胃袋を掴まれる

「胃袋を掴まれるって言葉あるじゃないですか。あれって、生々しくないですか?」

 グラスをテーブルに置きながら俺がそう呟くと、後輩の森野が顔をしかめながらすかさず相槌を入れてきた。

「分かります。たしかに胃袋を掴まれるって、ビジュアルでイメージしたらグロいですよね」

 森野の返しはいつも間合いは絶妙だが内容が軽い。このときも、とりあえず言っておきましたという感じで、俺の言葉の意味を深く考えたようなそぶりは微塵も見られなかった。だが、そんなところも含めて、可愛げがあると上からの受けが良いのも事実だった。

「いや、そういう意味じゃなくてさ。慣用表現の意味としてリアルだなって。要は、嫁さんの料理が上手だと、嫁さんから離れられなくなるってことだろ」

「ああ、そういうことですか。村井さんの奥さんって料理お上手ですもんね。この間、ご自宅にお邪魔した時に出てきた、手長エビのクリームパスタとかって、ほんとちゃんとしたイタリアンの店で出てくるようなレベルで、びっくりしましたよ。って、なんだ、おのろけですか」

 少しもめげることなく、それどころか俺をちゃかすような森野の笑顔を見ながら、呆れるとともに、そりゃ伝わらなくてもしょうがないよなと思った。

 俺が20年前に結婚した美穂の趣味は料理だ。子供の時から料理が好きだったらしく腕前はかなりのものだ。好奇心が強いせいか作る料理のジャンルの幅も広く、洋食で言えばイタリアン、フレンチに加えて、スパニッシュも作るし、和食なら魚をさばいて寿司まで握る。しかも、美穂自身が飲むのも好きだから、食事に合わせた酒が日々の食卓に並ぶという始末だ。

 結婚するまでは、料理がここまで上手だとは知らなかった。食べるのは昔から好きだったが、独身時代は会社帰りのコンビニ弁当が当たり前だったから、新婚生活を始めて美穂の特技の恩恵にあずかるようになると、毎日が夢のようだった。

 結婚して付き合いが悪くなったと先輩に冷やかされながらも、仕事が終われば早々に帰宅するようになった。もちろん新婚の美穂に会いたいというのもあったが、正直、食卓に並ぶ料理の影響も大きかった。最寄駅からアパートまでの道すがら、今日のメニューは何だろうと考えると、足も弾んだ。

 家に早く帰り、食卓で一緒に過ごす時間も長いからか、夫婦仲も悪くなかった。二人の娘にも恵まれた。新婚生活・子供の誕生・子供の教育、それぞれの場面で一通りの諍いは経験したが、それでも幸せな結婚生活を送っていると自信をもって言える。

 幸せだということは間違いないし、食事が夫婦仲を保つことが悪いと考えているわけでも当然ない。それなのに、「胃袋を掴まれている」ことに対しての複雑な感情が芽生えたのは、最近起きた二つの出来事のせいだった。

 一つ目の出来事は高校生になった上の娘の彩音を朝、玄関先で見送った時のことだ。

 制服で出て行った彩音を見て、大きくなったなと思った。そうこうしている内に、大学を出て就職して、あっという間に結婚してしまうんだなと寂しくなった。寂しくなったすぐ後に、結婚できるのかなと心配になった。

 彩音は幸いなことに見た目は悪くないが、気が強い。あまりはっきりと女性にものを言われると男は引いてしまうものだ。それとも、草食性と呼ばれるような最近の若い男は、彩音くらい主義主張が強い女性の方が良かったりするのだろうか?

 だが、百歩譲って恋愛はそれで良いとしても、結婚して一緒に生活するようになったらそうはいかないだろう。すぐに旦那とうまく行かなくなるかもしれない。

 彩音も美穂に料理を教えてもらえば良いのに。そう思ったとき、頭の中に何かのイメージが湧きかけた。だが、このときはイメージは線を結ばないまま消えていった。俺もそのこと自身をすぐに忘れた。

 二つ目の出来事は、同期の栗林と飲んだ時のことだ。

 栗林は俺と同じ時くらいに結婚して、五年後に離婚。それからは独身生活を送っていたのだが、十五歳も年下の女性と再婚することになった。大々的な結婚式や披露宴は恥ずかしくてやらないというので、二人でお祝いをやろうとこちらから誘った。

 最初のうちは、新しく奥さんになる人の話を聞いても、照れくさそうにはぐらかしていたのだが、酒が進むと新妻自慢が漏れ始めた。

「これ、二人でディズニーランドに行った時の写真なんだけどさ。ほら、見ろよ。美人だろ。ほんと、俺にはもったいないよな」

 たしかに美人だった。美人な奥さんをもらうことを嬉しそうに話す栗林を見ているとこっちまで嬉しくなった。

 ただ、一度始まった自慢は一向に終わる気配がなかった。しかも、美人以外の情報がなかった。せっかくのお祝いの席を台無しにするつもりもなかったので、「なんとかは慣れる、美人は飽きるって言葉を知らないのかよ」と酔いのまわった頭の中で冗談ぽく突っ込んだ。

 その瞬間、この間は完成しなかったイメージが頭の中で線を結んだ。きちんとした絵ではなかった。でも、俺にはそのイメージが、対比の象徴であることが分かった。そして、その対象が美穂であることも。

 ちなみに、美穂には俺からアプローチして付き合い始めた。結婚するまで美穂の料理の腕前は知らなかったわけだから、もちろん性格もあるが、俺は最初、美穂の外見に惹かれたわけだ。だから、イメージの源泉となったのは美穂と美人の対比じゃないことは確かだった。

 それは、やがて飽きるかもしれない長所と決して飽きることのない長所の対比だった。そして、それはそのまま、俺が美穂の料理の腕前に囚われていることの暗示のように思えた。そして、次の日の朝になっても、昨日の酒と一緒にその印象は俺の中に妙にはっきりと残っていた。

 酒を飲んでいて、そのことを思い出し、つい呟きが漏れたというわけだ。

「結婚して二十年も経つのにのろけるかよ」

 そもそもそんな話をするつもりもなかったし、そこに至るまでのあれやこれやを森野に説明するのもめんどくさかったので、この話はもう終わりだよというトーンで返した。

「いや、新婚でも結婚二十年でも金婚式でもそんなの関係ないですよ」

 ところが、森野が話を打ち切らせてくれなかった。普段ならそういう相手の口調の変化には敏感な奴だったので意外だった。しかも、森野自身の口調にはどこか絡んでくるような感じがあった。

 森野の夫婦仲がうまく行っていないという噂を以前に聞いたことがあるのを思い出した。俺から見るとなんでも調子良くこなしているように見える森野にも、人知れぬ悩みがあるのかもしれない。

「ね、藤澤さんもそう思いますよね?」 

 その日の席には、森野の他にもう一人参加者、というか主賓がいた。それが藤澤次長だった。

 藤澤次長は、若手社員の時から欧米の主要拠点を渡り歩いてきたエリートで、五十歳を前に、次は本社の経営企画部長のポストに就くことが決まっている。

 長身で細面に銀縁の眼鏡、短く切った髪と顎髭は半分以上白く、洗練された服装ともあいまって、見るからに紳士という感じだ。一方で、右と左で違う靴下を履いて出社してくるなど抜けてるところもあるらしく、下の人間、特に女性社員からの人気が高い。

 すごい人であることは間違いないのだろうけど、俺は正直、藤澤次長のことがあまり得意じゃなかった。実際には、いままで直接仕事をしたことどころかきちんと会話したこともなかったのだけれど、そういういかにもな人が昔から苦手なのだ。

 会社こそ同じだけれど、住む世界が違う。中堅社員と話がしたいと藤澤次長が言っていたというのを聞きつけた森野が、藤澤次長と接点を持とうとこの会食を設定し、そこに俺を巻き込まなければ、おそらくこれからも俺が藤澤次長ときちんと言葉を交わすこともなかっただろう。

 だが、実際に会食が始まってみると、藤澤次長は嫌みがなく気さくな人だった。食事が始まって最初のうちは緊張していたが、酒が入ったこともあり途中からは俺も普通に食事と会話を楽しんでいた。

 そういう意味で俺の藤澤次長に対する印象は良い方に変わっていた。だけどその一方で、偉そうな言い方になるが、藤澤次長も、そんな特別な人でもないなと思った。

「村井さんが幸せな結婚生活を送られていることは、間違いないんでしょうね」

 森野の言葉に、藤澤次長は低音の、それでいて通りの良い声で反応し、そして言葉を続けた。

「でも、村井さんのおっしゃてる意味はなんとなく分かる気がします。結婚生活に限らずですが、なんでもうまく行ってる時ほど心配になるもんです。このままずっとうまく行くんだろうかって。そうすると考えるんです。どうしてうまく行ってるんだろうって、その理由を。それは実際に好調を継続する一つのヒントになるかもしれない。ただ、そんな時って、つい物事の目立つ方にだけ目が行きがちになっちゃうんですよね。本当はどんな物事にも、複数の要因があり、それらが絡まりあって、一つの状況が出来上がってるのに」

 藤澤次長の言葉は、どこか俺の気持ちをざわつかせた。

「じゃあ、そういう時はどうすればいいんでしょうか?」

「正解はないんですよ。ただ、私は、状況の理由を考える前に状況の本質を考えるようにしています」

「なるほど、じゃあ教えていただきたいのですが、私が今置かれている状況の本質を藤澤次長はどのようにお考えですか?」

 自分でも少し挑戦的な口調になっていると気が付いていた。だけど、藤澤次長の答えを聞きたいという気持ちの強さが口調ににじみ出るのを抑えることが出来なかった。

「そうですね、」

 どこか照れ臭そうに笑いながら、藤澤次長は言った。

「村井さんが奥様に掴まれているのは胃袋ではなくて、ハートだって言うことじゃないでしょうか」

 というか、藤澤次長のその言葉が俺のハートを鷲掴みにした。

 やられたと思いながら、一生この人についていこうと決めた。

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