ヨーロッパを洗え

 そこまでの手応えは十分だった。

 新規事業の欧州展開を見据えアドバイザーを探していたその大手電子機器メーカーが、外部コンサルタントとの面談を開始したのは半年前。当初候補に挙がっていた八人のコンサルタントは、面談が進むごとにその数が減り、その日の最終面談に残ったのは私とテレビで目にすることもある新鋭の若手エコノミストの二人だった。

 一騎打ち。ただ、客観的に見て、私に分があった。

 たしかに、知名度という意味では、相手方の若造に軍配が上がったが、アドバイスを求められる今回の事業に関連する分野の多様さを考えれば、求められているのがフレッシュな発想というよりも、幅広い知見と人脈であることは明白だった。

 であれば、私がすべきは、これまで私が積み重ねてきた様々な経験の片鱗をのぞかせる、ただそれだけ。私はそう定めた戦略をただ粛々と実行に移していった。

 実際、先方の三人の役員が顔を並べた面談では、質問は多岐にわたり、私は自ら風呂敷を広げるまでもなく、聞かれた質問に適切に対応していった。もちろんときに知性に溢れたユーモアを織り交ぜることも忘れず。

 面談は和気あいあいとした雰囲気の中、一方ではきちんと互いの情報と情熱が共有される形で進み、途中からは面談というよりも、さながらプロジェクトのキックオフ会議の様相だった。

 予定の時間を十五分ほど過ぎ、そろそろ面談を切り上げようかという雰囲気が漂い始めたころ、白髪の男性が、さもふと思い出したというように問いかけていた。牛島取締役。三人の面接官の中で一番ポジションが高く、実質今日の面接の合否決定者と言ってよかった。

「ところで、ウォシュレットの今後の見通しについて、あなたの見解をきかせてもらえないか?」

 牛島取締役の質問のタイミングと中身は、意表を突くものだった。だが私がそれに慌てふためくようなことはなかった。物事が順調に進んでいるときほど、油断しない。それも私の経験値だった。欧州のトイレ市場に対する知識はなかった。だが、欧州市場・社会に関する知見から論理的な見通しを組み立てることは可能だった。

 もちろんそのためにはその数秒という時間の中で、頭脳を振る活用しロジックを構築する必要があった。 だが、そんなことおくびも出さず、穏やかな笑みさえ浮かべ、私は質問者であり刺客でもある牛島取締役の方を向き、ゆっくりと話し始めた。

「日本から海外に輸出されるハードウェアの市場での相対的優位性が失われ、歴史や食事というソフトを競争軸とするいわゆるイタリアモデルへの転換が声高に求められる中、ウォシュレット、すなわち温水洗浄便座がユニークかつ数少ない、成長が期待されるハードウェアであることは論を待ちません。

 一方で、その成長期待が、かつて良く語られた『アフリカの奥地で靴を売る』、つまりは利用者がいない市場をノーチャンスととらえるか手つかずのチャンスと捉えるかのうち、後者によるものであることもまた事実です。そして、このロジックには裏があります。それは、利用者がいないのにはそれなりの理由がある、ということです。

 ここでは、ヨーロッパ市場における温水洗浄便座普及の課題として良く語られるものをいくつか挙げた上で、それに対する私なりの考えを述べさせていただきます。

 まずは、お尻を水で洗うことに対する抵抗感です。地域や宗教によってその方法が異なる、いわゆる文化的事項である本問題に関し、保守的な欧州の人々が東方から来たコンセプトを取り入れることには心理的な抵抗感が極めて高いだろう、というものです。

 本問題を文化的側面から捉えること、欧州人を保守的と理解すること、この点に関しては私にも異論はありません。ただ、指摘しておきたい事実があります。それは、欧州においては歴史的に水で女性のデリケートな部分を洗浄するビデが一般的であったということです。まだ海外を旅することに慣れていなかった頃の日本人が、ホテルでトイレの隣にある小ぶりなトイレ的なもの見つけて、その利用方法に頭を悩ませたという、あれです。

 お尻を水で洗うことに対して欧州の人々が抵抗感を覚えるであろう、というのは日本人の思い込みにすぎません。つまりこの課題は、柳を見て幽霊を見る現象と同じだということが出来るわけです。

 心理的な抵抗感という意味では、コンセプトというよりも安全に対する不安の方が大きいかもしれません。これは釈迦に説法になりますが、ご存じの通り、欧州は電圧が高い。それに加えて、トイレがバスルームに設置されているケースが多いため、どうしても感電のリスクが意識されてしまうのです。

 このリスクを払しょくするには、日本のユニットバスのような場所での設置事例・安全実績をアピールすることも大切ですが、それだけでなく目に見える形での、感電リスクを感じさせない施工面での工夫が求められると考えます。

 施工に関して言えば、貯水タンクが壁に組み込まれていることが多いのも課題です。後付けで温水洗浄便座を取り付けようとすると、大掛かりな工事が必要になり、その分費用が膨れ上がってしまう。

 加えて、費用という意味では、日本で販売している製品を販売出来ないことも、忘れるわけにはいきません。電圧の違いもありますが、欧州では水の硬度が日本よりかなり高いため、日本の製品をそのまま持ち込むとパイプの中で石の成分が目詰まりしてしまう。

 そうなると欧州専用モデルの開発が必要になってきます。だが、販売の絶対数量が多くない現在の市場環境を考えると、開発費の回収をどうするかという別の課題が出てきます。欧州で使用できる製品の開発にかかる費用。製品の購入者が、製品を設置するのにかかる費用。欧州専用モデルの開発にはそういったコストをどのように考えるかという側面があるのは事実です。

 そのように収益の観点から欧州専用モデルを考えることはもちろん必要です。ただし、欧州専用モデルの開発が必要な理由は、もっと根本的なところにあります。それは、温水洗浄便座を購入してもらうための最大にして唯一のモチベーションは、結局のところ快適さにあるということです。

 ここまでに挙げてきましたように、課題はゼロとは言えません。それどころか山積みだといっても良いくらいです。ただそれらのマイナスの要素を上回る快適さを感じてもらうことが出来れば、まずは消費者が、次に業界の関係者が、課題を解決するための方策を考えてくれるはずです。

 欧州専用モデルの開発は、様々な課題に対応するためではなく、課題が自動的に解決されるような環境を作り上げていくために必要だということです。

 日本仕様と欧州仕様で具体的に変わってくるのは、水量と水圧です。日本と異なる食生活から生まれる排泄物は、粘度が異なるため、適切な洗浄能力を確保するには、より大きな水量と水圧が求められます。そしてさらに大事なのは実際の洗浄能力よりも、使用者にきちんと洗われていると感じてもらうことです。この洗浄感のために、水量と水圧が必要になってくるのです。

 温水洗浄便座ではなく暖房便座に関してですが、快適さが課題を打ち消した例としてこういう話があります。ある欧州のトイレメーカーの技術者が、テストのため自宅に電源仕様を改造した日本メーカーの暖房便座を設置したことがあります。

 設置初日の朝、技術者の奥さんは「さっきまで誰かが座っていたみたいで気持ち悪い」とか、「セントラルヒーティングのバスルームに暖房便座なんてナンセンスだ」とかさんざん文句を言ったそうです。技術者は、仕事でのテストだから二週間だけ我慢してくれと奥さんをなだめました。

 そして二週間後、テストの終了と暖房便座を取り外したことを意気揚々と報告した技術者に、奥さんは『どうして、あんな快適なものを取り外したんだ』をクレームしたそうです。この例が示しているのは、万国共通で女性の気持ちは移ろいやすいということではなく、もちろんそれもありますが、快適さは固定概念を上書きする、ということです。

 これまでにご説明させていただいた内容から、私は条件付きで、欧州市場における温水洗浄便座の見通しは明るいと考えます。

 そしてその条件とは、割高になっても欧州専用モデルを開発・投入すること。そして、そのコストを吸収するのと同時に、本製品の初期顧客と想定される層への幅広いアプローチを可能にするため、高級ホテルへの積極的なプロモーションを実施することです」

 私は自分の所見を述べ終えると、三人の面接官の顔を一人一人見渡した。そして、最後に私に難題をふっかけてきた牛島取締役を挑むように正面から見据えた。

 息が詰まるような沈黙のあと、大手企業の経営層として、普段人前ではあまりないで見せることのないだろう申し訳なさそうな表情を受かべて牛島取締役は言った。

「いや、聞きたかったのは、ウォシュレットの見通しではなくて、欧州レートの見通しなんだが・・・」

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