最後は君を抱きたい
病室のベッドに横たわった夏帆の顔色は白く、そのままベッドのシーツに同化して消えていなくなってしまうんじゃないかと心配になるほどだった。病室は病室らしく清潔で、バス停から病院までの道すがらの暴力的なまでに耳を衝く蝉の声や、太陽と土と湿気が混ざり合ったような夏の匂いは、その一片の欠片すら見つけることが出来なかった。
結婚して十年、スポーツが大好きで病気とはまるで無縁と思われていた夏帆が病魔に襲われたのは、去年の秋のことだった。最初はときどき軽いめまいを覚える程度だったのが、断続的に吐き気を覚えるようになり、病院で検査を受けたところ脳腫瘍が発見された。
幸いなことに発見が早かったおかげで、手術は可能とのことだったが、手術に至るまでの道のりは厳しかった。腫瘍を手術で取り除けるサイズにするための化学療法を受けたのだが、なかなか夏帆の身体にあった薬が見つからず、様々な薬を試してはその都度、別の強い副作用に襲われた。
端から見ているだけでもその精神的・肉体的苦痛は耐えがたいほどだった。それでも、終わりの見えない苦しみが続くそんな状況でも、夏帆は不平不満を口に出すことなく、懸命に治療に取り組み続けた。
ようやく手術を受けることが出来たのは、梅雨明け宣言が発表された、今から二週間前のことだ。待望の手術だった。だが手術は難航した。手術中に想定外の出血があったり、事前の検査では見つかっていなかった小さな別の腫瘍が見つかったりして、当初8時間の予定を大幅に上回る23時間にも及ぶ大手術になった。
最終的に手術は無事終わったが、手術の翌日になっても、夏帆は目を醒まさなかった。脳波は正常で、麻酔に問題があったわけではないということだった。長期間にわたる化学療法で体力が落ちていたところに、長時間の手術を受けたから、身体が本能的に休息を求めているのかもしれません。夏帆さんは、今、深い眠りの底にいます。主治医の先生はそう俺に説明した。
実際、俺の目の前に横たわる夏帆の寝顔は、その顔色さえ除けば、この十年近く俺が見続けてきた夏帆の寝顔と何ら変わるところがなく、この半年の病魔との戦いが、まるで嘘のようだった。
夏帆と知り合ったのは、大学の卒業旅行でサークルの仲間と訪れた沖縄だった。夏帆はその一年前に短大を卒業して就職しており、会社の同僚と遊びに来ていた。お互い四人ずつのグループで、旅先の開放的な気分も手伝ってビーチでこちらから声をかけ、沖縄滞在中は二つのグループで一緒に行動した。
沖縄滞在中にグループ内でカップルが生まれるようなことはなかったが、シーカヤックをしたり、夜のビーチ、満天の星空の下で焚火を囲みで下手なギターに合わせてみんなで歌を歌ったりと、青春の最後の一ページに忘れられない思い出を作ることが出来た。そのときの夏帆の印象は、真っ黒に日焼けしていて、とにかく明るくて活発な女の子だなというものだった。
次に夏帆に会ったのは、就職して半年ほどが過ぎてからだった。配属された先が土地勘のない京都で、新入社員なりのストレスもあって、誰か一緒に飲みに行ける人がいないかと探していたら、たまたま夏帆の勤務先も京都だった。
連絡を取り、夏帆ともう一人沖縄に一緒に来ていた夏帆の同僚の三人で飲みに行く約束をした。当日、三条河原町の待ち合わせに現れた夏帆たちは、今になってみれば笑い話だが、当時の俺からするとばりばり仕事をするキャリアウーマンという感じで、沖縄で遊んだ時とはまるで違って見えた。
先斗町のおばんざいダイニングで食事をしている時も、沖縄の続きで馬鹿話をするというよりも、社会人としての心構えについて話を聞いている時間の方が長いほどだった。とはいえ、同年代のしかも仕事での関係がない人と、酒を飲みながら会話をするのは楽しく、お開きにするときには次の約束もしていた。
それからは月に何度か何人かで集まったり、二人で食事したりした。夏帆は俺にとって良い飲み友達という感じで、それ以上の関係に進むつもりも予感もなかった。そんな風向きが変わったのは、俺の転勤がきっかけだった。
入社して三年目。俺は長野に転勤することになった。初めての転勤で、慌ただしく色んな整理をしている中で俺は、夏帆と二人で一緒にいるときが一番心が安らいでいることに気が付いた。というか、夏帆のことが好きだったんだと気が付いた。後悔したくなかったから、夏帆が開いてくれた歓送会の帰りに付き合ってほしいと頼んだ。夏帆は、「タイミングが悪いな」と笑いながらオーケーしてくれた。
遠距離だったのになのか、遠距離だったからなのかは分からないが、付き合い始めてから結婚まではとんとん拍子で進んだ。転勤の一年後に結婚して、長野で新婚生活を開始した。
結婚生活は順調だった。友達だった時から感じていたことだったが、夏帆とは価値観が近く、新婚生活にありがちな喧嘩はほとんどなかった。夏帆がいつも綺麗にしておいてくれる家の中は居心地が良く、夏帆が料理が得意なのは結婚してから知った良い驚きだった。
子供はできなかったが、まだ二人とも若いからそれほど焦っていなかった。それどころか、もう少し二人だけで過ごす時間があっても良いと俺は思っていたほどだった。結婚して大変だったことと言えば、夏帆が意外にもヤキモチ焼きだったということくらいだった。
俺に少しでも女性の影を感じると、夏帆は普段からは想像できないくらいに取り乱し、そして全力で俺に怒りをぶつけてきた。そんな時はさすがに、うっとうしくも感じたし正直少し恐怖を覚えることすらあった。だが、俺が冷静に夏帆の誤解を解いてやると、夏帆はすぐに落ち着きを取り戻し、そして自分の取った態度や行動を恥ずかしそうに謝ってきた。
ヤキモチを焼かれるのはもちろん気持ちの良いものじゃないが、それもこれも結局のところは夏帆が俺のことを愛してくれているからだし、毎度の騒動の後のしょんぼりとした夏帆の態度は子供みたいで可愛らしく、俺はそれを見るのが嫌いじゃなかった。
そう、全てがうまく行っていた。はずだった。
夏帆の状況について説明してくれた後で、主治医の先生は言った。話しかけてあげてください、と。意識はまだ取り戻していないけれど、夏帆さんにはきっとあなたの声が聞こえている。だから、できるだけ生きる希望につながるようなことを話しかけて、夏帆さんをこちら側に戻ってくるように導いてください、と。
何を語りかけたら良いのかなんて分からなかった。でも、夏帆に目を醒まして欲しくて、俺はベッドサイドに腰を下ろし、夏帆のひんやりとした手を取り、夏帆の耳元に口を近づけた。自然に言葉が溢れ出てきた。
「夏帆。いつまで寝てんだよ。目を醒ませよ。まだまだやり残した楽しいことがたくさんあるだろ。
横町の鰻屋さ。去年ランチで行ったときに夏帆が、すごく美味しい、でも悔しいって言うから、俺が何でって聞いたら、隣の人が食べてたひつまぶしがすごく美味しそうで、そっちにすれば良かったって、言ったの覚えてるか?次来るときの楽しみに取っておいたら良いって俺が言ったら、そうだよねって笑ってたよな。でも、まだひつまぶし食べてないじゃないか。
新婚旅行で行ったヴェネチアも、歳をとってから、もう一回二人で来ようって約束したよな。新婚旅行と同じ場所でゴンドラに乗って写真撮って、新婚旅行の時の写真と二枚並べて家の壁に飾ろうって。俺、知ってるよ。夏帆さ、ヴェネチアを紹介する雑誌の特集号とか見つけたらさ。いつも買ってるだろ。あれも、約束のことを覚えてるから気になって買ってるんだろ。
新調したテニスラケットもまだ一度も使ってない。買うまであれだけ色々調べて、俺が呆れるくらいショップにも何度も通って試打させてもらって、やっと自分が納得するラケットが見つかったって、喜んでたじゃないか。ゲームで使ってみろよ。絶対、前より良いプレーができるよ。
それにさ・・・、こんなときになんだけど、俺また夏帆とセックスがしたい。最近はさ、お互いゆっくり寝たいからって寝室も別々だけどさ、俺、今でも夏帆のことが大好きだし、夏帆に女性としての魅力を感じてるから、夏帆とセックスがしたい。
俺さ、人生最後のセックスは夏帆とって決めてるんだ。でも、このまま夏帆がいなくなっちゃたらさ、それもできない。後悔しないといけないことになる。俺、俺そんなの嫌だよ」
後悔という言葉を口にした瞬間、あたかも本当に夏帆が失われたような後悔が、恐怖が俺を襲った。色んな感情がごちゃ混ぜで、訳も分からず涙がこぼれた。俺の頬を伝った涙が、夏帆が眠るベッドのシーツを濡らした。
「雄二・・・」
「夏帆!!」
そのとき奇跡が起きた。夏帆が目を開けた。うっすらと、でもはっきりと。
真っ白だった夏帆の頬も、生気を取り戻したかのように少し紅潮していた。
「雄二・・・」
夏帆はもう一度、絞り出すようにそう言った。
「聞こえてるよ。どうした!?」
「このままだと、私が雄二の最後のセックスの相手にならないっていう部分に関して、詳しく話を聞かせてほしいんだけど」
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