彼は匂う

 次の所長が、ヨーロッパから帰任してくる若手エリートだという噂が流れたとき、社内の反応は否定的なものの方が多かった。

 うちは医療用電子機器を世界各国で販売する会社で、オペレーションはグローバルで統一されている。とは言え、やはり日本国内には日本特有の商習慣というかやり方があり、それがヨーロッパ帰りの人に理解してもらえるだろうかという不安があった。

 そんな不安に、若手エリートに対する一般的な偏見や妬みのようなものが加わって、人事異動が正式に発表される前から、歓迎しないムードが醸成されたというわけだ。

 噂通りの人事が公表されたのは、一か月前のことだった。

「遂に、決まったらしいよ。例の人事」

 私に教えてくれたのは、隣の課の同期の谷部君だった。

 オープンな性格で誰とでもすぐに仲良くなる谷部君は社内の情報通で、耳寄りな情報があると必ず私のところに報告に来てくれる。女子大時代の私の友達との合コンという下心があるとはいえ、そういう情報とは全く縁遠い私にしてみれば、とても助かる存在だ。

「例の人事って?」

「噂になってただろ、ヨーロッパ帰りの新所長。ムッシュだよ、ムッシュ」

「なんでムッシュなの?」

「フランス帰りだからに決まってるだろ」

 いつもはお調子者の谷部君にしては珍しく、苦々し気な口調だった。

「へえ、谷部君も新所長人事が気に入ってないんだ?」

「俺は、別に、海外帰りだからどうこうっていうのはないよ。むしろ、今のうちの営業スタイルには変えないといけないところがたくさんあると思ってるし、そういうのを変えれるのは、やっぱり新しい知見と視点を持っていて、しがらみがない人だとも思う。ただ、」

「ただ?」

「なんか、うさん臭いんだよな。あいつは匂う」

「あいつって、谷部君その人のこと個人的に知ってるの?」

 それは意外な新情報だった。

「知らないよ。知らないけどさ、菜々先輩が、昔、そいつと職場が一緒だったらしくってさ。すごい仕事もできるし、しかも人間的には優しくて、素敵な人だって」

 菜々先輩というのは、谷部君の課の三つ上の女性社員のことだ。

 女優さん?というくらいに端麗な容姿と、主張しすぎないのに抜群のファッションセンス、そして上司にも私たち後輩社員にも分け隔てなく気配りができるその性格で、職場で絶大なる人気を得ている。当然のごとく谷部君も菜々先輩に憧れている。崇拝してるといってもいいくらいだ。

 というわけで、谷部君の新所長評が、嫉妬からくる、取るに値しないものであることはあっさりと判明した。

 ただ、そんな風に、まるで根拠のないところで身構えたり揶揄したり、会ってもいないのに悪い感情を抱いているという意味では、否定派のほとんどの人がそうだったように思う。私はこの件に関しては本当に中立な立場だったけれど、着任する前からこんな、四面楚歌的なムッシュのことが少し気の毒だなとは思った。

 でも、全ては杞憂だった。ムッシュこと中井新所長は、あっさりと皆に受け入れられた。

 初出勤日に中井さんが営業所に出勤してきたときは、これはまずい、と思った。

 派手ではないけど明らかに高級そうな仕立ての良い細身のスーツを着こなし、ピカピカに磨き上げた革靴で事務所内を歩き回り、誰かれ見つけると、自分から話しかけお辞儀をせずに握手した。フランス帰りであることは隠そうとせず、むしろ積極的に会話の中でフランスでのエピソードを披露した。

 それは皆が思い描いていた、もし新所長がこんな奴だったら嫌だよな、を見事に体現していた。ある意味、いくら何でもそこまできたらベタ過ぎるよな、を体現していたくらいだ。

 それなのに、そんな周囲のリアル中井さんへの反応はと言えば、拍子抜けするくらいに好意的だった。

 あまりにそのまんま過ぎて、皆が毒気を抜かれてしまったところもあった。そうなってしまったことはもうどうしようもないという諦めもあった。でも、そんな服装や立ち振る舞いが中井さんにしっかりと馴染んでいて嫌みがなかったこと、そして何より、中井さんのコミュニケーション能力の高さが大きかった。

 海外帰りの新所長を警戒していたのは、私たち所員だけではなくお客様もそうだった。でも、お客様からの評判も極めて短期的に一転した。

 これは聞いた話だけど、お客様が設定してくださった会食や、お客様からお土産を頂戴した時にも、

「これはやっぱり、日本でしか食べられないから、ほんと嬉しいです」とか、「いやあ、実は、ここの小豆大福、フランス人のお客様が大好きで、僕もはまってるんです」などと、お客様を立て、お客様が優越感を感じられるようなコメントで、お客様を喜ばせていたそうだ。

 一歩間違えばあざとさを感じさせるような台詞だが、中井さんの場合は、どんなときでも心の底からそう感じていると相手に思わせる表情や身振りで伝えるので、相手も素直に受け取ってくれるのだ。

 あっさりと手の平を返す人も多く、中井さんが来るまでは反中井の急先鋒だったベテラン社員が、中井さんの影響でフランスのブランドのネクタイをこっそりつけるようになったときには、女性社員の更衣室でちょっとした話題になった。

 中井さんに関して言えば、もう一つの特徴が香水だった。

 それもフランスの文化なのだろうけど、中井さんはいつも香水の香りを漂わせていた。私は少し苦手だったけれど、それにも格好良いと憧れる若手社員がたくさんいた。

「中井さんって、いつもいい匂いするよな」

 当然のようにあっさりと中井さん派へ転向した、谷部君もその一人だった。

「谷部君、中井さんのこと、あいつは匂う、って言ってたけど。あれはそういう意味だったの?」

 私があてこすると、

「違う、違う!!あれは、ほんと大反省」

 必死になって否定したかと思うと、

「この間さ、トイレの大きい方をする個室に入ったらさ、凄くいい匂いがするの。あれきっと、俺の前に中井さんが使ったんだろうな。あの香水、どこで買えるのかなあ」

 と、とろんとした表情を浮かべて、訳のわからないことを言った。

 仕事的にも役職的にも、中井さんと私にはほぼ接点がなかった。ほぼ接点がないことが最初から分かっていたから、首尾一貫して中井さんに対して客観的な見方が出来ていたともいえる。

 ところが、しばらくして、私は中井さんの仕事を近くで目にするようになった。

 うちの事務所には、ハイテーブルが二つと、ハイチェアが四つある。これは座らずに立ったまま仕事をする人用のもので、一昨年事務所のリノベーションをした際に、新しいワーキングスタイルだと工務店の勧めで導入されたものだ。だが、最初のうちこそ、物珍しさで何人かが使用してみたものの、定着することはなく、ただの背の高い物置と化していた。

 ところが、中井さんはフランスにいたときから立って仕事をする習慣だったらしく、たまに所長室から出てきて、ハイテーブルで仕事をするようになったのだ。

「立ってる方が、資料作成の時かとかは集中できるんですよ。健康にも良いですしね」

 と、うちの課長に中井さんが説明しているのを聞いた。

 そして、そのハイテーブルが、私のデスクのすぐ隣にあったのだ。

 所長が自分のすぐ隣で立って仕事をしているという状況には、最初はやっぱりちょっと緊張した。ただ、中井さんは自分の周りの人に気を遣わせる感じの人ではないし、こっちに来て仕事をしている時の中井さんは完全に作業に集中していることがすぐに分かった。

 というわけで、そんな状況も、あっという間に私の平凡な会社生活の見慣れた一風景となった。

 そんなある日、私は仕事中に異音がしていることに気が付いた。感じで言えば、緩衝材のプチプチをつぶすような音。その音がテンポ良く五回くらい続く。そしてしばらく時間をおいてまた五回。それが繰り返されるのだ。小さく、でもはっきりと。

 その現象はその日だけに留まらなかった。私はその異音をそれからたびたび耳にした。そして、何度もその現象に遭遇しているうちに、私はある規則性に気が付いた。その異音が発生するのは、中井さんが私のそばで仕事をしている時だけなのだ。

 異音自体はあまり気にしていなかったのだけど、異音と中井さんの因果関係は気になった。

 最初は、仕事をしながら中井さんが小さく口笛を吹いたり、指先でテーブルを叩いたり、手遊びをしているのかと思った。集中している時にそういう癖が出る人はいる。でも、口笛とはやっぱり音が違うし、注意して見ていても、中井さんの手と音に連動しているところは見られない。

 そして、いつしかその謎ときは、私の仕事中の息抜きになっていた。

 その日も資料を作り終えた私は、中井さんの方から聞こえてくる、耳なじみ過ぎてもはや異音とも呼べなくなった異音のことを考えていた。仕上げたばかりの資料に細かい数字があったせいで、頭が疲れていた。だから、中井さんを観察する目もいつもよりぼんやりしていた。

 それが良かった。

 ぼんやりと中井さんの全体像を眺めていたおかげで、私は、異音が中井さんの身体の一部分の動きとシンクロしていることに気が付いたのだ。そして、一度気が付いてしまえば、それは異音のたびに簡単に確認することが出来た。

 それまで私が注意を払っていなかった身体の部分。それは、お尻だった。

 異音がするたびに、中井さんは払うようにお尻を少し左側に動かした。つまり、異音の正体はおならだったのだ。

 それが、私が真相にたどり着くのに時間がかかった理由の一つでもあるのだろうけれど、音がいわゆる定型のブッとかブリッとかと違う分、いわゆる定型のおならの匂いが漂ってくることもなかった。

 ただ、気のせいか、異音がするたびに、中井さんの香水の匂いが少し濃くなるような気がした。

 謎を解明した達成感に浸りながら私は、食生活の違いなのかな、と思った。

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