24人のベンアフレック

  子供の頃から、人の名前と顔を覚えるのが苦手だった。名前と顔をセットで覚えるのはもちろんのこと、名前だけや顔だけでも覚えるのが一苦労だった。

 日本史や世界史といった人の名前と顔を覚える教科は苦手じゃなかった。むしろ得意と言っても良いくらいだった。だから、僕の問題は記憶力に起因するものではなく、記憶と実生活を繋ぐ線の一本が欠けているということなのだろうと、高校生の頃にそう結論付けた。

 症状は重症だった。それでも、学生時代の人間関係の範囲なんていうものは極めて限定されているので、苦労はしても最終的には記憶の定着を図ることが出来た。

 芸能人の名前は、人気が出てから表舞台から消えるまで、覚えられないことの方が多かった。それでも、歌や番組のタイトルといった彼(彼女)に付随する情報で、友人との会話を乗り切ることは出来た。歳を追うごとにそのスキルには磨きもかかっていった。

 実被害として一番大きかったのは、本屋や図書館でお目当ての小説家の名前が思い出せなくて、五十音順に探さないといけないことだった。

 ただ、名前を思い出せなくても、五十音の前から探すべきなのか後ろから探すべきなのかという点についてはなんとなくイメージが湧いたので、ある程度効率的に探索を進めることはできた。しかも、その余分な作業のおかげで新しい作家に出会えたこともあったから、悪いことばかりでもなかった。

 というわけで、僕の苦手が本当の意味で大問題になったのは、大学を卒業して就職した医療機器の会社で法人営業の部署に配属されてからだった。

 人間関係をベースに様々な情報を引き出し、そこから提案を行ない件名の成約を図る法人営業マンにとって、名前と顔を覚えることは極めて重要だ。というか、法人営業の基礎の基礎、っていうか法人営業どころか紺のスーツにホワイトソックスを合わせるなっていうのと同じくらい、社会人としての常識だ。

 だから、打ち合わせのときは、とにかく名前と顔を覚えることに集中した。新入社員のうちは、打合せの中でも自分が積極的に発言するような場面は少なかったので、先輩社員の隣で商談に耳を傾けてるようなふりをしながら、お客さんの身体的な特徴や、腕時計、筆記用具、話し方、記憶のヒントになりそうなものがないか常に目を光らせていた。

 もちろん一回では覚えられないので、初めての打ち合わせの時に収集した情報をベースに、二回目以降の打ち合わせで自分なりの答え合わせをして、情報の追加や修整を行うことで、何とか記憶を刷り込んでいった。

 苦労が絶えることはなかった。ただ、仕事の上ではなんとか大きな失敗をせずにすんだ。それどころか、名前と顔を覚えようとよほど真剣な顔をしていたのか、若いのに打合せに臨む態度が良いと、口やかましいので有名な先方の購買課長に褒められたこともあったほどだ。

 そうこうしているうちに事態は少しずつ改善していった。残念ながら、症状が改善したわけじゃない。ただ、場数を踏んだことで、落ち着いて対処できるようになった。そのおかげで視野が広がって、それまでは気が付かなかったようなお客さんの癖や特徴をとらえられるようになった。

 そして何より、新しいメソッドを開発したことが大きかった。

 きっかけは先輩の真似だった。ある先輩が、次から次へと増えていくことになるお客様の情報を忘れないようにと、名刺の片隅にお客さんの似顔絵を描いていた。

 会議中に名刺に似顔絵を描くわけにはいかないので、こっそりノートに描いたやつを後から名刺に書き写すのだけど、これが効果抜群だった。先輩の名刺を見せてもらうと、この僕でさえも、すぐにそれが誰だったのか思い出せるほどだった。

 すぐに取り入れようと思った。そして、すぐに壁にぶち当たった。似顔絵が書けなかった。

 顔を覚えられないのと同じ病巣に起因しているんだろうけど、僕は絵が決定的に下手だ。目にしている映像の特徴を脳に上手く伝達することが出来ないのだ。

 せっかくいい手なのにもったいないなと思いながら、数か月がたったころ。良いアイデアがひらめいた。

 似顔絵を描く代わりに、その人によく似た有名人の名前を名刺に書いておくのだ。試してみたところ、意外とうまく行った。名前と顔という、まったくカテゴリーの違うものを結びつけるよりも、顔と顔という同ジャンルの方が結びつけやすいということなのだろう。

 顔の似ている芸能人の名前が思い出せず、付随情報をメモしておいて、後からネットで検索して名前を確認するという余計なひと手間がかかることも多かった。だけど、ここで子供時代に修得した付属情報から辿る技術が役に立った。

 名前と顔を覚える以外の業務は順調だった。名前と顔を覚えるのに苦労しすぎて、他の苦労に目がいかなかっただけなのかもしれない。とにかく、運にも恵まれて、入社五年ほどでいくつかの小さな成果を出すことが出来た。

 転機を迎えたのは、二十八歳の時だった。欧州事業を管轄している、ドイツの販売会社に出してみないかと課長から打診を受けた。

 グローバルな仕事をしてみたい、というのがこの会社を志望した大きな理由の一つだった。仕事を回せるようになってきたという手ごたえと、自分の力を試してみたいという気持ちもあった。

 僕は、二つ返事で課長の打診を受け入れた。 

 いざドイツに赴任してみると、苦労の連続だった。仕事は言うまでもなく、買い物や食事、病院、要は生活の全てが大変だった。ただし、そんな中でも、最大の苦労は、相も変わらず名前と顔を覚えることだった。

 あまりに、相も変わらずなので自分でも少し笑えたが、実際には相も変わらずどころの騒ぎじゃなかった。

 海外に出向するということは担当のエリアが変わるということだから、新入社員の頃から血と汗のにじむような努力で作り上げてきたデータベースを一から作り直さないといけないということは覚悟していた。でも、新しく覚えないといけない、名前と顔の新手が過ぎた。

 日本の頃は、それが正解と紐づかないまでも、答えは見慣れた顔と聞き慣れた名前の中にあった。だけど、海外ではそれが今までの人生の中で実生活ではほとんど見かけたことのないような容姿の人々と、聞いたことのないような名前のマッチングになった。

 赴任前に僕がイメージしていたのが、日本版と比較して数が一気に増えた神経衰弱だったとしたら、実際のそれは、ひっくり返してみても正解かどうかすら分からないような神経衰弱だった。

 しかも、日本で磨きをかけてきたメソッドの多くが使えなかった。日本で目印にしていた、癖やジェスチャーは全部がユニーク過ぎて目印にならなかった。そして何と言っても、痛恨の極みは有名人ヒント作戦が使えないことだった。

 理由は簡単だ。

 外国人俳優を全くと言ってよいほど知らなかった。映画の中の登場人物としては認識できても、役柄を離れた俳優としての知識・認識がなかった。顔の区別なんてつくはずもなかった。

 それでも僕は有名人ヒント作戦に固執し、猛烈な勢いで増えていく名刺の片隅に、思いつく限りの有名人の名前を書き込み続けた。意地になっていたわけじゃない。僕には、その戦い方しかなかったのだ。どうせ討ち死にするなら、握り慣れた愛刀とともに朽ち果てよう。そんな悲壮な覚悟だった。

 その結果、どうなったか?

 ヨーロッパに赴任してきてから一年後、僕の名刺入れの中は、ベンアフレックで溢れ返ることになった。

 他にも複数回登場する俳優はいたけれど、ベンアフレックの登場回数は突出していた。あまりに、ベンアフレックが多すぎるせいで、「年老いたベンアフレック」「しかめっ面のベンアフレック」「突然の雨に降られたベンアフレック」等々、僕の名刺入れは物まねタレントのネタ帳みたいになる始末だった。

 それでも担当のクライアント訪問が二巡目に入るようになって、「年老いたベンアフレック」の隣に「赤系のネクタイ」のような追加情報が記入されるようになってくると、次第に状況は落ち着きを取り戻し始めた。

 そして、その頃には、うちのローカルの営業マンたちの間で、僕の裏メモの存在が知れ渡るようになっていた。打合せ後のラップアップの時に、僕のマッチング結果を聞いてくる、メンバーもいた。

 新規開拓でパリの医療機器代理店を訪問したのはその頃だった。

 フランス人の同僚のジャンが見つけてきたその代理店は、その頃うちが力を入れていた超音波検査装置の分野に特化した代理店で、専門知識という意味でも業界でのネットワークという意味でも、ぜひ組みたい相手だった。

 僕はいつも以上に気合を入れて打ち合わせに臨んだ。

 先方の責任者は女性だった。女性のマネージャーに良くあることだけれど、僕たちのプレゼンに対し、彼女は細かいところまで質問してきた。その中にはかなり突っ込んだ内容のものもあった。打合せはかなりタフなものになった。でも、その分、お互いのことが良く分かった。初回としては満点に近い打合せだった。

「で、彼女は誰だ?」

 打ち合わせ内容とアクションアイテムの確認が終わると、ジャンがにやにやと笑いながら聞いてきた。

「いや、それはちょっと・・・」

「特徴的な女性だったよな。俺にも似た感じの女優はすぐには思い出せない。でも、彼女の方をチラチラ見ながらノートの隅に何か書き込んでたから、誰か思いついたんだろ。教えてくれよ」

 営業でも押しの強いジャンに引き下がるつもりはさらさらなさそうだった。

 仕方なく、ノートの隅に視線を落としたまま、僕は渋々、そこに書いた名前を読み上げた。

「・・・、ミックジャガー」

 あんぐりと口を開けたジャンは、そのまま爆笑し、それから急に真顔に戻ると、こう言った。

「羊の皮をかぶった悪魔め」

 その年の誕生日、ジャンから事務所に僕宛の郵便が届いた。

 開けてみると、ローロングストーンズのCDが入っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る