昔、セックスが無料だったころ

「ここに来る途中にコンビニでさ、」

 約束の時間から三十分遅れてきた川村は、席に座ってもないうちに切り出した。

「お前、ほんとそういうとこ変わってないな。普通、こういう場合、あるだろう。エピソードトークの前に、遅れた理由とか謝罪の言葉とか。っていうか、2年ぶりだぞ、会うの。まずは挨拶だろ。こいつが社会人を10年も続けられてる、しかも一部上場企業でばりばりと働いてるって、ほんと信じられないよな」

 澤井の口調はきつかったが、目は笑っていた。学生時代とまったく変わらない川村が懐かしくもあり、そしてそんな川村が、時間をおいて集まったときに特有の照れくささを取り除いてくれたことに対してほっとしてもいるようだった。

 僕も学生時代にそうであったように、二人をとりなした。

「澤井の言うことはもっともだけど、川村だって、きっと会社ではきちんとしてるんだよ。その分、こういうシチュエーションだと気が緩むんじゃないかな」

「そうそう、そういうこと。さすが高野は分かってる」

「調子のいいところも昔のままだ」

「とりあえず、三人揃ったから、乾杯のやり直しから始めようよ。すみません、追加で生三つお願いします」 

 澤井と川村と僕の三人の関係を一言でいえば、大学生時代の友人ということになる。

 同じサークルに入っていたわけでもなければゼミが一緒だったわけでもなかった僕たちが、知り合ったきっかけは学食だった。僕たちは毎日、大学の学食のいつも同じ一角で、なぜか普通の人たちからは三十分ほど遅い昼食を食べていた。そうして顔を合わしているうちに、いつの間にか親しくなった。

 親しくなってからも、何か特別なことを一緒にやったという記憶はない。本やCDを貸し借りしたというようなことはあったけれど、特に共通の趣味もなかった。ただ夕方になると、約束したわけでもなく校門の欅の下で集合して、そのまま誰かの下宿で朝まで飲んだ。

 言ってみれば、特にハイライトのなかった大学生時代の時間の大半を一緒に過ごしただけのことだ。でも、もし僕が青春時代というお題を与えられたなら、最初に頭に思い浮かべるのは二人の顔なのだ。きっと、澤井も川村もそうだと思う。

 大学を卒業して就職してからも、しょっちゅう三人で集まって飲んだ。それが、最初のうちはどこか背伸びしたようだった会社の愚痴が板について来た頃から、集まる機会が減っていった。

 仕事も忙しくなったし、プライベートでも変化があった。

 結婚したのは澤井が一番早かった。勤務先の出版社の先輩と二十六で結婚。川村にとっても僕にとっても初めての友人の結婚式だった。式自体というよりも、結婚式という祝福で満たされた空間の雰囲気に素直に僕は感動した。だけど、それから二年ちょっとで二人は離婚した。

 僕は三十前に結婚し、今は二人の娘の父親だ。商社に勤めている川村はずっと独身だ。

「で、なんだよ、さっきのコンビニの話って」

 乾杯が終わって、少し場が落ち着いたところで、澤井が話を巻き戻した。澤井の仕切りは、学生時代と変わらない、というよりは、仕事の経験を経てさらに磨きがかかっていた。

「ああ、あれね、ええと、なんだったけな・・・」

 川村の天然にも磨きがかかったようだった。

「あ、思い出した。ここに来る途中で煙草を買おうと思ってコンビニに寄ったんだけど、小学生がいてさ、塾帰りみたいなんだよ。こんな時間に小学生がコンビニにって思ったんだけど、」

「別にそんなの珍しくもなんともないだろ」

 僕も澤井に同感だったが、川村は顔の前で両手を振って話を続けた。

「違う違う、話のポイントはそこじゃないんだよ。その子がさ、ペットボトルの水を買ってたんだよ。水が有料っていうだけでも、俺に取っては今でも違和感があるのにさ、小学生がお金を出して水を買うという事実に、俺はびっくりしたっていう話」

 まったく大した話じゃなかった。大した話じゃないなりに、もっとましな構成もいくらでもあった。

 でも、川村の話し方には、本当にそのことにびっくりしたという実感がこもっていた。そして、実際のところ、話に共感や説得力をもたらすのは、内容や構成ではなくその話し方なのだ。なんとなく川本が仕事で活躍している姿が想像できる気がした。

 だからというわけでもないのだろうけど、澤井も今度は川村の言葉をすぐには否定せずに、話に乗ってきた。

「そういうのはたしかにあるな。無料のものが有料になるっていう違和感。俺は、カルピスウォーターが販売されたときにびっくりした。カルピスは無料じゃないけど、カルピスを水で割るっていうプロセスが有料化されたっていうことが、そしてそれが社会に受け入れられたってことが、子供心に衝撃的だった」

 澤井の言葉に、川村は目を輝かせて反応した。

「あれな!原材料は同じはずなのに、カルピスウォーターがいつも家で飲んでるカルピスより全然おいしいんだよな。カルピスと水の、あの魔法の比率を教えて欲しいよな」

 明らかに川村は澤井のポイントを勘違いしていた。でも、澤井は笑顔で川村の言葉を受け止めて、僕の方を向いて言った。

「高野にもそういうのあるか?」

 すぐには答えが思い浮かばず、グラスに残ったビールを飲み干した。店内に流れるジャズのピアノソロが聞こえた。ビールなのかジャズなのか、そのどちらかが記憶を刺激した。

「ちょっと意味合いが違うけど、高校生の時に読んだ村上春樹の小説の中に、『昔、セックスが山火事みたいに無料だったころ』っていう一節があって、そのときはただ語感にドキドキしただけだったんだけど、最近になってふとした瞬間にその表現を生々しく思い出すようになった」

「たしか、『雨やどり』の終わりの一節だったな」

 澤井が記憶を辿るように呟いた。

「昔はセックスも山火事みたいに激しかったってことか?」

 川村が目を泳がせながら確認してきた。

「それだと、セックスが山火事みたいだった頃、になるだろ。そうじゃなくて、山火事みたいに無料だったころ、だよ」

「山火事って、無料とか有料とか言うもんか?仮に、仮にだぞ、山火事が無料だったとして、それはつまり、昔は風俗が無料・・・、なわけないから、というか逆に、お金が誕生する前の物々交換時代のことを言ってるわけか?」

 どんどん話が違う方向にずれていく展開に僕が途方に暮れていると、澤井が助け舟を出してくれた。

「まず、山火事は自然災害なんだから無料だ。それから、山火事自体も比喩だ。俺の意訳も入ってるけどな。ほら、山火事ってのは、乾燥した木と木がこすれあって、自然発火するだろ。木と木は男と女だ。セックスが山火事みたいに無料だった頃、っていうのは、男と女が少し親しくなっただけでセックスに至ったような、そんな若かりし頃の時代のことを言ってるわけだ」

 さすが澤井、出版社に勤めているだけあって、僕が言いたかったことを極めて簡潔にそして的確に言ってくれた。おかげで僕も言葉を継ぎやすかった。

「僕も、そういう意味だと思う。しかも頭の『昔』が効いてるよね。この『昔』がついてることで、単に時間的な距離だけじゃなくて、当時の自分の状況と現在の自分が置かれている状況の隔たりの大きさが表現されている」

「その通り。ここで言いたいのは、昔は無料で手に入っていたセックスを手に入れるために間接・直接的に、金を払わないといけなくなったってことだけじゃない。セックスは人間の本能だ。人生の本質だ。つまり、セックスと自分の関係が変わったということは、自分の人生そのものが変わったっていうことだ」

「分かる、分かるなあ」

「分かるのか」

 大きく目を見開いて驚く川村をよそに、僕たちの話はなお盛り上がっていった。

「どう考えても、色んな意味で今の生活の方が豊かだ。金はある。ブランド物の服を着て、高級なレストランにだって足を向ける。舌を噛みそうになるくらい長い名前の料理に舌鼓を打ち、臆することなく料理に合ったワインをワインリストから選べるようにもなった」

「だけど、だよね。だけど、毎日ジーパンとTシャツって格好で通ってた大学の学食で食べた豚汁とか、サバの味噌煮とか、コロッケが無性に食べたくなる時がある。澤井や川村の下宿で飲んだ、喉が焼けるような安いジンが飲みたくなる時がある」

「そうだ。別に金銭的な意味だけじゃない。仕事を通じて、社会と繋がり、社会にインパクトを与えてもいる。そこには確かにやりがいがある。結婚生活はうまく行かなかったが、それだって、人生経験として俺という人間に深みを与えてくれているわけだ」

「それと比べれば、大学生の頃は社会から切り離されていて、社会のどこに自分の居場所があるのか、いつかそれが見つかるのかどうかすらが分からなくて、いつも心のどこかに焦燥感を抱えていた。でも、ただ単にノスタルジーやないものねだりっていうだけじゃなくて、たしかにあの頃の方が生きているっていう実感があった」

「そう、俺たちはフルに生きていた」

「昔、セックスが山火事みたいに無料だったころにね」

 その一節を口にして、こんなに短いフレーズで僕たちの感情や時代を鮮やかに切り取った、村上春樹という作家の偉大さに、僕は改めて心を震わせた。

「ああ、そう。・・・、ところでさ」

 まるで僕たちの話に興味がなさそうに焼酎のロックをなめていた川村が、思い出したように僕たちの方に顔を向けて言った。

「澤井と高野にも、そんなセックスが無料だった頃があったんだ」

 視線を交わしたわけでもない。それでも、青春時代を共有し、そしてたった今同じ感情を共有したばかりの澤井と僕の答えは、まるでリハーサルを重ねでもしたかのように見事にシンクロした。

「ないよ」

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