夫婦バーディー
伊藤浩一郎が、ゴルフを始めたきっかけは当時結婚したばかりの妻、千里だった。
まるで違うタイプの二人だった。人見知りでインドア派の浩一郎と、社交的でスポーツウーマンの千里。浩一郎は結論の出ない純文学を好み、千里はハウツー本しか読まなかった。
知り合ったのは共通の友人の飲み会だった。タイプが違うから、意気投合はしなかった。ただ、お互いに、自分が持っていないものを持つ相手に興味を持った。もう少し知ってみたいと、二人で会うようになると、居心地が良かった。価値観も近かった。そして、出会ってから二年後に二人は結婚した。
結婚してからも、二人で一緒にすることと言えば、近所のスーパーに行って、夕食の食材を選ぶことくらいだった。だけど、そんな距離感も二人にはちょうど良かった。
だから、一つぐらい共通の趣味を持つのも良いかもしれないと浩一郎が思い始めたのは、何か問題があったからではなく、むしろその逆で、大きな不満がなく(小さな不満がない結婚生活などあるだろうか?)、千里と長く一緒に歩んでいく人生のイメージが湧いてきたからだった。
二人で歳をとっても一緒にできる、そんな趣味を探そうと思った。
というわけである日の昼下がり、千里の各種スポーツウェアが整理されたクローゼットの前に立ち、浩一郎は考えていた。どのスポーツなら、自分にもできそうだろうかと。
千里が、部活でキャプテンをやっていたテニスは、一緒に楽しめるレベルにたどり着けるとは思えなかった。ランニングしたり、プールで泳いだりするだけなら浩一郎にもできたが、先日、千里がトライアスロンへの興味を示していたことを思い出し断念した。
スポーツは無理か、そう諦めかけたときに、クローゼットの奥に置かれたゴルフバッグを見つけた。
これだ、と思った。
球技は苦手だったが、ゴルフならいけそうな気がした。何と言っても、ボールが止まっている。目の前に落ちているボールを、クラブで叩いて前に飛ばすだけなのだ。競技レベルまで上達しようとしたらそれなりの難しさはあるのかもしれないが、一緒にプレーするだけだったら、すぐにでも始められるはずだった。
次の週末、早速、浩一郎は早速近所のゴルフショップに足を運んだ。
浩一郎はゴルフに対して、どちらかと言えば中年男性のするスポーツというイメージを持っていたが、店内のディスプレイは華やかで、若い女性用のウェアも充実していた。ゴルフウェアに身を包んだ千里と一緒にラウンドすることを考えただけで、弾んだ気持ちになった。
その場で、店員に勧められるがまま初心者用のセットを購入した。初心者用とは言え銀色に輝く新品のゴルフクラブは、浩一郎の目にはまるで戦に挑む武将の刀のように映った。アドレナリンの分泌された状態でゴルフ練習場に寄り、入会とゴルフバッグを預けられるロッカーの申し込みをした。
「何かいいことあった?」
手続きだけして家に帰ると、夕食の準備をしていた千里に尋ねられた。
「別に」
敢えてそっけない声で、そのまま風呂場に向かった。にやけ顔を悟られないようにするので必死だった。来週練習場に行くのが待ちきれなかった。
自分でも顔面が凍り付いているのがはっきりと分かった。ありえない現象が自分の目の前で起きていた。そんなはずはないという焦りや苛立ちよりも、自然法則の違うどこか別の世界に放り込まれたような恐怖を覚えた。
待ちに待った練習場デビュー。クラブがボールに当たらなかった。
ボールは確かに浩一郎の目の前にあった。クラブだって浩一郎の手に握られている。それなのに、空振りを繰り返した。ボールをきちんと見ていないからだと、ボールを凝視してスイングしてみた。それでも当たらなかった。それどころか、空振りした後に体勢を崩してよろける始末だった。
力尽きて、打席の後ろのベンチに座り込んだ。
そこで急に周りの人の目が気になった。両隣の打席の人を見てみると、幸いなことに、誰も浩一郎のことなど気にせずに、自分の練習に没頭していた。
ぼんやりと他の人たちの練習を見ていて、浩一郎はどこか違和感を感じた。うまくは言えないが、他の人たちはクラブをボールに当てようとしていなかった。どちらかと言えば、クラブがボールに当たっている感じだった。
打席に戻って、ボールを意識せずにクラブを振ってみた。クラブがボールに当たった。でも、ボールは右斜め前四十五度の角度に力なく飛んで行った。
「手のひらどうしたの?」
リビングでテレビを見ていると、スイングのし過ぎでばんそうこうだらけになった浩一郎の手のひらを見て、千里が尋ねてきた。
「駅の階段でこけそうになったときに手をついちゃったんだ」
泣きたかった。
翌朝、手のひらどころか身体中が痛かった。それでも浩一郎は、時間を見つけては練習場に通うようになった。ゴルフセットを買ってしまったからというのもあったが、身体を動かすことが気持ち良かった。練習している間は仕事のストレスを忘れられた。めったになかったが、ボールがまっすぐに飛んでいった時の快感が忘れられなかった。
半年が過ぎたころ、浩一郎が当初思い描いた、とりあえず前にボールを転がせるレベルにようやく達することが出来た。あとは千里と一緒にゴルフ場デビューするだけだった。
浩一郎はドキドキしながら、だけど努めてさりげなく千里に切り出した。
「スポーツを始めようと思って」
「へえ、どういう風の吹き回し?でも、良いと思うよ。浩一郎、絶対、運動不足だから。テニス?」
千里も嬉しそうだった。
「ううん、ゴルフ。君もするって言ってたから」
「ああ、ゴルフ。ゴルフなら私はパス」
「え?」
こともなげに千里は言い放った。
「ゴルフってスポーツって感じがしないんだよね。身体を動かし足りないし。昔は仕事だからやってたんだけど、やっぱりあんまり好きになれなくて。だから、道具も仕舞い込んだままなんだ。でも、浩一郎にはちょうど良いと思うよ。体操付きトレッキングだと思って、始めたらいいんじゃない」
笑顔でゴルフを勧める千里に今更本当のことは言えなかった。
その後、会社の先輩に連れて行ってもらい、ゴルフ場デビューを果たした。ゴルフ場でのゴルフは、これまた練習場でのゴルフとは百倍違った。百倍難しかった。でも、百倍楽しかった。浩一郎は、ゴルフにはまっていった。結局ゴルフは浩一郎の一番の趣味になった。
浩一郎をアクシデントが襲ったのは、ゴルフを始めて三年後のことだった。自宅の浴室で足を滑らせて、手をついた時に手首に激痛が走った。医師の診断は複雑骨折だった。幸いなことに、日常生活には支障が出ないくらいまでに回復するだろうが、テニスやゴルフといった手首に負担がかかる運動は、もう二度とできない、そう宣告を受けた。
浩一郎は、失意のどん底に落とされた。ゴルフが文字通り浩一郎の生きがいになっていた。前向きに生きていかないといけない。頭ではそう分かっていても、暗い顔とため息の日々が続いた。
「私が、浩一郎の代わりにゴルフで日本一になる!」
ある日家に帰ると、新品のゴルフウェアに身を包んだ千里が、玄関先で浩一郎にそう宣言した。ゴルフのことで落ち込んでいる浩一郎を励ますためには、ゴルフで敵を取るしかない。千里なりに考え抜いての宣言だった。
それからの千里のゴルフへの取り組みは並外れたものだった。大好きだったテニスは一切絶ち、時間があれば練習場でボールを打ち続けた。以前のゴルフ仲間に声をかけ、ゴルフ場でのラウンドも繰り返した。ゴルフのために食事も高タンパク低カロリーの者に切り替え、朝晩のランニングは雨の日でも欠かさなかった。
もともと運動神経が良かった上に、そこまで覚悟を決めて取り組んだおかげで、千里の腕前はみるみる上達し、大会に出ても上位の成績を収めるようになった。それでも、千里は決して満足しなかった。日本一になるという浩一郎との約束があった。生来の負けず嫌いにも火がついていた。
そして千里は、自分と浩一郎の夢にあと一歩で手が届くところまでたどり着いた。
日本女子アマチュアゴルフ選手権、最終日、18番ホール、パー4。前の組で既にホールアウトしたトップの選手とは一打差の二位。プレーオフに進むためにはバーディーを取らないといけなかった。
ティーショットは右のラフに入ったが、残りの距離は160ヤード、グリーンは狙える距離だった。千里はバッグの中から、迷うことなく5番アイアンを取り出した。
それは浩一郎のクラブだった。自分のクラブの中で5番アイアンだけはしっくりこず、遊びで使ってみた浩一郎のクラブのフィーリングが良かった。とは言え、試合で使うことはなく、お守りのようなつもりで入れておいたクラブだった。
構えに入り、ボールに目を落とし、小さく一つ息を吐いた。その瞬間、千里は不思議な感覚を覚えた。自分が一人でゴルフをしているのではないような。まるで浩一郎と一緒にゴルフをしているような。
顔に笑みを浮かべ、千里はゆっくりとクラブを振り上げた。そして、少しも力を入れず、ただボールをめがけてクラブを振り下ろした。ヘッドの中心で捉えたボールは、何の感触も残さずまっすぐに飛んで行った。青空に白い軌道を描きグリーンをとらえたボールが、全てが決められていたことのようにホールに吸い込まれていくのを、千里は穏やかな気持ちで眺めていた。
イーグルでの劇的な逆転優勝だった。
一瞬の静寂の後、歓声がゴルフ場を包み込んだ。
千里がゴルフを始めた理由を知って、ずっと二人を取材してきたゴルフ雑誌の記者が、目に涙を浮かべて、浩一郎のもとに駆け寄ってきた。
「おめでとうございます!!ついに奥さんがあなたの為に日本一になってくれましたね!!」
興奮冷めやらぬ記者の様子に申し訳なく感じながら、浩一郎は心の中で独り呟いた。
「それより、一緒にゴルフして欲しかったよな」
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