは少ないのだ。というか、他にはすぐには思いつかない。それだけに、「迷惑」という言葉だけは譲れなかった。そうじゃないと、私が、私の十年が可哀そうすぎる。

 だから、私の感情は爆発した。

「あんたが、私の部屋のベランダから飛び降りなんかしたら、私のところに警察やらマスコミやらが押しかけてきて、私にあることないこと、いや、ないことばっかり、根掘り葉掘り聞きよるがね。ほしたら、世間は、私のこと色眼鏡で見るようになろがね。ネットとかで変な噂が広まろがね。傷物扱いするようになろがね。で、私の両親が悲しむがね。あんたの家族に迷惑が掛からんようにするために、私の家族に迷惑がかかるってそれ何?なんで私が、私の十年が、あんたのせいで無茶苦茶にされないかんのよ!!死にたいんじゃったら、どっか私の目の届かんところで死んだらよかろがね!!!」

 ひどい言葉だと分かっていた。室田君を慰めたり励ましたりして、自殺を思い直させることが自分がすべきことだとも分かっていた。でも、疲れていた。沼の奥底のように自分の心に溜まっていた塵やら澱やら色々なものが湧き上がってきて、それを吐き出さずにはいられなかった。

 室田君からすれば、迷惑な話だ。

「あ・・・」

 いきなりの私の豹変に室田君は、まるでびんたでも食らったように、呆然とした表情を浮かべた。

 びっくりしていた。想定外の出来事だったに違いない。だが、そもそもの想定外の始まりは室田君であって、室田君の想定外に対して私が申し訳なく思う必要はないのだけれど、とにかく室田君は私が我に返るほどびっくりしていた。

 何か言おうと思った。何か言わなきゃと思った。何を言うべきなのか思いつかなかった。

 ところが、そうしている間に、室田君の表情に変化が現れた。悪い眠りから覚めるように、目に力が戻ってきた。意図せぬショック療法が功を奏したのだろうか、室田君の顔に浮かんだのは、清々しさすら感じさせる、どこか吹っ切れたような表情だった。

「馬鹿ですね。たしかにそうだ。あなただけじゃない、バンドの仲間たちにも迷惑かけるところでした。俺、あいつらと話します。きちんと話をして、それから、どういう結果になるかわからないけど、もう一回前を向いて歩き始めます」

「はあ・・・、それは何よりなことで・・・」

 ベランダに降り立った室田君は、私を刺激することのないよう、距離を取りながら私の横を通り過ぎ玄関に向かった。しっかりとした足取りだった。そして、最後に振り替えると、礼儀正しく一礼し、玄関から出ていくときちんとドアを閉めた。

 全てはあっという間の出来事だった。

 ぺたりと床に座り込んだ。感情の振れ幅が大きすぎて、どんな気持ちなのか、どんな表情を浮かべたら良いかが分からなかった。ぼんやりとさっきまで室田君が飛び降りようとしていたベランダに目をやった。

 干していた下着がなくなっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る