大国の限界

「私のアメリカ人の同僚に食通の者がいて、・・・ええ、もちろんアメリカ人と言えばファーストフードばかり食べてるイメージがあるのは知ってます。でも、彼は本当に美味しいものを食べるのが大好きで、食に対するこだわりも強いんです。ここイタリアに出張してきたときは、到着した時からずっとピザの話ばかり。

 ピザと言っても、アメリカにもあるような大手のチェーンじゃないですよ。たしかに、ミラノのピザハットはアメリカ人の観光客で溢れかえっています。だけど彼は違うんです。アメリカを発つ前に、ガイドブックやネットで地元のお店をちゃんと調べてきてるんです。それで、どこそこのピザが美味しいらしいから、仕事が終わったら連れて行ってくれとリクエストしてくるんです。

 先日、ベニス近郊のスセガナに出張した時もそうでした。お客様とのミーティングが終わって駐車場で私がカーナビを設定しようとしたら、すぐに、俺たちの行き先は事務所じゃなくてこのピッツェリアだと、自分で行き先を入力し始めたんです。

 いつものことなので、私も文句も言わず、車を出すと彼が設定したカーナビ通りに走らせました。それから二十分くらいでしょうか、到着したのは、大通りからは一本入ったところにある、こじんまりとしたいかにも地元の人が贔屓にしそうな感じのお店でした。

 お店に入ると、これまたアメリカ人には珍しく英語ではなくて、下手なそれでもちゃんとイタリア語であいさつしながら席に着きました。彼がアメリカ人っぽいことは一目瞭然なので、お店の人も興味を持ってくれたんでしょうね、笑顔ですぐにメニューを持ってきてくれました。

 迷うことなく彼はアペロールのスプリットを注文しました。そう、ビールではなくて、北イタリア定番の食前酒の。お店の人は、いよいよ彼に一目置いたようでした。

 しばらくしてスプリットを持ってきたお店の人に食事を尋ねられると彼は、待ちきれないよというような表情でこう言ったんです。

 『ピッツァ・アメリカーノ』って。

 私はこう思いました。ああ、これが大国の限界なんだって」

 ドイツの販売会社に出向して三年、ヨーロッパ各地の顧客との会話の時に、これは僕にとって鉄板のネタだった。

 イタリアだろうとフランスだろうとポルトガルだろうと、それがイギリスであってさえ、僕がこの何度話したかわからないエピソードを語り終えると、彼らは一様に「うん、お前は分かってるな」という表情を浮かべ、そして僕を、マルコポーロの旅先からはるばるやってきた余所者ではなく、彼らの側の人間として認めて商談を始めてくれた。

 もちろん、アジア人に対する偏見が完全になくなるわけじゃない。ただ、同じ価値観を持つものとして認めてもらうことができたということだ。でも、それがビジネスの場面では本当に役に立った。

 EUという壮大な挑戦は、開始から四半世紀で早やほころびをいたるところで見せ始めている。そもそも、世界中を探しても、これだけ多様な人々が凝縮して暮らしている地域は他にないのだから、挑戦の壁が高いのは当然で、時代の高揚がそのことを一時的に覆い隠していただけという方が正しいのかもしれない。

 その反面、欧州人気質というのは確かに存在する。

 その一つが、アメリカに対する屈折した思いだ。

 ヨーロッパの人たちはアメリカ人を、一言でいえば粗野な成金だと見ている。見下しているといっても良いかもしれない。だが、その一方で、アメリカという国が体現している自由や、そこから生まれてくる文化に対してはひそかな憧れを抱いている。

 アメリカ人を見下しておきながらアメリカの文化に憧れを抱く。その矛盾は、ヨーロッパの人たちが目を背けたい純然たる事実だ。でも、そんな屈折した思いを忘れさせてくれる場所がある。それが、文化の中でも王道と言っても良い食文化だ。

 ヨーロッパの多様性はそのまま食文化の多様性に現れている。ヨーロッパの食文化は多様なだけでなく、長い歴史に裏付けられ、そして繊細だ。それは正に、ヨーロッパのアメリカに対するアンチテーゼそのものだ。

 アメリカ人の食に対するセンスを揶揄するようなジョークを口にする。ヨーロッパ人でもアメリカ人でもない僕が。それだけでも、ヨーロッパの人たちが悪く思うはずがない。しかも、ここで決定的に重要なことがあった。

 それは、僕が日本人であるということだ。

 日本には、ヨーロッパと同じく歴史がありそして繊細な和食という文化がある。そして、ヨーロッパの人たちは和食の価値を認めている。だから彼らは僕の言葉に共感したのだ。

 こうして彼らの懐に飛び込んでいく。これが僕の必勝法だった。

 ちなみにこの作戦には、懐に飛び込んでいった後に、さらにぐっと相手を引き寄せる第二弾があった。

 それは、「ヨーロッパの食文化っていうけど、ドイツは結局ビールとソーセージだけなんですよね」作戦だ。

 アメリカに対しては、団結してヨーロッパという地域的アライアンスを組むことに抵抗がないヨーロッパの国々ではあるけれど、それじゃあヨーロッパ域内の国々はお互いのことを好ましく思っているかと言えば、そんなことはない。全くない。

 そもそも、国境を接して暮らしてきただけに、お互いに思うところが大いにある。好きなところも目につきやすい。でも、人間というのは基本的に嫌なところが目についてしまう生き物だ。

 ときに表面化するヨーロッパの国同士でのあからさまな対抗心を、兄弟げんかのようなものと、微笑ましく眺めることもできる。だけど、それだけで終わらせてしまうには、侵略と紛争で多くの血が流されてきたヨーロッパの歴史は、あまりに重い。EUほころびの原因は、多様性だけにあるわけではないのだ。

 ほぼすべての国の間に何らかの因縁があり、その組み合わせで無数の関係性が作り上げられている。ただそんな中で、唯一共通していることがある。それはドイツが嫌われているということだ。

 記憶に新しい二度目の世界大戦でドイツが行ったことを考えれば、その感情は理解しやすい。でもそれだけじゃない。そんな歴史に輪をかけているのは、ヨーロッパの中で飛びぬけたドイツの経済的な成功だ。

 しかも真面目なドイツ人は、特にラテン系の国の人たちを見下す傾向がある。それでなくても、面白みがないのだ。人気者になれるわけがない。そしてドイツに対してその他のヨーロッパの国の人たちが優越感を持てるのが、これまた食事だというわけだ。

 ドイツ以外の国に出張して、クライアントと名刺交換する時、僕は必ずこう挨拶した。

「今日はお打合せさせていただけて本当に嬉しいです。御社とのビジネスに期待しているのはもちろんですが、打合せ後にソーセージ以外のものが食べられるので」

 この作戦もうまく行った。特にフランスでは絶大な威力を発揮した。いつも同行するフランス人の同僚のジャンが、僕の言葉にかぶせて笑い声をあげる。そんなところまで仕上がるほどだった。

 その日パリ近郊のクライアントの打ち合わせに向かう車中でも、僕たちは幕前の打合せにいそしんでいた。

「ところで、その新任の購買マネージャーとは面識があるの?」

 打ち合わせに向かう車の中で、運転するジャンに尋ねた。

「いや、メールでやり取りしただけで、実際に合うのは初めてなんだ。分かってるのは、前任のオリビエがやたらと彼女のこと買っていて、将来のことも考えて、自分の後釜に据えたってことくらい」

「彼女?タフだね」

 ヨーロッパで仕事をしていると女性のマネージャーと当たる機会は多かった。女性の幹部だって珍しくなかった。だから、女性であるということを特別視していたわけではなかった。ただ、概して女性の方が細かく、商談相手としては手ごわいことが多かった。

「まあ、最初はお手並み拝見というところだな。ああ、あと、一点グッドニュースがある。名前からして、彼女はストラスブールのあたりの出身だと思う」

 ストラスブールはフランス東部、ドイツの国境近くの街だ。その歴史の中で、ドイツの侵略を受け、ドイツの領土だった時期もある。ドイツ風の名字が多いのはそのせいだ。

「つまり、一般のフランス人以上に、ドイツ人に対しては色々あると」

「そういうことだ」

 ジャンはにやりと笑いながら、車を駐車場に入れた。

 フランス人女性にしては大柄な新任女性マネージャーは、フランス人らしく隙のない、それでいてセンスの良いビジネススーツで身を固めていた。たしかにこれは手ごわそうだ。僕は心の中で呟きながら早速攻略に取り掛かった。

「初めまして、タカノと申します」

「初めまして、アンナです。タカノさん、今日はわざわざありがとうございます」

「いえ、ご挨拶させていただきたいとお願いさせていただいたのはこちらの方ですし、それに、」

「それに?」

「打合せ後に、フランスのビストロでランチが食べられるというのは正直魅力的です。今ドイツに住んでいて、普段はビールとソーセージしか食べてないので」

 最初、アンナが見せたのは戸惑いだった。

 微妙な空気が流れ、僕の背中を嫌な汗が流れた。そこで、すかさずジャンが例のさりげなく小さな笑い声をあげてくれた。絶妙のタイミングだった。

 一瞬の間があり、それからゆっくりとアンナの顔に笑みが浮かぶのを僕は確認した。彼女が僕の言葉の意味を理解したことは間違いなかった。

 よし、これで今日の打ち合わせもこっちのペースで進められる。

 僕は胸をなでおろした。でも、それもつかの間のことだった。

アンナはたしかに笑っていた、でもその笑顔に、僕はこれまでに僕が見てきたのとは違うニュアンスを感じた。それは、どこか勝ち誇ったような笑みだった。

 不安に駆られて胸の鼓動が早まった僕を、正面からまっすぐに見つめてアンナは言った。

「私、ビールとソーセージには詳しいんですよ。ドイツ人なので」

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