重いけど浅い

「はい。

 私は小学生時代の三年間を瀬戸内海に面した地方都市で過ごしました。その町には、薬品会社の工場があって、住人の多くがその工場か、工場に関連する仕事に従事していました。私の父はその薬品会社の東京本社で勤務していたのですが、新工場の立ち上げの応援として派遣されることになり、私たち家族も帯同することになったんです。

 転校することになったときは不安でした。初めての転校ということもありましたし、生活の様々な場面で東京と地方の差が今よりも大きかったからです。今振り返ってみれば、実際の生活の差うんぬんよりも、インターネットなどもない時代で、地方の情報が手に入りにくかったということが不安の種だったのかとも思いますが、当時の私にはそんな風に考える知恵も余裕もありませんでした。

 そんなわけで、父の背中に隠れるようにその町に足を踏み入れたのですが、私の心配は良い意味で裏切られました。地方での小学校生活はとても楽しいものだったんです。

 一学年に一クラスしかないような小さな学校でしたが、クラスメートは私のことを温かく迎えてくれました。大きな工場があるとはいえ、東京からの転校生は少なくて、物珍しさもあったのでしょう。でも何より、クラスメートたちは小学生ながらに地方の人特有のおもてなしの心を持っていたように思います。

 学校が小さかったので、登下校もみんな一緒でした。そんなときでも、東京の通行量が多い大通りの歩道を歩いたり、電車やバスを乗り継ぐ通学と違って、すべてが自由でした。

 海も山も近く、自然に恵まれた通学路をみんなでわいわいがやがやと遊びながら通った日々は、今でも私の宝物です。

 転校先での小学校生活を私が満喫することが出来たのが、私を受け入れてくれたみんなのおかげであることは言うまでもありませんが、同時に、私の長所の一つである環境対応力が発揮されたということも、その理由の一つだったと言えるかもしれません。

 母も、私と同じような感じでした。

 引っ越しして最初のうちは東京に比べれば不便な生活に不満を持っていたようでしたが、慣れてくると、新鮮でお買い得な野菜や魚介類に魅了されて、東京時代にはあまり熱心ではなかった料理にはまるなど少しずつ楽しみを見つけていきました。都会とは距離感が違うご近所付き合いも、本質的には社交的な母には意外と合ったようです。

 私と母がその町での生活にうまく溶け込んだ一方で、父は苦労していました。

 東京の本社から送り込まれてきた父に対して、職場の人たちは、表立って父と対立したり、嫌がらせをしたりするようなことはなかったようですが、決して仲間と認めてくれることはなく、工場の立ち上げが予定通りに進んでいなかったこともあって、一時期は小学生の私から見ても分かるくらい、父は疲れ果てていました。毎晩遅くに帰ってきて、元々はあまり飲んでいなかったお酒の量もかなり増えていました。

 日焼けして東京時代よりもずっと元気そうになった私のことを喜んでいた母も、父のことは心配していました。私が夕食後自分の部屋に戻ってから、食卓で顔を突き合わせて、父を励ます母の姿を見たこともあります。

 辛かった父を救ってくれたのは、同じ社宅に住んでいた健さんという、父よりも十歳くらい若い工場の班長でした。

 社宅で父を見かけて心配してくれたのかもしれません。もしかしたら、父の仕事内容に関して個人的に言いたいことがあったのかもしれません。その辺りは今でも分からないのですが、とにかくある日曜日の朝、健さんは突然私たちの部屋にやってきて、父を釣りに連れ出したんです。

 その日の夕方、帰ってきた父に私は釣りの成果を尋ねました。父はクーラーボックスが空っぽになった、と答えました。私が、釣りというのはクーラーボックスを空ではなくて一杯にするものなんじゃないかと、重ねて質問すると、クーラーボックス一杯の缶ビールを舟の上で健さんと二人で飲み干したんだと父は笑いながら言いました。

 私は納得いきませんでしたが、そのときの父が久しぶりに心の底から楽しそうな笑顔を見て、私まで嬉しい気持ちになったことを今も覚えています。

 班長という、現場の中心にいる立場の健さんと腹を割って会話したというのはやはり大きかったはずです。それから全てが一気に良化したわけではなかったと思いますが、それでもその日を境に色んなことが良い方向に動き始めたことは確かです。その意味で、健さんは我が家の恩人です。

 それから、健さんとは家族ぐるみのお付き合いになりました。母も同じことを感じていたのだと思います、健さんの奥さんの桂子さんのことを気遣い、できる範囲・桂子さんがあまり気にしない範囲で、色々と手伝いをしてあげていました。

 というのは、この当時、健さんのご家族には大きな心配事がありました。私の三学年下の二年生だった千佳ちゃんという女の子が心臓病を抱えていたんです。

 千佳ちゃんの病気は、先天性の最終的には命にもかかわるという重いものでした。手術をするしか完治させる方法はなかったのですが、手術は難しく長時間かかるため、病気の進行度合いと手術に耐えうる体力がつく身体の成長を見極めている状況でした。

 看病に加え、桂子さんはパートにも出ていました。それに何といっても、千佳ちゃんがこれからどうなるかわからないという不安があったわけですから、肉体的にも精神的にもかなり苦労されていたはずです。

 母はそんな健さんのおうちにおかずを持っていってあげたり、うちの買い物と一緒に健さんの家の買い物をしてあげたりしていました。私も学校にもあまり通えていなかった千佳ちゃんと部屋で一緒に遊んであげたり、勉強を見てあげたりしました。

 そして私たち家族が引っ越してから、二年半ほどが過ぎた頃です。その町に心臓手術の権威と呼ばれるお医者様がやって来られることになりました。しかも、健さんのことをよく知る工場の幹部の方が、千佳ちゃんの手術を頼むと快く受けてくれたというんです。

 千佳ちゃんの体力もついてきており、一方で病状は進行し、それは最高で、そして同時に最後のチャンスでもありました。

 健さんと桂子さんも、そのお医者様や工場の幹部の方にはとても感謝していました。私たち家族も大喜びでした。ただ、一つだけ問題がありました。それは、手術のまさにその日が、新工場の開所式の日と重なってしまったんです。

 もちろん、工場の幹部の方も私の父も、開所式は欠席して千佳ちゃんの近くについていてやれと健さんに言いました。でも、健さんは父たちの言葉をありがたいと言いながら、頑なにそれを拒否しました。

 班長として、小さな範囲であるとはいえ工場を預かっている以上、そんな大事な日に工場を空けることはできない、それに自分が自分の責任を果たさないと、千佳も病気に打ち勝つという自分の責任を果たすことができない、と言うのです。

 そう言われると、それ以上は誰も何も言えません。

 そして健さんはこともあろうか小学生の私に頼んだのです。手術の時、俺の代わりに千佳のそばにいてやってくれと。

 私はびっくりしました。びっくりしましたし、そんな責任の重いことを引き受けることはできないと思いました。実際、断りもしました。それでも、健さんは諦めてくれませんでした。無理強いするようなことはありません。ただ、小学生の私に頭を下げて、真正面から私の目を見て、頼み込むのです。

 私はこの時、人の心を動かすとはどういうことなのかを学びました。そしてまた、私のもう一つの長所である、いざというときには腹を括れるという性分が顔を持ち上げてきました。

 最終的に私は、千佳ちゃんの手術に健さんの代理として立ち会うことを受け入れ、そして手術の日がやってきました。

 暑い夏の日でした。ストレッチャーに乗せられ手術室に運ばれていく千佳ちゃんを桂子さんと一緒に見送りました。手術室に入る直前まで励ましの声をかけ続け、そして握った千佳ちゃんの手の冷たさと、手術が終わるのを待つ間、廊下の窓から見た空の青さ、満ち溢れているはずなのになぜか聞こえてこなかった蝉の声のことが、異様なくらいにはっきりと今でも記憶に刻み込まれています。

 手術の話をしないといけませんね。手術は、大成功でした。手術室からでてきたお医者様が、なにもおっしゃらずにただにっこりと頷かれたのを見た瞬間、安堵のあまり、私はひざから下の力が抜け落ちて倒れそうになりました。桂子さんが受け止めてくれなかったら、そのまま廊下に倒れこんだかもしれません。

 私を受け止めてくれた桂子さんの身体も震えてました。まるで自分の震えを抑えようとするみたいに、桂子さんは私を強く抱きしめました。

 桂子さんの肩越しに窓が見えました。さっきまで空を見上げていた窓です。さっきまでは空しか見えていなかった窓です。でも、そのとき私は窓の端の向こう側に、健康的な女性の笑顔が大写しにされていることに気が付いたんです。

 それは看板でした。スポーツドリンクを宣伝する看板でした。

 青空に映える、グリーンに白地のロゴのスポーツドリンクを手ににっこりと笑う女性。私には、その女性が桂子さんや、千佳ちゃんや、そして私自身にとっての勝利の女神であるように思えました。

 そしてまさにその瞬間、私は子供心に誓ったんです。

 大きくなったらこの会社に入って、大学での学業・サークル活動を通じて培った知識・経験を十分に発揮することで、会社の事業成長に貢献できるような大人になるんだ、と。

 それが、私が御社を志望する理由です」

 面接官は大きく何度も頷きながら、手元の採点シートに書き込んだ。

「重いけど浅い」

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