ボーイミーツガール
夜明け前のコンビニは、遠目にはエドワードホッパーが描いたアメリカンダイナーのようだった。少し感傷的な気分になりかけたが、待ち合わせ場所の駐車場に近づくと、唐揚げやらカレーパンやらの広告があっさりとせっかくのイメージを上書きしてしまった。
通りを行き交う車はほとんどなく、聞こえてくるのは俺の荷物の金属音と静寂の底の単調の波だけだった。右肩にかかる負荷は重く、昨日の酒は抜けきっていなかった。切らすように吐き出す息は白く浄化され、それは俺自身とのコントラストを強調していた。
駐車場に足を踏み入れると、店の入口近くの吸い殻入れの近くで立ち止まり荷物を下ろした。店内の明かりを背に目をやった家並は、青味がかったモノクロの景色で、そこで無数の人々が生活を繰り広げていることが信じられないほどに穏やかだった。
自分が向こう側の世界にいないことに対する罪の意識と寂しさをはっきりと意識した。だが、同時に俺は、心の底から湧き上がってくる高揚感を抑えることが出来なかった。
今日は会社のゴルフコンペだった。
ゴルフが好きだ。決してうまくはないが、自然の中でのラウンド。緑のフェアウェイに置かれたボールが青空の中に一直線に吸い込まれていくような一打が打てたときの爽快感がたまらない。そんな一打は、一ラウンドの中でも数えるほどだ。それでも良い。それだから、なお良い。
さらに言えば、ゴルフの一日が好きだ。早朝に起きて家を出て、夕食前に帰ってくる。その多くは、ほとんどは移動時間だ。一日を無駄にしているとも言える。だが、仲の良いメンバーと長い時間を一緒に過ごす。それは、子供の頃の遠足にも似た特別感があって、前の日からワクワクする。
今日もそうだ。昨夜は飲みに行って家に帰ってきたのも遅かったのに、ワクワクで目覚ましが鳴る前に目が覚めて、十分も前に待ち合わせ場所に着いた。少し時間があったので、ゴルフバッグを暗がりに置いたままコンビニに入り、自分の分と迎えに来てくれる後輩の小林の分のコーヒーを買って店を出た。
やけどしないように気を付けながら一口のコーヒーを口に含んだ。頬に当たる朝の冷気と、口の中の苦み、温かな液体が胃に落ちていく感じが気持ちよかった。小さく息を吐いた。酒の匂いに混ざってコーヒーの香りがした。そのとき視線を感じた。
振り返ると、二十代前半くらいの若い女性が俺の方を窺うように見ていた。なにとはなく、小さな会釈をするように窺い返した。そのまま、見つめ合った。しばらくすると、何かを確認するように、女性が瞳を大きく動かした。どうしていいのか分からずに俺が固まっていると、女性は何でもないですという風に、コンビニの俺がいるのとは反対側の駐車場に歩いて行った。
何だったのだろうと思いながら、少し温度の下がったコーヒーをすすっていると、ヘッドライトで俺の影をコンビニの壁に浮かび上がらせながら、一台の車が駐車場に入ってきた。見慣れたトヨタのSUV、小林だった。
「おはようございます」
大学時代、体育会のアメフト部だった小林は身体がでかい。朝晩は肌寒いこの季節でも、ポロシャツと短パンから伸びた腕と足は太く日焼けしていた。小林は、あいさつしながら車から降りてくると、俺のゴルフバッグを軽々と運び車に積み込んでくれた。
明朗活発を絵にかいたような明るい奴だが、いつも以上にニコニコと機嫌が良かった。小林もゴルフが大好きなのだ。
助手席に乗り込みながらコーヒーを運転席側と助手席側のカップホルダーに置く。コーヒーの礼を言いながらカーナビにゴルフ場のアドレスをセットすると、小林は二三口コーヒーを飲んで、それから車を発進させた。
しばらくは職場のうわさ話や、最近のゴルフの調子などとりとめのない会話を続けた。ゴルフの日の早朝にはちょうど良い話題だ。まあ、ゴルフの朝なら話題はなんだっていいわけだが。
そんな話題も一巡したころ、俺はふとさっきのコンビニの駐車場での出来事を思い出した。
「そう言えば、さっき、変な女の子が駐車場にいてさ」
「変って、ちょっとやばい感じでってことですか?」
「いや、やばいって感じじゃない。むしろ、清楚で大人しい感じ」
コンビニの明かりに浮かび上がっていた女の子の姿を思い出しながら、俺は答えた。
「じゃあ、何が変だったんですか?」
「態度だよ。向こうの方から、なんか確認するみたいに俺の方に微妙に寄って来てさ、なんか問い質すみたいにじっと俺の方を見るんだよ。でも、逆に俺が尋ねる感じを出したら、すーっと向こうに行ってさ。見た目がちゃんとしてるから逆に、違和感があって。変じゃないか?」
「あれじゃないですか、先輩が以前に手を出した女の子で、覚えてますかって寄って来たけど、覚えてないからがっかりして行っちゃたって」
「馬鹿、お前じゃないんだから、そんな覚えられないほど遊んでないよ。第一、顔はもろ俺好みだから、なんかあったら絶対忘れてない」
「ああ、じゃああれですね」
車を環八に合流させながら、小林は言った。
「あれって?」
「出会い系ですよ」
「出会い系?」
「ちょっと遊びたいときに、ネットでおんなじようなことを考えてる相手を見つけて、待ち合わせ場所決めて。それから、まあこの時間だと、そのままホテルに行って楽しむんでしょうね。女の子にお金を払うのかどうかは、ケースバイケースですけど。最近はスマホのGPSとアプリがあるから、すぐ会える相手を簡単に見つけられるんですよね」
「いや、それは違うよ。だって、さっきも言ったけど、普通の可愛い女の子だったんだぞ」
「先輩、どんなイメージ持ってるんですか。もちろん、そう言う身体目的の利用は若干あれかもしれませんけど、今時、出会い系のアプリ使うのなんて、男も女の子も普通ですよ。むしろ、リアルな世界で恋愛とかセックスとかと縁がない大人しい子たちがそういうアプリを使うんですよ」
「詳しいな。お前も使ったことがあるの?」
「自慢して言うことじゃないけど、ありますよ」
「で?うまく行ったの?相手の女の子は可愛かった?」
「何度かはうまく行きました。可愛かったかどうかは、まあ、ほんと職場とおんなじですね。かわいい子もいれば、そうでない子もいる。ほんと、普通」
おちゃらけた奴ではあるが嘘を言うやつではなかった。口調も淡々としてて、盛った感じはなかった。
と、いうことは、そういうことなのだろうという結論に達した。
車のシートにもたれかかって、俺は冷たくなったコーヒーを飲んだ。視線は前方に向けていたけど、何も見えていなかった。さっきの女の子のことを思い出していた。小林の話を聞かされたせいか、なんか急に彼女を女性として意識している自分がいた。
彼女のことを思い出した。愛らしい顔立ち、清潔感のある服装。俺に問いかけてきたときの表情。そして俺に届かなかったメッセージ。いや、俺が受け取ってあげられなかったメッセージ。
もし、俺がこの話をあの時知ってたら。もし、俺が待ち合わせ相手は俺だと言ってあげられていたなら。もし、ホテルに行って身体の相性が良くて、直接の連絡先を交換してたら。もし、嫁さんが夏休みとかに先に実家に帰って二三日家を留守にするような機会があったら。もし、彼女がゴルフをしたら。もし、この間大人の旅行雑誌に載っていたゴルフ場近くの山梨の温泉宿に彼女を連れて行ってあげられたら。
いくつかの、もしを続けたあと、俺は彼女と恋に落ちていた。
「小林」
「はい」
「ちょっと悪いんだけど、車をさっきのコンビニに戻してくれ」
「えーーーっ!何でですか!?」
「いや、感触を確認したくてパターをゴルフバッグから取り出して、コーヒーを飲むときに壁に立てかけてたのを思い出した」
「マジっすか。いやー、ここから引き返すとティーにギリギリですけど、そりゃしょうがないっすね」
小林は人を疑うということを知らないいい奴だ。決して頭は切れないが。
幸い早朝の道路は空いていた。すぐに次の交差点でUターンすると、車は法定速度を少し上回るスピードで一直線にコンビニを目指した。
小林は頭は切れない。だが、雰囲気は読める奴だ。車を走らせながら、それ以上は俺に話しかけてこなかった。代わりにFMのスイッチを入れると、リップスライムの「楽園ベイベー」がかかってた。フロントガラスからサイドに一瞬で流れていく景色。空は漆黒から濃紺に塗り替えられ、ビルの間から除く地平線は、下の際からオレンジに染まり始めていた。街が朝を迎えようとしていた。
環八から青梅街道に曲がる交差点は信号が変わる直前に曲がり切った。ここまでくれば、コンビニまではあとちょっとだ。
胸が高鳴った。中学生の時に、下校の時の自転車置き場で好きな女の子のことを待っていた時のような感じだった。この歳で、こんな気分になるなんて、恥ずかしさや驚きと同時に嬉しかった。
薄く浮かべた微笑みを小林に気付かれないように、視線をフロントガラスから外して歩道に目を向けた。
彼女がいた。さえない小太りのやつと、手をつないで歩いていた。幸せそうに笑ってた。
俺の恋が終わった。
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