ラブホテルの入口の前のバス停

「うちの家の近所に、ラブホテルの入り口の真ん前のバス停があるんだ」

 僕は争いごとが嫌いだ。そして、ごまかしが下手だ。

 その結果、争いごとを避けようとして、話を逸らそうと深い考えもなく別の適当な話題を繰り出しては、余計に相手の怒りの火に油を注ぐような真似を、二十五年ほどの人生で繰り返してきた。それはほんと、細川勝元と山名宗全が戦を繰り返した室町時代の再現のように繰り返してきた。振り返ってみたときの、死屍累々な感じもそっくりだ。

 そんな、僕のごまかし失敗アーカイブの中でも、ピカ一にひどかったのが、今紹介したやつだ。あまりのひどさに僕の中で殿堂入り扱いされているそれは、大学生の時に付き合っていた彼女との喧嘩(と言っても、一方的に僕が罵られていただけだけど)の最中に、僕の口からこぼれ落ちた。

 今となってはどうしてそれほどまでに彼女が怒っていたのかは、まるで記憶に残っていない。記憶に残っているのは、とにかく彼女が猛烈に怒っていたこと。とにかく話を逸らしたかった僕のごまかしが震えるくらいにひどかったこと。そして、僕のごまかしがいつものように彼女の怒りを爆発させることがなかったことだ。

 そう、ラブホテルの入口の前にあるバス停の話は、彼女の怒りを増長させなかった。それどころか、彼女は僕のごまかしを聞いたとたんに、まるで憑き物が落ちたように冷静さを取り戻した。彼女は寂しそうとも言えるし、僕を憐れんでいるとも言える、なんとも言えない表情を浮かべた。

 そして、その表情のまま、僕を正面からまっすぐに見つめ、僕の前から立ち去り、それから二度と戻ってこなかった。

 ところで、ラブホテルの入り口の前のバス停は実在する。それは、僕の家の最寄りのバス停の三つほど吉祥寺寄りにある。

 時間が読みにくかったり、ストップアンドゴーが多くて酔ったりもするので、僕はバスを使うのがあまり好きじゃない。それでもやむを得ない理由でバスを使い、そのバス停の前を通るとき、僕はいつも彼女の最後の表情のことを思い出す。

 僕の人生のどんな他の場面でも、どんな映画の場面でも見たことがない、小説でもぴったりな表現に出会ったことがない、彼女の最後の表情のことを思い出す。その度に、どうしてだか胸の奥がぎゅっと切なく軋む。

「突っ込みに使えそうやなあ」

 友達と酒を飲んでいて話題がなくなったので(ちなみに僕は会話の中の沈黙も苦手だ)、僕がそのバス停の話をすると、関西出身の岡部が言った。

「突っ込み?」

「ああ、誰かぼけたり、変なことがあったりするやろ、そしたら、『お前それ、ラボホの入口の前にあるバス停か!!』って」

「最近はやりの、長めの例え突っ込みか。俺あんまり好きじゃないんだよな」

 北海道出身の宮田が応えた。

「突っ込みかどうかは別として、それって何の例えなの?」

 僕が素直な感想を口にすると、二人のグラスを持つ手が止まった。

「いやがらせ・・・、とかちゃうの」

 しばらくして岡部が言った。

「なるほどね。でも、なんかちょっとニュアンスが足りてないよね」

 僕が返した。

「まあ、そうやな」

 しぶしぶという表情で、岡部はグラスを口に運んだ。

「余計なおせっかい、かな」

「おお」

 宮田の一言に、岡部と僕は同意の声を上げた。

「それやな。ただの嫌がらせだけではないんやよな。どちらかと言えば、本人は好意でやってる。でもそれが、受ける側からすると余計な事せんとってくれやって、奴やな。それやそれ、余計なおせっかいで決定や」

「でも・・・」

 最初はなるほどと思ったのだけど、岡部の補足を聞いていて、疑問が浮かんだ。

「その好意って誰に対しての好意?」

「そりゃ、ラブホ使うカップルやろ。両方が実家住まいで、近所にラブホがなくて、車持ってないカップルやっておるやろ」

「もちろんいるだろうけどさ。でも、そのバス停使う?」

「たしかに。俺ならたとえホテルの前にバス停があったとしても、彼女と利用するなら、ひとつ前のバス停で降りて、辺りの様子をうかがいながら近づいていくな」

 宮田が僕に同調した。

「でしょ。かと言って、近所の人たちからしても、もちろん近くにバス停があるのは便利なんだけど、あのバス停で降りるのも、あのバス停で待つのも、正直ちょっと気まずいよね」

「俺みたいな遠くから近づいてくるカップルに様子を探られてるかもしれないしな」

「じゃあ、あれやあれ、余計なおせっかいじゃなくて、あれや」

 どうでも良い(それは百パーセント正しい)話題に飽きたのだろう、岡部がイライラと、明らかに話を終わらせようという感じで声を上げた。

「なに?」

「思慮足らず、や」

 岡部の言い方が、舌足らず、みたいなのが面白くて笑った。

 それから二週間ほどしてのことだ。

吉祥寺に行く予定があったその日、朝から雨が降っていた。雨の中を駅まで歩くのもめんどくさかったので、仕方なくバスを利用することにした。

 バス停に向かって歩いていると、公園に金木犀の花が咲いていた。金木犀の甘く芳しい香りに秋雨の冷たい水の匂いが混ざり、その匂いを嗅いでいると、深い水の底に沈んでいくような気がした。

 雨の日にしては珍しく、バスは時刻表通りの時間にやってきた。

 傘をたたみながらバスに乗り込み、交通系のICカードで支払いをして、奥の座席に座った。バスには、僕の他に、優先座席にお年寄りが二人(おじいさんとおばあさん)とその向かいに買い物帰りらしきおばさんが一人、それから一番奥の席に大学生くらいに見えるカップルが乗っていた。女の子は今時珍しい三つ編みだった。

 バスが走り出した。信号で止まることはあったけど、バスから降りる人もバスに乗り込んでくる人もいいないまま、三つのバス停を超えた。

 ラブホテルの入口前のバス停が近づいたとき、老人の一人が降車ブザーを鳴らし、下りる準備を始めた。僕は、いつものように昔の彼女のことを思い出していた。窓ガラスの雨滴に反射して、彼女の表情はなんだかいつもよりも寂しそうだった。でも、その方があの日の彼女に近いような気もした。

 スピードを落とし、バスがゆっくりと止まると、降車用の後ろのドアと乗車用の前のドアが同時に開いた。

 僕はぼんやりと窓の外を眺めていた。そんな僕の視界を白い塊が横切った。その日は風が強かったから、最初はビニール袋がどこかから飛んできたのかと思った。でも違った。それは白い服を着た女性だった。ラブホテルの入口から出てきた、白い服を着た女性が、そのままバスに乗り込んできた。

「え?」

 思わず声が出た。慌てて、声を飲み込んだ。探し物なんて何もないのにカバンの中を漁り、何かを探しているようなふりをして取り繕おうとした。

 僕だけじゃなかった。買い物袋を抱えたおばさんも僕の後ろのカップルも、そして離れた場所にいるバスの運転手からも明らかに動揺が伝わってきた。

 何も知らない(あるいは、こういう気まずい場面で何も知らない振りができるだけの人生経験を身に着けた)おばあさんだけが平然と座っていた。いや、正確にはおばあさんとラブホテルの入口から直接バスに乗り込んできた彼女だけが平然としていた。

 実際、彼女の立ち振る舞いは堂々としたものだった。

 もちろん、悪いことをしているわけじゃないのだから、こそこそしないといけない理由なんてない。ないんだけど、それでもね、というのはあると思う。でも、彼女は普通だった。ある意味、普通の人より普通で、そして落ち着いていた。

 彼女は交通系ICで支払いをしようとして、タッチがうまく行かなかった。バスの支払いでてこずるのは、駅の改札でてこずるのよりも周りの目が気になって気が急くものだ。しかも、こんな状況ならなおさらだ。

 ところが彼女は、取り乱すようなそぶりを見せることもなく、慌ててまだエラーが解除されていない読み取り機械にタッチするようなこともなく、エラーが解除されるのをきちんと待って、それからゆっくりとICカードを読み取り機械にかざした。しかもそれを三回も繰り返した。

 まさにこうあるべしという立ち振る舞いだった。

 支払いを済ませると、席に座ることはなく、彼女は後部ドアの近くに立った。手すりを持つ彼女の立ち姿があまりに自然なので、僕も彼女をバスの中の一光景としてとらえることが出来た。

 白いシャツに紺色のパンツとパンプスといういで立ちの彼女は、全体的にしっかりとした感じだった。その服装や、長いストレートの黒髪、ナチュラルなメイク、そういった特徴を並べれば清楚というイメージも合いそうだけれど、それ以上にしっかりとした感じだった。

 たぶんそれは、背筋を伸ばした彼女の立ち方と、はっきりとした鼻筋、まっすぐに前を向いた大きく意志の強さを感じさせる目のせいだった。

 ちょっと怒ってるんじゃないか、そう思うくらい真剣で硬い横顔に、僕は彼女の戦いのようなものを感じた。

 戦いと言ってもそんな大げさなものじゃなくて、試験や面接、大事な商談とか、日常の些細な、でも本人にとっては大事な戦いに彼女が今まさにこれから臨もうとしているような、そんな印象を受けた。

 世の中にはどうにもならないことがある。いや、どうにもならないことの方がずっと多い。それでも、前に向かって進むしかない。彼女もそうだし、僕もそうだ。でも、僕のまなざしは彼女のようにしっかりと前を見据えているだろうか?

 理由もなく胸が熱くなった。僕は彼女の戦いを見届けたいと思った。

 僕の心の中の動きを知る由もなく、ラブホテルの入口の前のバス停を出発したバスは、すぐに次のバス停で止まった。

 彼女がバスを降りた。

 思いもよらぬ展開の連続に、バス全体がざわついた。ように僕は感じた。

 後ろのカップルが会話しているのが聞こえた。

「なんかの罰ゲームかな・・・?」

 彼氏が言った。

「プレー、じゃない?」

 三つ編みの彼女が返した。

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