ゲームセット
小学校三年生になった息子の健太が、地元の少年野球チームに入りたいと言い出した時、俺は大賛成した。今だに昭和の男の子像を持つ俺の目には健太の線が細く見えていたし、そもそも俺は野球好きなのだ。
妻の佐知子は、娘の和葉がまだ二歳になったばかりで手がかかるという理由で難色を示したが、小学生における一年の違いが後々のプレイに与える影響は大きいと、半ば無理やり押し切った。
チームに入団すると、健太は俺が思っていた以上に野球にはまった。練習がない日でも近くの公園で素振りをするほどで、あっという間によく日焼けしたいっぱしの野球小僧になって、俺はもちろん佐知子もその変化を喜んだ。
一つだけ問題だったのは、選手のお母さんたちが持ち回りで担当する練習のお当番だった。計算では月に一度のはずなのに、どういうわけだかしょっちゅう回ってきて、気分的には毎週行っているような気にさえさせられるお当番。この負担が半端じゃなかった。
練習グラウンドの予約・当日の手続きから、飲み物の準備(代表・監督・コーチと子供たちの分となれば自転車に乗りきらないほど大量だ。代表の分は特別注文があり、さらにひと手間かかる上に、代表がいつも来るとは限らない)、練習が始まれば子供たちの怪我(必ず誰かが怪我をする)の手当てに、怪我をした子供の親への連絡、朝早くから日が暮れるまで、本当に目の回るような忙しさなのだ。
「もう、無理」
佐知子が音を上げたのは三か月後のことだった。
「無理って、どうすんだよ。お当番さんは義務だろ。そりゃ大変なのは分かるけど、どのお母さんも頑張ってるじゃないか。お当番さんがきついからって、健太に野球辞めさせるのかよ」
「分かってるわよ、そんなの」
ふてくされているように見えた佐知子の目が怪しく光った。
「一つだけ手があるの」
そしてその翌週、俺は練習にお父さんコーチとして参加していた。
佐知子が言った手というのは、お父さんがコーチとして参加している家庭はお母さんのお当番が免除されるというやつだったのだ。正直めんどくさかったが、入団に至るまでの経緯と、お当番以外でも毎日大変そうな佐知子を見ていると、さすがに断れなかった。
で、参加してすぐに気が付いた。「ああ、ここは俺の居場所じゃないな」と。
俺は野球好きではあるが、野球経験者じゃない。お父さんコーチというのは総称で、必ずしも全員が野球を教える必要はなく、グラウンドの整備や本当のコーチのお手伝いをしていれば良いのだが、とはいえ、野球の経験がないというのは、やはり肩身が狭い。
他のお父さんコーチは新加入の俺をみんな歓迎してくれたが、やっぱり場違い感は否めなかった。何より辛かったのは、俺が役に立っていないことで、健太まで肩身の狭い思いをしているように見えることだった。
これは良くない、健太のためにも、父親の威厳のためにも何とかしないといけない。
ネット裏でひきつった笑みを浮かべながら、頭の中では必死になって、打開策を考えていたその時だった。
「石田さん、審判やってみませんか?」
声をかけてくれたのは、三人兄弟の一番上のお兄ちゃんからずっと息子さんがこのチームで野球をしているという、古株の服部さんだった。
「審判って、やったことないんですけど・・・」
「ああ、大丈夫ですよ。そんなに難しくないですから。少年野球だから、選手の動きやボールの動きもそんな速いわけじゃないし。野球のルールはご存じなんですよね?」
「それはまあ」
「じゃあ、決定だ。一度やってみましょう。教えてあげますから」
こうして、俺は服部さんの指導の下で少年野球審判の道を歩み始めることになったのだが、少年野球の審判は想像していたよりもずっと難しく、そして奥が深かった。
まず審判以前に、試合に集中したまま、点数やアウトカウントやカウントを正確に覚えておくのが難しかった。ルールだって、基本的なルールは理解していても、ゲームの状況によって適用されるルールが違ってくるケースがあったし、プロ野球と違って少年野球ではやたらと不測の事態が起きる。審判なら何とかなるんじゃないかという、俺の甘い考えはあっという間に打ち砕かれた。
だが、審判の難しさを思い知らされる一方で、審判の楽しさも知った。
プロ野球の試合をテレビで見ているときも、自然と審判のポジションと動作に目が行った。実際の試合でも、最初のうちこそおっかなびっくりだったけれど、少しずつ慣れてくると自信をもって判断できるようになり、自分が試合を動かしているんだという気分を味わえた。腹の底から大きな声でコールすると、仕事のストレスが吹き飛ばされるような爽快感さえあった。
何より、審判の人数が足りていなかったということもあり、次第に俺はチーム内で重宝されるようになった。健太の俺を見る目も変わってきたような気がした。
こんな風に、全部がうまく行き始めたある日、事件は起こった。
その日、俺は三塁塁審だった。その頃には俺の審判も板についてきていて、三塁での際どいクロスプレイを自信をもってさばいたシーンは我ながら中々のものだった。そして試合は五回まで進み、ツーアウト、ランナーなし。バッターボックスの左バッターには長打の気配はなく、正直俺は油断していた。
ツーボール・ツーストライクからの五球目だった。明らかな釣り球に、バッターが思わずバットを振りかけて、何とかバットを止めた。主審の判定はボール。
あんなボール球に手を出すかねえ、なんて心の中で顎をさすりながら感想を述べたその瞬間だった。
キャッチャーが立ち上がり、三塁塁審に確認を求めるゼスチャーをした。
ピッチャーが投げたストライクゾーンを外れた球に対し、バッターが振りかけたバットを止めようとしたとき、バットが回ってスイングした(つまり空振り)とみなされるか、それともバットは止まっていてスイングしていない(つまりボール)とみなされるかという、いわゆるハーフスイングの判断は、バッターの後ろにいる主審からは分かりづらい。
そのため、主審の判定に納得いかないときは、右バッターの時は一塁塁審、左バッターの時は三塁塁審、つまりバッターのスイングを正面から見ている審判にキャッチャーは確認を求めることができる。この時のキャッチャーはそのルールに従ったのだ。
おお、さすが強いチームのキャッチャーはしっかりしてるな。少年野球で、きちんと三塁塁審のジャッジを要求するなんて。なあ、三塁塁審に。あれ、三塁塁審って・・・。
頭の中が真っ白になった。ハーフスイングの判定のことなんてすっかり忘れてしまっていた。さらに良くないのは、俺がちゃんと見ていなかったことに球場の全員が気付いたことだった。
落ち着いてスイングでも、ノースイングでもコールすれば良かったのだ。それなのに、パニクッていることがばれた。仕方なく、弱弱しい声でノースイングをコールすると、球場が失笑に包まれた。
「三塁塁審しっかりしろ」相手チームならまだしも、味方チームからそんな野次が飛んだ。ベンチで恥ずかしそうに健太が下を向いていた・・・。
試合後は、服部さんに慰められた。少年野球の審判ではよくあることだと。実際、そうなんだと思う。みんな、家に帰るときにはそんなことすっかり忘れてしまっていたはずだ。
でも俺は違った。その日からは、ハーフスイングのことで頭が一杯になった。審判をしているときはもちろん、通勤の途中でも、本当にその場面を夢にさえ見た。服部さんには、「石田さん、最近目つきが鋭くなりましたね」と冗談半分に声をかけられた。
俺は自分自身に誓ったのだ、次のハーフスイングの時には、必ず健太の前で名誉挽回のジャッジをするのだと。だが少年野球でハーフスイングの判定をするような機会がしょっちゅうあるわけもなく、気が付けば、屈辱の日からあっという間に2か月が過ぎていった。
その日は、夜に近くの神社で夏祭りが予定されていた。そのせいか、祭りに参加する子供たちはもちろん、屋台の手伝いをする大人たちもどこか浮かれた感じで、昼過ぎにプレイボールした試合もいつも以上に和気あいあいとした感じで進行した。
ハーフスイングは、こうなれば必ず起こるとチュエーションというのがない代わりに、いつ起きても不思議じゃない。だからこそ、その二か月間、俺は一球一球に常に身構え、そして肩透かしを繰り返すという、とてつもないストレスのかかる時間を過ごしてきたわけだ。
ただし、一点を争うような緊張感がある試合のほうが、ハーフスイングの審判を求められる可能性は高い。だから、俺はその緊張感のない試合の審判を、少しだけリラックスして淡々とこなしていた。そして、実際、ハーフスイングは出現しないまま、最終回の裏の攻撃を迎えた。
ツーアウトでランナーはなく、バッターボックスには左バッター。カウントまであの時と同じツーボール・ツーストライクだった。その場の全員が、次の投球よりも時計を気にしていた。俺もそうだった。
だが、次の瞬間、俺の頭の中心をビビビと電流が貫いた。理由なんてない。だが、俺には分かった。ついにその時がやってきたと。ずっと待ち続けていた俺にだけは分かったのだ。
ハーフスイングが、来る。
そこからは、全てがスローモーションのようだった。
ピッチャーの手から放たれたボールは、シュート回転しながら外角のストライクゾーンからボールゾーンにそれていった。踏み込んでいったバッターのスイングが途中で止まる。ボールがキャッチャーミットに収まり、主審の判定はボール、立ち上がったキャッチャーが主審に確認を求める。主審が三塁塁審を指さす。
「ノースイング!!」
堂々と宣言した一塁塁審の俺のコールに、三塁塁審のコールが重なった。
「スイング!!」
そして、主審のファイナルコール。
「ゲームセット!!」
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